「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

被占領地の葉書

「占領された宛先地」印のあるアルデンヌ宛ての葉書

 1914年8月上旬、中立国ベルギーを侵犯したドイツ軍は、8月下旬にはベルギーのすぐ南にあるフランスのアルデンヌ県に到達し、フランス軍との激しい戦闘を経て、同月末にはアルデンヌ県の全域を支配下に収めた。
 第一次世界大戦中、県の全域がドイツ占領下に置かれたのはアルデンヌ県だけであった(その他、部分的にドイツに占領されたのは、エーヌ県、オワーズ県、ソンム県、ノール県、パ=ド=カレー県、ヴォージュ県、ムルト=エ=モゼル県、ムーズ県、マルヌ県の合計9県)。
 占領されたとは知らずにアルデンヌ県などのドイツ占領下の地域に住む人々に宛てて差し出された葉書には、四角い「占領された宛先地」と書かれた印(※)が押され、届けられなかった。

  • (※)四角い「占領された宛先地」LIEU DE DESTINATION ENVAHI の印は、大戦初期には「トゥール臨時センター 1914」TOURS CENTRE PROVISOIRE 1914 と書かれた二重丸の印と交互になった機械印であった。「トゥール臨時センター」となっているのは、占領地宛の葉書はフランス中西部の都市トゥール Tours に集約されていたことによる(集約されなくなったのちも、この機械印はしばらく使われ続けたので、この印があるものすべてがトゥール経由だったわけではない)。その後、「トゥール臨時センター」の印は廃止され、1914年終わり頃には四角い「占領された宛先地」の印だけになったらしい。

 ドイツ軍はおもに北~北東から攻めてきたので、それを逃れて避難(疎開)する場合は、フランス南部や西部をめざすことになった。

 以下の葉書は、差出人も宛先もさまざまだが、いずれも主に大戦初期にアルデンヌ県宛に出された葉書である。一般市民が戦争に巻き込まれているようすがよくわかる。



1914年8月27日-避難途中から残してきた両親へ(1)

 次の葉書は、ドイツ軍の侵攻を避け、アルデンヌ県に住んでいた家族が祖父母のみを残し、夫婦が子供一人をつれて三人で南隣のマルヌ県に避難した先から出したもの。

1914年8月27日

1914年8月27日

〔宛名〕
アルデンヌ県
ソー=レ=レテル(*1)
ミュジエール夫妻

〔四角い印〕
宛先は被占領地

〔二重丸の印〕
トゥール臨時センター、1914年

〔本文〕
1914年8月27日
事故もなく真夜中に無事到着しました。
あなたの子供と孫
J, M, G.(*2)ミュジエールより

〔引受消印(写真面)〕
マルヌ県エペルネー駅(*3)
14年8月27日

(*1)ソー=レ=レテルSault-lès-Rethel はアルデンヌ県にある人口400人程度(当時)の村。
(*2)この3つの頭文字は、両親と子供一人のファーストネームの頭文字だと思われる。アルデンヌに老夫婦を残し、両親が子供一人をつれて南隣のマルヌ県に避難し、そこから出した葉書であることがわかる。なお、この葉書の10日後の9月6日からは有名な「マルヌ会戦」が始まるので、この避難先では危ない。
(*3)エペルネーはアルデンヌ県の南隣にあるマルヌ県の人口2万人台の街。



1914年8?月28日-避難途中から残してきた両親へ(2)

 次の葉書は、アルデンヌ県ムーゾンから、両親を残して子供三人だけで南隣のマルヌ県サント=ムヌーまで避難してきたものの、この先どうしてよいかわからず、両親に宛てて出したもの。南仏トゥールーズまで逃れたいと書かれている。
 消印の日付の月はかすれて読めないが、文面の内容から、8月ではないかと推測される。ひとたびドイツ軍の支配下に置かれると、もう街から自由に移動することはできなくなったからである。
 なお、太い青鉛筆での R の文字は郵便局員が書き込んだもので、おそらく「返送」を意味する Retour の頭文字。

1914年8?月28日

1914年8?月28日

〔宛名〕
アルデンヌ県
ムーゾン(*1)
ルダルネ様

〔引受消印〕
マルヌ県
サント=ムヌー(*2)
14年?月28日

〔本文〕
親愛なる両親へ
サント=ムヌーに着きました。私たちは元気です。お二人も元気であることを願っています。エミールはトゥールーズに向けて出発したがっています。どうしたらよいかわかりません。お二人を強く抱きしめる娘より リュシエンヌ
お二人を愛する娘より心からのキスを ルネ(*3)

