「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

軍事郵便の料金免除の条件

 このページでは、郵便史としても興味深い、第一次世界大戦中のやや特殊な事情がかいま見られる葉書を取り上げたい。

郵便料金免除の条件

 通常、兵士は所属する部隊の印を捺してもらう(そして郵便物担当下士官に手渡す)ことで郵便料金が無料になり、切手を貼る必要はなかった。
 しかし、兵士であればいつでも郵便料金が免除されるとは限らなかった。いわゆる「軍事葉書」を使えば無料になったわけでは決してなく、また「軍事郵便」を意味する F.M., S.M., C.M. などの文字を書き込めば無料になったわけでも決してない。

 軍の組織から郵便物を出す場合は、郵便物担当下士官が取り仕切ったので、問題は起こりにくかったが、休暇を得るなどして一時的に所属の部隊から離れ、家族のもとに滞在中だったり、途上の駅などから差し出す場合は、注意が必要だった。この場合、郵便料金が免除されるためには、しかるべき手順を踏んで(たとえば軍付属の機関や郵便局の窓口に出向いて、葉書に印を捺してもらうなどして)本当に兵士が差し出した郵便物であることを明らかにする必要があり、単に民間の郵便箱に入れただけでは(たとえ軍事葉書を使おうとも、また軍事郵便を意味する F.M., S.M., C.M. などの文字を書き込もうとも)郵便料金の免除は適用されず、配達先で不足額が徴収された。

1916年5月10日-休暇中の兵士、駅軍事委員会の印

 次の葉書は、「駅軍事委員会」の印が捺されているために、郵便料金が免除扱いとなっている。
 本文や宛先から、ある兵士が休暇を得て故郷に帰る途中、フランス南東部リヨン近郊のパニシエールに住む妻に宛てて、パリ南東にあるコルベイユ=エッソンヌの駅から差し出したものであることがわかる。
 おそらくフランス北東部あたりで戦っていて、帰郷するためにいったんパリを経由し、リヨン方面の列車に乗るためにコルベイユ=エッソンヌの駅に立ち寄ったのだと想像される。
 一般に、休暇をもらった兵士が故郷に到着する時刻を家族に知らせる場合は、電報も用いられた(たとえば兵士Aの手紙の3通目26通目を参照)。ただし、電報の場合はお金がかかった。その点、葉書や軽い封書なら兵士の特権で無料になったし、手軽に出すことができた。電報にしなくても、実際に本人が鉄道で到着するよりは、葉書のほうが早く届くと思ったのだろう。実際、当時は一日に何度も頻繁に手紙の取集と配達がおこなわれていたので、ひと足先に葉書が到着することも多かったらしい。

1916年5月10日

1916年5月10日

〔写真説明〕
コルベイユ - ガリニャーニ広場

〔本文〕
 1916年5月10日
  いとしいマリーへ
すべて順調だ。
今夜、夜8時ごろに到着できると思う。
無数のキスを送る
  (サイン)

〔紫の大きな印〕
P.L.M. (*1)
コルベイユ=エッソンヌ(*2)
(セネ=ワーズ県)
駅軍事委員会

〔引受消印〕
セネ=ワーズ県コルベイユ
16年5月10日13:30

〔宛先〕
ロワール県
パニシエール(*3)
豚肉屋
ヴリュイール奥様

(*1)P.L.M.とは「パリ・リヨン・地中海」社(正式名称は「パリ・リヨン間および地中海間 鉄道会社」)の略。1938年、他の複数の鉄道会社とともに国営化され、現在のSNCF(フランス国有鉄道)となった。
(*2)コルベイユ=エッソンヌ Corbeil-Essonnes はパリの南東30 kmにある人口2万人程度(当時)の街。
(*3)パニシエール Panissières はリヨンの西30 kmのところにある人口4千人台(当時)の町。このように、当時は「パニシエール 豚肉屋」だけで郵便物が届いた。



1917年9月10日-休暇中の兵士、「兵士の家」の印

 休暇中の兵士が移動中に郵便物を無料で出す場合、おそらく最も捺されていることが多いのは、上で取り上げた「駅軍事行政官」・「駅軍事委員会」の印だが、その他の軍関係の機関の印が捺されていることもある。次の葉書は、「兵士の家」の印が捺されているために、郵便料金が免除になっている。
 本文では冒頭に「パリにて」と記され、「今夜、私はニームに出発します」と書かれているが、捺されている印は南仏ニームのものなので、パリで葉書を出すつもりが、出しそびれて列車に乗ってしまい、ニームで立ち寄った兵士向けの施設「兵士の家」から差し出されたことがわかる。
 南仏からギリシアのサロニカに出発することが告げられている。