〔写真上の説明〕
ロンギュイヨン(*4) - メス通りとソール地区

(*1)ムーゾン Mouzon はアルデンヌ県の東端にある人口約1,700人の街。当時、こうした小さな町や村に手紙・葉書を出す場合、番地などは書かず、「○○村××様」だけで届いた。
(*2)サント=ムヌー Sainte-Menehould はマルヌ県のなかでも東寄りにある街(当時人口約5千人)。
(*3)エミール Emile は男、リュシエンヌ Lucienne とルネ Renée は女の名。兄弟3人で疎開し、とりあえず南側の大きな街まで列車で逃れてきたものの、この先どうしてよいかわからず、途中から両親に葉書を出したものと思われる。
(*4)ロンギュイヨン Longuyon はムルト=エ=モゼル県の北端にあるベルギーと国境を接する街。通常、葉書を出す場合は、差出地の写真の葉書を選ぶものだが、サント=ムヌーの写った葉書が入手できなかったとみえる。



1914年9月6日-疎開先のフランス南端ニースから

 次の葉書は、ドイツとの戦乱を避けて、フランスの南の涯にある地中海に面する保養地ニースに避難し、そこからアルデンヌ県に住む女友達に宛てたもの。

1914年9月6日

1914年9月6日

〔宛名〕
アルデンヌ県
スダン(*1)
ガンベッタ通り14番地
C. ドラクロワ夫人

〔本文〕
 いとしい友人へ
 兄に会うために私たちはニースで合流しました。しばらく兄と過ごせることはうれしいことですが、同時に憂鬱でもあります。兄がここから旅立つとしたら、それはおそらく新兵と一緒のときでしょう。それにしても、この恐ろしい戦争が長びいているのは、なんと不安なことでしょう。繰り返しますが、ぜひあなたもいらしてください。アルベール・マルタンはどこにいるのですか。

〔左上の書き込み〕
 危険になった場合は、あなたと一緒にアルベール・マルタンと彼の家族もヴィラ・パラディにいらっしゃることを歓迎すると、彼にお伝えください。
 変わらぬ友情と希望とともに
 M. マイヤール

〔引受消印〕
アルプ=マリティーム県ニース(*2)
14年9月6日

〔写真左下の説明〕
モンテカルロ - ル・カフェ・ド・パリ
テラス席

(*1)スダン Sedan はアルデンヌ県にある人口2万人弱(当時)の都市。ベルギーと国境を接している。大都市なので、宛先には通りの名と番地も記載されている。
(*2)消印はニースだが、表面の写真はニースのすぐ東側にある避暑地モンテカルロを写したもの。



1914年9月11日-隣県の街ポン=タ=ムッソンから

 次の葉書は、隣のムルト=エ=モゼル県の街ポン=タ=ムッソンに住む女性が、アルデンヌ県に住む親戚に宛てて出したもの。
 おそらく、この差出人は疎開したのではなく、もともとポン=タ=ムッソンに住んでいたのではないかと想像される。

1914年9月11日

1914年9月11日

〔宛名〕
アルデンヌ県
フュメ(*1)
ジラン薬局
ルイ・ボール様

〔引受消印(写真面)〕
ムルト=エ=モゼル県ナンシー
14年9月12日

〔通信面の四角い印〕
占領された宛先地

〔通信面の二重丸の印〕
トゥール臨時センター

〔本文〕
ポン=タ=ムッソン(*2)にて、1914年9月11日
ルイ様
思いつくままに書きます。ポンは5日からドイツのものになっているので、この葉書があなたのところに届くかわかりませんが。私はエレーヌのことで困っています。エレーヌは風邪をひいてもう歩けず、牛乳しか飲めなくなっていますが、困ったことに牛乳が手に入りにくくなっています。毎日3~4リットル飲ませる必要があるのに、見つける苦労を考えてもみてください。こんな時期でなかったら、欲しいだけ手に入るのでしょうけれど、牛がほとんど全部いなくなっているのですから。私たちはみな元気でやっており、この葉書も届くことを願っています。エレーヌが寝たので、お便りしています。この呪われた戦争(*3)が終わるのを待ちながら。
親愛なるルイ様へ、家族一同より愛をこめて。
いとこより サイン

(*1)フュメ Fumay はアルデンヌ県にある人口5,000人台(当時)の街。ベルギーと国境を接している。
(*2)ポン=タ=ムッソン Pont-à-Mousson(逐語訳すると「ムッソン橋」)はアルデンヌ県の南東にあるロレーヌ地方ムルト=エ=モゼル県にある人口1万4000人程度(当時)の街。本文中では略して「ポン」と呼ばれている。
(*3)「呪われた戦争」guette maudite という表現は、当時の私信では非常に頻繁に見かける。