1917年9月10日

1917年9月10日

〔写真説明〕
ベルク=プラージュ(*1) - 海水浴の時間の海辺

〔本文〕
 第267砲兵連隊 休暇中
パリにて、9月10日
 休暇をすごしたベルクから戻ってきました。ベレクでは運よくジュールとレオンに会うことができました。レオンは最近コンサートを開き、大成功を収めたそうです。
 今夜、私はニームに向けて出発します。第38砲兵連隊に合流するためです。その後、サロニカに向かうことになりそうです。
 みなさん全員にキスを送ります。
       レオン・ペラール
     第38砲兵連隊(*2)

〔紫の楕円形の印〕
兵士の家

〔それに重なった引受消印〕
ガール県ニーム(*3)
17年9月13日

〔宛先〕
ヴェール近郊
ヴィレット(*4)
バゴ様方
マドレーヌ・リグーレお嬢様

(*1)ベルク=プラージュ Berck-Plage はフランス最北部、対岸にイギリスを望む街ベルクにある海水浴場。なお、この写真に見られるように、当時(第一次世界大戦まで)の女性は、必ずくるぶしまであるスカートをはいていた。
(*2)葉書の上部に書き込まれている連隊名とは異なる。サロニカに出発するにあたって、所属が異動になったらしい。
(*3)ニーム Nîmes は南仏マルセイユに近いガール県の都市(県庁所在地)。紫の楕円形の印に重なって、逆向きに捺された丸い黒い印の外周に NIMES, GARD という文字の一部が読める(葉書の左下の隅にも同じ印が捺され、GARD の一部のみ読める)。

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(*4)ヴェール Vert もヴィレット Villette も、フランス国内で10箇所以上もある、ありふれた地名だが、ここではパリの西隣のイヴリーヌ県にある村ヴェールと、その南隣にある村ヴィレットを指すと思われる。



1918年5月1日-休暇中の兵士、郵便局の「窓口に手渡し」

 次の葉書は、休暇中の兵士が郵便局の局員に直接手渡し、そのときに本当に兵士であることが確認されたので郵便料金が免除になるという意味をこめて「窓口に手渡し」REMIS AU GUICHET のスタンプが押されている(同じ意味のスタンプに「窓口に提出」DÉPOSÉ AU GUICHET 等がある)。スタンプの形や色はさまざまで、手書き+局員のサインで代用することも多い。この葉書では、スタンプに加えて手書きで「窓口」Guichet と書き込まれている。
 いずれにせよ、こうしたスタンプないし書き込みがなければ、配達先で不足料金が徴収されていたはずである。
 本文や宛先などから、休暇を得てフランス中央部の街ヴィシーの故郷に戻った兵隊が、北仏のおじ・おば夫妻に宛てて書いたものがわかる。
 ミミズの這ったような字体で書かれているが、癖が少なく、綴りは正確。

1918年5月1日

1918年5月1日

〔写真右下の説明〕
ヴィシー - カジノ(*1)

〔差出人〕
R. ピナール、第233歩兵連隊(*2)、休暇中

〔本文〕
  おじ様、おば様
 私はやっと休暇が得られ、もらって当然の休息を両親のもとで満喫しています。みな元気でおり、皆さんもそうであることを願っています。こちらではいい戦区にいる(*3)と感じていますが、家族がみな散り散りになっているのは残念なことです。来る予定のベルトおばさんにしか会えないでしょう。だから、みなさんも来てください、楽しみましょう!
 愛を込めて 敬具
   レイモン

〔右上の紫の印〕
窓口に手渡し

〔左上の郵便局員による斜めの書き込み〕
窓口

〔引受消印〕
アリエ県ヴィシー
18年5月1日16:30

〔宛先〕
カルヴァドス県カーン
サン=ピエール通り74番地
ラング御夫妻

(*1)ヴィシーはフランス中部の街。温泉があり、保養地としてホテルやカジノなどの施設が充実していた。第二次世界大戦中は対独協力のヴィシー政権が置かれたことで有名。
(*2)第233歩兵連隊は、1915~1916年にはヴェルダンの戦い、1917年にはクランヌ(シュマン・デ・ダム)など、まさに大戦を代表する主戦場を転戦し、多くの死傷者を出した。
(*3)前線で部隊の展開する地区のことを「戦区」といい、たとえば動き(戦闘)の少ない場合は「静かな戦区」という言い方をするが、ここでは休暇で戻っている故郷を冗談で「いい戦区」と書いていると思われる。



1916年10月14日-兵士の手紙を「郵便箱にて発見」、不足料徴収

 休暇中の兵士が葉書を出す場合は、軍隊で出す場合と同様にすべて無料だと思い込んで切手を貼らずに郵便箱に投函してしまうことも多く、その場合は一般に(郵便局員の「温情」による故意の見すごしがなければ)配達先で料金を徴収された。次の葉書はその一例で、貼ってあるのは「不足料切手」と呼ばれるもの。

1916年10月14日

1916年10月14日

〔写真説明〕
シャルトル - 大聖堂(南側)

〔差出人の名〕(葉書上部)
ラリヴィエール、第25猟歩兵大隊 第11再召集兵中隊 第8分隊
ノジャン=ル=ロトルー(*1)

〔本文〕
シャルトル(*2)にて、1916年10月14日
 親愛なるご両親へ
農業休暇から戻ってきました。2週間最後までいることはできませんでした。食べるものがあまりなかったので(*3)。この機会を利用してシャルトルに寄っています。皆さんを強く抱擁します。
  レオン

〔宛先〕
セーヌ=アンフェリウール県ルーアン
ラ・ロッシュ通り22番地の2
ラリヴィエール様

(*1)ノジャン=ル=ロトルー Nogent-le-Rotrou はシャルトルの西50 km程度のところにある人口8千人台(当時)の街。差出人はこの街で農業に従事しており、ルーアンに住む両親とは別に暮らしていたことがわかる。
(*2)シャルトル Chartres はパリの南西90 kmにある人口2万人台(当時)の都市。
(*3)軍隊では食事が支給されたが、かえって一般市民の方が食料の入手に苦労する場合もあったらしい。

 この葉書の各種の印の意味と捺された順序は以下のとおり。

 1. まず、休暇中だった差出人は、自分で写真面の左上に FM(軍事郵便につき郵便料金免除)と書き込んでシャルトル駅の郵便ポストに入れた。
 2. しかし、これでは差出人が本当に兵士であることが証明されず、郵便料金免除扱いにはならないので、この葉書を取集した郵便局が「ウール=エ=ロワール県シャルトル駅、16年10月14日」の消印(右上)を捺すと同時に、「到着地にて不足料金 Taxe を徴収すべし」(Dictionnaire philatélique et postal, p.198)を意味する逆三角形の「T」の印を捺し、その状況説明として(つまり郵便局の窓口で受け取ったのなら兵士であることを確認できたが、郵便箱に入っていたために確認できなかったことを示すために)「郵便箱にて発見」Trouvé à la boîte の印(左上の細長い印)を捺した。
 3. ついで、ルーアンの配達局において20サンチームの不足料切手が貼られた。これは、当時の葉書料金は10サンチーム(1フランの10分の1)だったが、切手を貼らずに葉書を出した場合は既定の料金の倍額が徴収される決まりとなっていたことによる。この不足料切手の上に「セーヌ=アンフェリウール県ルーアン、16年10月16日」の印が捺されている(写真面の左下の印も楕円形で形状は異なるが同内容)。

参考:大戦中の郵便料金と貨幣価値



1917年7月5日-軍で働く女性、受取り「拒否」

 次の葉書は、前線からはほど遠いフランス中央部アリエ県に駐屯していた歩兵121連隊の「物資局」で働いていた未婚の女性(リュシー、愛称ルル)に同じ県内から差し出されたもの。軍隊で働いていても、女性なのでもちろん兵士ではなく、郵便料金免除の対象とはならなかった。差出人は F M(軍事郵便につき郵便料金免除)と書き込んで投函しているが、料金不足の「T」の印が捺され、既定の倍額の30サンチームの不足料切手が貼られている(ここまでは上の葉書と同じ)。
 しかし、この女性は郵便配達人に対して受取りを「拒否」している。おそらく、勤務先の連隊の兵士から好意を寄せられることが多く、こうした種類の葉書をよくもらっていたので、そのたびに不足料金を徴収されるのに嫌気がさし、拒否することに決めていたのではないかと想像される。兵士の好意を「拒否」しているような感じもして、ちょっとおもしろい。