1914年9月12日-疎開先のフランス西端ロワイヤンから

 次の葉書は、ドイツとの戦乱を逃れ、家族8人で疎開してきたフランスの西の涯にある大西洋に面した保養地ロワイヤンから、アルデンヌ県に住む親戚に宛てたもの。

1914年9月12日

1914年9月12日

〔宛名〕
アルデンヌ県
ブロー=スュール=ムーズ(*1)
ピエール・グリマール様

〔引受消印〕
シャラント・アンフェリウール県
ロワイヤン(*2)
14年9月12日

〔本文〕
ロワイヤン(シャラント・アンフェリウール県)シャトー・ドー通り35番地
 9月11日水曜
 おじさま
 私たちはここに避難してきました。故郷を離れるのは、とてもつらい気持ちです。ブローについて何の知らせも得られないからです。ルネとジョルジュからは、およそ10日ごとにたよりをもらいます。ひどいことです。おじさまたちは、ブローではどうされていますか。私たちはみな健康です。ただし退屈で、不安な気持ちです。パパ、ママ、アリス、クレール、ジャン、スュザンヌ、マリー、アルベールから親愛の情をこめて。
 あなたのめいクレールより

〔写真上の説明〕
ロワイヤン - シェ海岸での砂工作コンクール

(*1)ブロー=スュール=ムーズ Braux-sur-Meuse は、アルデンヌ県にあった、ベルギーの隣の村。現在は他の村と合併してボニー=スュール=ムーズ Bogny-sur-Meuse 村となり、ブローという地名は消えている。
(*2)ロワイヤン Royan は大西洋沿岸のシャラント・アンフェリウール県(現シャラント・マリティーム県)にある。海水浴場で有名。



1914年10月8日-家を壊され親類を頼った隣県の人から

 次の葉書は、もともとアルデンヌ県の南隣にあるマルヌ県のなかでも西部にあるル・ブルイユに住んでいた年配の男性(民間人)が書いたもの。ドイツ軍の攻撃によって自宅を破壊され、怪我を負ったために、同じマルヌ県のなかでも、もっと南寄りにあるラシー村に住む義兄を頼って身を寄せたことが語られている。そうした事情を、アルデンヌ県ヴォンク村に住む妹に説明したもの。

1914年10月8日

1914年10月8日

〔宛名〕
アルデンヌ県
ヴォンク村(*1)
ヴォンク駅カフェ
シオン・ロゼ奥様

〔引受消印〕
マルヌ県
セザンヌ(*2)
14年10月9日

〔写真上部の説明〕
ラシー村(*3) - 下通り

〔本文〕
 ラシーにて、1914年10月8日
 親愛なる妹たちと甥たちへ
 ブランシュよ、みながどうしているか、また私の弟がどこにいるか、もし知っていたら教えてほしいと思い、お便りしました。私が知っているのは、アンリがヴェルダンにいることです。ただし、昨日受け取った葉書は8月29日付だったので、今もそこにいるのかどうかはわかりません。実はル・ブルイユ(*4)で戦闘があり、すべてが失われ、取られました。ドアも窓もなくなり、家に住み続けられなくなりました。私自身も不自由な身になってしまいました。

〔葉書上部へ〕
腕が動かなくなったからです。私のみじめな境遇を知って、義兄が面倒を見るから家に来るように言ってくれたので、身を寄せています。私に代わって、いとしい小さな甥たちを抱きしめてください。ブランシュよ、心からの友情を。みなのことを考えている伯父より
M.マルセル・シオン

(*1)ヴォンク Voncq はアルデンヌ県の中央部やや南寄りにある人口500人程度(当時)の村。
(*2)セザンヌ Sézanne は人口5,000人程度(当時)の街。この近郊に現在差出人が住んでいるラシーの村がある。
(*3)ラシー Lachy はマルヌ県(アルデンヌ県の南隣)の南西部の人口300人程度(当時)の村。
(*4)ル・ブルイユ Le Breuil はマルヌ県の西部にある人口500人程度(当時)の村。



フランスのドイツ占領下の地域とのやり取り

 以上に見られるように、フランスのドイツ占領下の地域(アルデンヌ県など)に手紙を出そうとする場合、通常の郵便ルートで出そうとしても絶対に届けられることはなかった。それでも連絡を取りたい場合は、中立国スイスに本拠を置く赤十字のネットワークに頼るしかなかった。