1917年7月5日

1917年7月5日

〔写真説明〕
ル・ブルトン(*1)(アリエ県)-ル・メの館

〔宛先の右上の字〕
F M(軍事郵便につき郵便料金免除)

〔本文〕
17年7月5日
ルルさん、こんにちは。
友情のしるしを送ります。
私の心からの思いを。

〔宛先〕
アリエ県モンリュソン(*2)
歩兵121連隊
物資局
リュシー・パンお嬢様

〔右の丸い消印〕
ル・ブルトン、アリエ
17年7月6日

〔不足料切手の上の2つの丸い消印〕
モンリュソン、アリエ
17年7月7日

〔四角い印〕
拒否

〔左上の黒い万年筆での書き込み〕
配達人に拒否(サイン)

(*1)ル・ブルトン Le Brethon はフランス中央部オーヴェルニュ地方アリエ県にある人口約1,000人(当時)の村。モンリュソンに近い。この村に差出人が住んでいたと思われる。
(*2)モンリュソン Montluçon はアリエ県にある人口3万人台(当時)の都市。



1915年8月19日-休暇中の兵士、軍事葉書に切手を貼って投函

 次の葉書は、「休暇」を得てパリの両親のもとに帰った兵士が再び前線に復帰する途中で、フランス北東部サン=ディジエの駅から両親に宛てて差し出したものであることが文面からわかる。
 この兵士は、しかるべき手続きを踏んで郵便料金を無料にしようとせずに、「夜6時」という時間もあって、それが面倒だと思ったのか、切手を貼って出している。
 もし切手を貼らずにこれを郵便箱に投函していたとしたら、配達先で不足料金を徴収されていたはずである。「軍事葉書」が使われているが、差出人の所属する部隊の印が捺されておらず、また兵士宛でもないからである。

1915年8月19日

1915年8月19日

〔差出人〕
第31歩兵連隊
第4中隊 伍長
P. ランジュ
郵便区番号10

〔本文〕
サン=ディジエにて、1915年8月19日(夜6時)
 親愛なるご両親へ
 この駅から、心からのキスを送ります。
 5日間パリ市民となりましたが、また(ほとんど)ムーズ県民に戻りました(*1)。
 近いうちに手紙を書きます。親愛の情を込めて あなたの息子より
    サイン(ピエール)

〔切手上の引受消印〕
オート=マルヌ県サン=ディジエ
15年8月19日

〔宛先〕
パリ12区
リヨン通り49番地
ランジュご夫妻

(*1)消印を見ると、ムーズ県ではなく、実際には隣のオート=マルヌ県から差し出されている。おそらく所属する部隊はムーズ県に展開していて、まだそちらに向かっている途中なので、正確には「ムーズ県民」ではないが、「ほとんど」ムーズ県民だと言いたいのだろう。ユーモアの感じられる表現である。

 なお、この葉書は、自転車振興団体フランス・ツーリング・クラブ(FTC)が自分たちの団体の広告を兼ねて配布したものと思われ、国旗の束の中央には「FTC」のマークが描きこまれている。国旗は、左側は上から日本、イギリス、ベルギー、右側は上からセルビア/モンテネグロ、ロシア、フランス。



1915年2月20日-間違って倍額の切手が貼られたスイス宛の葉書

 大戦中に兵士が差し出す葉書は、基本的にはすべて郵便料金が免除された。外国宛の場合も無料になるはずだったが、外国当局との取り決めが不十分だったために、実際には届け先で不足額が徴収されてしまうという事態が発生していた。その不具合を解消するために、兵士に代わって軍または民間の郵便局で切手を貼るサービスがおこなわれるようになった (Cf. Mognon, p.25)1916年10月3日-小包へのお礼を述べたスイス宛の葉書も参照)。しかし、次の葉書は、兵士自身が切手を貼ったのではないかと思われる。
 というのも、本来なら、外国への葉書料金は国内宛と同様に10サンチームだったが、次の例では20サンチーム分の切手が貼られているからだ。
 本文を読むと、以前、切手を貼らずに出してしまったことを詫びる内容が書かれているが、切手を貼らなかった場合は既定の倍額の不足料金を徴収される決まりとなっていたので、そのときは20サンチーム徴収されたはずである。以前受け取った手紙のなかでそのことを知らされた差出人が、外国宛の郵便料金は20サンチームだと思い込み、20サンチーム分の切手を貼ってしまったのだと推測される。

1915年2月20日

1915年2月20日

〔宛先〕
スイス ジュネーヴ
シェンヌ=ブール
カフェ
アレクシ・スーダン様

〔差出人欄〕
ドゥリール・ブーシャ
第108国土防衛連隊
本隊外中隊(*1) 郵便区86

〔本文〕
1915年2月20日
いとこご夫妻へ
あい変わらず元気でやっていることをお伝えするために一筆さしあげます。皆さんもお元気であることを願っています。切手を貼らずに手紙を差し上げてしまったことをお許しください。ジュネーブ宛には切手を貼る必要があることに気づきませんでした。私はあい変わらず補給部隊にいおり、まだここにいると思います。私みたいな特殊な作業をする者は、この連隊に必要なのだと思います。メと家内から便りをもらいました。まずまず元気でやっています。しかし私と同様、こうしたことが早く終わりますように(*2)。私たちの少しつらい危険な状況にもかかわらず、いずれ皆さんと再会できると思っているいとこより(アンリ)

(*1)本隊外中隊とは、連隊に所属し、指揮伝達・管理、兵站・補給などを担当した部隊のこと。書記官・従卒、兵器担当将兵、電信兵、担架兵・音楽隊、炊事兵などが含まれた。
(*2)このあたりは文のつながりがおかしい(全体的に、この葉書には綴りまちがいも多数含まれている)。



返送

 別のページで、被占領地宛に出されて返送された葉書について扱ったが、ここでは、大戦中に返送扱いになったそれ以外の葉書について取り上げてみたい。

1915年8月4日-転送後、返送された葉書

 次の葉書は、もとは至ってシンプルな内容ながら、いろいろな書き込みや印によって、ずいぶんにぎやかになっている。
 この書き込みや印が捺された順序について考えてみよう。

1915年8月4日

1915年8月4日

 もともと差出人が書いたものだけを取り出すと、以下のようになる。

〔差出人〕
パリ6区
パラティンヌ通り3番地
控訴院弁護士
エミール・ドゥブレ

〔宛先〕
従軍中
第41植民地連隊
第19中隊
エミール・カロ様
パリ中央局経由

〔本文〕
親愛なるカロへ
 パリに4日間のよい休暇をすごしにやって来ました。あなたに心からの気持ちを捧げます。もし我々2つの連隊が合流することがあったら、喜んでお会いして握手をしたいと思っているのですが。
 ご健闘をお祈りします
     エミール・ドゥブレ

 それでは、どのような順序でこの葉書が転送されていったのか、分析してみたい。

 まず、差出人欄に「弁護士」と書かれているが、それは戦争前の職業であり、本文を読むと、休暇を得て4日間パリにやって来た(おそらく自宅に戻ってきた)だけで、どこかの部隊に属する軍人となっていることがわかる。

 国旗にかかるようにして丸い日付印が捺されており、15年8月4日と読めるが、外周部分は下半分が欠けているので、局名がわからない。しかし、1916年当時のパリの郵便局の一覧を参照しつつ、他の郵便物に捺された類似の消印と見比べると、おそらく上は「PARIS 110」、下は「R. DE RENNES」と書かれていると思われる。パリ6区のレンヌ通り郵便局(局番号110)である。だとすると、この郵便局は差出人のいるパリ6区パラティンヌ通りのすぐ近くにあるので、この日付印は差し出してすぐに捺されたものと推測される。大戦が始まって、ちょうど丸1年が経過した頃である。

 通常、従軍中の兵士に手紙を差し出す場合は、所属する部隊の「郵便区」番号を書き込み、直接その部隊に届けられた。しかし、ここでは「郵便区」番号が不明だったらしく、「パリ中央局」経由で送られている。パリ中央局でこの部隊(第41植民地連隊第19中隊)の場所が調べられ、届けられたことになる。

 しかし、この第19中隊(「中隊」は二百数十人の単位)を受け持つ郵便物担当下士官によって、左上に鉛筆で「第19中隊では不明」Inconnu 19e と書き込まれている。これは「第19中隊にはエミール・カロなる人物は見当たらない」という意味である。
 さらに、赤いペンで転送先住所として「パリ、オーベルカンプフ通り154番地ポール・グリア(*)様方」と書き込まれた(*字体が読みにくいため推測)

 そこで、この葉書はパリ11区の「オーベルカンプフ通り154番地」に転送となったが、ここに届けに行った郵便配達人は、黒いペンを使って大きめの字で斜めに「154番地から住所なく(=転居先住所を知らせずに)転出」「住所なく完全に転出」と走り書きしている。そして、郵便配達人の個人印「XI 17」を捺している(楕円形と円形)。これはサイン代わりに捺したもので、おそらく「パリ11区のNo. 17の郵便配達人」を意味する。

 ついで、この葉書はパリ11区の郵便局に持ち帰られ、局員が青い字で斜めに「退去」 Evacué と書き込み、「住所を残さず転出」PARTI SANS LAISSER d'ADRESSE と「差出人に返送」RETOUT À L'ENVOYEUR という 2 つの四角い印を捺した。
 さらに、青いクレヨンを使って宛先に取り消し線を引き、同じクレヨンを使って、返送先として見やすいように差出人住所を囲った。

 こうして、この葉書はパリ6区の差出人のもとに返送されたことがわかる。

 ただし、差出人は4日間しかこの場所にいなかったはずなので、この葉書が返送された頃には、とっくに所属する部隊に戻っていたはずである……。



1917年11月30日-オリエントから返送され、転送された手紙

 次の手紙は、当時パリに滞在していた未婚の女性がオリエント(ギリシア方面)の兵士に宛てて送ったもの。

 いわゆる「カルト・レットル」と呼ばれる手紙で、一枚の紙の片面に文面を記して二つ折りにし、のりづけして出すタイプのもの。外周に沿って点線状の穴があいているので、受け取った人は端を破り捨てて、広げて読んだ。

 差出人と受取人の関係は、本文の冒頭と末尾に「名づけ子」と「代母」であると書かれている。「代母」とは、本来はキリスト教の教会で幼児が洗礼を受けるときに「名づけ親」となる女性を指すが、ここでは「戦争代母」を指すと思われる。その理由は、Vous (あなた)という距離を置く言い方をしていること、当たりさわりのないことしか話題に出していないこと、小包を送ると言っていること、そして名前に「嬢」Mlle という未婚の敬称がついていることである。

1917年11月30日

1917年11月30日

 まず差出人が書いた部分だけを取り出してみよう。

〔本文〕
パリにて、1917年11月30日金曜
 親愛なる名づけ子へ
 あなたのことで大変心配しています。あなたの最後の手紙は7月付でしたし、もうあなたが今どちらにいるのか、わかりません。
 念のため、オリエントの宛先に書いてみます。この手紙が届くとよいのですが。
 あなたがフランスに戻り、船から下りたらすぐにお手紙をいただけるものと期待していました。しかし、何も受け取っていません。
 早く返事をください。そしてどの住所に小包をお送りすればよいのか教えてください。
 私はいまパリにおりますので、

〔左の余白に垂直に〕
お手紙は パリ(9区)クリシー通り44番地 までお送りください。あなたからのお便りを今か今かとお待ちしています。

〔右の余白に垂直に〕
私の心からの思いをお受け取りください。
あなたの代母 アンヌ・ブラゼールより

〔宛名〕
アルフォンス・ヴァニュフェル様
第284連隊 輜重隊
第5大隊
郵便区509-A

〔差出人〕
パリ(9区)クリシー通り44番地
アンヌ・ブラゼール嬢

 封筒の右上に、差出人は C.M.(軍事郵便物)という文字を書き込んでいる。

 なお、封筒の裏面には、カラーで国旗の束と雄鶏の絵が印刷されている。

1917年11月30日

 国旗は左上からイギリス、フランス、ベルギー、ロシアの当時の国旗で、雄鶏はフランスの象徴「ガリアの雄鶏」である。
 国旗の下には、雄鶏の言葉を代弁するように「我こそは栄光の雄たけびを上げる!」と記されている。

 手紙の表面、宛名の右上には日付印が捺されており、17年12月1日12時と読みとれる。外周の局名は、当時のパリの郵便局の一覧と照らし合わせると、「パリ84 バリュ通り」PARIS 84 R. BALLU と書かれているらしいことがわかる。

1917年11月30日

バリュ通りはパリ9区にある。ここから、この日付印は手紙を投函してすぐに捺されたものと思われる。

 本文に「オリエントの宛先に書いてみます」と書かれているとおり、宛先の「郵便区509-A」はオリエント(ギリシアのサロニカなどの方面)に展開する東洋軍の一部隊に割り当てられていたらしい。
 こうして、この手紙ははるばるギリシア方面へと向かった。

 しかし、この手紙は宛先不明で返送されることになる。

 まず裏面を見てみよう。雄鶏の上に「45不明」と記され、右下にはサインらしきものが書き込まれている。「45」の意味はわからないが、「不明」Inconnu とは「配達先の住所にその人が見当たらない」ことを意味する。

 さらに、その左下には小さな字で「異動中」と書き込まれている。

1917年11月30日

 ここから、郵便物担当下士官がこの手紙を届けにいったら、宛名の人物が見当たらず、部隊が異動になっていたらしいことがわかる。

1917年11月30日

 手紙の表面中央の住所には、斜めに黒い「留守部隊では不明」INCONNU AU DEPOT という印が捺され、その上には「差出人に返送」RETOUT À L'ENVOYEUR という印が捺されている。
 さらに、赤いペンで宛先に大きく×印がつけられ、差出人住所が囲まれている(「こちらに返送すべし」という意味)。

 こうして、はるばるギリシアに渡ったこの手紙は、差出地パリに戻ることになった。

 しかし、本文に「私はいまパリにおります」と書かれていたように、差出人は一時的にパリに滞在していただけで、自宅は別にあった。この手紙が返送されてきた頃には、もう自宅に戻っていたらしく、返送にいった郵便配達人はパリの住所に差出人を見つけることができなかった。そこで、青の太いクレヨンで住所に取り消し線を引き、同じ青のクレヨンの矢印の先に、黒く細いペンで、転居先として

 「ドゥー県
  モンベリアール
  フェーヴル通り
  25番地」

と書き込んだ。ドゥー Doubs 県はフランスの東の端、アルザス地方やスイスに隣接する地域にある。
 よく見ると、転居先住所を書き込んだ郵便配達人の個人印らしき印も捺されている。

1917年11月30日

 さらに、黒い「差出人に返送」の印にかかるようにして、紫色の字で斜めに文字が書き込まれているが、これは郵便配達人のサインなのか、判読できない。

 いずれにせよ、パリ→ギリシア方面→再びパリ→ドゥー県と渡り歩いたこの「カルト・レットル」は、再び差出人のもとに戻り、差し出した本人が点線に沿って開封したのだと考えられる。数か月前に自分が書いた内容を、念のため確認しておきたいと思ったのだろう。

 点線は、かなり雑にちぎられている。

 このちぎり方からは、やはり届かなかったのかという落胆の感情が読みとれる気がする。



検閲

 軍事機密や戦争への批判などが書かれたものは、検閲によって墨が塗られた。

1915年1月15日-宛先以外は墨一色

 次の葉書は、おそらくフランス北東部シャンパーニュ地方にいた兵士が家族または親類に宛てたものと思われるが、宛先を残して文面はすべて墨が塗られている。

 こんな真っ黒に塗られたものを受け取ってもしかたない気もするが、変なことは書くなという警告の役目は果たしたのかもしれない。

1915年1月15日

1915年1月15日

〔写真説明〕
1914年の戦争-シャンパーニュ地方の農場でのモロッコ原住民騎兵の野営

〔右の印〕
主計及び郵便 ?8
15年1月11日

〔左の到着印〕
15年1月?日

〔宛先〕
ジェール県ラグローレ(*1)
ブルダ
ジェルメーヌ・カピュロン様

(*1)ラグローレ Lagraulet(正式にはラグローレ=デュ=ジェールLagraulet-du-Gers)はフランス南西部ジェール県にある人口700人程度(当時)の村。



1915年8月22日-全面に塗られた墨

 次の葉書は、オート=アルザスにいた兵士が家族または親類に宛てて出したものと思われるが、全面に墨が塗られている。宛名も残らず塗られており、これだけでは届くはずがないので、もともと封筒に入れられていた葉書だったと思われる。おそらく軍の関係者が検閲のために封筒を開封し、内容に問題ありと判断して、墨を塗った上で封筒に入れ直し、送ったのではないかと想像される。

1915年8月22日

1915年8月22日

〔写真説明〕
1914~15年の戦争
オート=アルザス(*1)-前哨

〔写真右上の書き込み〕
1915年8月22日

(*1)オート=アルザスはアルザスの南半分(標高の高い側、つまりスイス寄り)を指す。県でいうとほぼオー=ラン Haut-Rhin(直訳すると「ライン河上流」)県に相当する。



(追加予定)














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