 具体的には、次のようなルートでやり取りがおこなわれた。

 フランスに住む人
→フランス内務省(パリ)
→〔おそらくスイスを経由〕
→ドイツ赤十字(フランクフルト・アム・マイン)
→ドイツ当局
→ドイツ占領下のフランスに住む家族・親類・知人

 返事(復路)は逆のルートをたどり、最後にパリまたはリヨンを経由し、最初に伝言を託した人に返事が届けられた。パリまたはリヨンを経由したのは、被占領地からの郵便を検閲するフランス軍機関がパリとリヨンに存在していた (Bourguignat, p.265) からである。

 ただし、往路・復路ともに、自分で書いた葉書や手紙が直接そのままの形で届けられることはなく、短い伝言(メッセージ)のみが託され、仲介する役人が書いた葉書が届けられた。

 しかも、この間、フランス語からドイツ語へ、またその逆への翻訳がおこなわれ、ドイツ軍とフランス軍による検閲を受けたので、いわば何重にもフィルターがかけられる形になり、最終的にはごく平凡な、当たりさわりのない文面になった。
 問い合わせをしてから最終的に返事が届くまでは、平均6か月またはそれ以上かかった。

 途中でスイスを経由したと推測されるが、往路でフランス内務省が作成した文書と、復路でドイツ当局が作成した文書は現存していないので、詳しいことはわかっていない (Cf. Strowski, pp. 265, 308)。

 現存しているのは、最初の段階でフランスに住む人がフランス内務省に宛てて伝言を依頼するために出す問合わせ専用の葉書(未使用)と、最後の段階でフランス内務省から届けられる返事を記した葉書だけである。
 以下に、それぞれの実例を見てみたい。

フランス内務省への問合わせ用の葉書(未使用)

 フランスのドイツ占領下の地域(アルデンヌ県など)に手紙を出そうとする場合は、直接の郵便物のやり取りは不可能で、フランス内務省宛ての次の専用葉書で20語以内の伝言(メッセージ)を託すことだけが許可された。
 葉書のサイズは、通常の葉書よりも相当大きく、15.6 cm × 11.8 cm 程度。
 郵便料金は免除された (Strowski, p.265)。

フランス内務省への問合わせ用の葉書

フランス内務省への問合わせ用の葉書

〔表面〕
    フランス共和国
   被占領県との通信

            パリ
     内務大臣殿
      検閲局

郵便局印(*1)

(*1)この timbre は、ここでは「切手」ではなく「印」の意味。

〔裏面〕
   受取人の氏名および住所
姓:    名:
市町村:
県:
通りおよび番地:

    伝言
 注意 本伝言は20語以内とし、総合的または軍事的な情報を含んではならない。執筆時には、役場に掲示されている貼り紙の推奨事項を守ること。
非常に読みやすいように書くこと。

  伝言作成者の氏名および住所
姓: 名:
住所(市町村、県、通りおよび番地):



フランス内務省からの返答の葉書

 上の問合わせ用の葉書に記入して内務省に差し出すと、前述のルートを経て、数か月経ってから返事を記した葉書が戻ってきた。
 この種の葉書は、いずれも内務省の役人によって、筆記体のお手本のような、きれいではあるが没個性の(ペン習字のような)字で書かれている。
 例として、そのうちの一枚を示しておきたい。
 見やすいよう、印刷されている活字は黒字、手書きの部分と印は青色で訳した。

フランス内務省からの返答の葉書

フランス内務省からの返答の葉書

〔通信面〕
16年8月10日付の
ヴリーニュ=オー=ボワ(アルデンヌ県)
ベルナール夫人
に宛てらた
貴殿の伝言に対する
    返答

家族は元気でいます。足りないものは何もありません。ずっと仕事をしています(*1)。幸せな再会を期待しています。心からのキスを。子供たちにとってよい年でありますように(*2)。アリス、ベルト、ボードリ、アネーズ、ユッソン。

17年3月6日付の
〔紫の字の印〕フランクフルト・アム・マインのドイツ赤十字からの伝言

問合わせの際に通知すべき番号:S L. 27. 735

〔左上の小さな縦の緑色の印〕
検閲済(*3)

〔表面〕
   フランス共和国
  被占領県との通信

オート=マルヌ県
   ロッシュ=スュール=ロニョン経由
   ベッタンクール
 イポリット・ベルナール様

注意 宛先不明の場合は、この葉書を内務省「被占領県との通信」課(パリ2区アノーヴル通り6番地)まで返送のこと。

〔右上の丸い消印〕
ローヌ県 リヨン テロー広場
17年4月7日

〔右上の斜めの筆記体の印〕
内務大臣

〔左上の紫の万年筆での受取人(イポリット・ベルナール)による書き込み〕
1917年4月7日着

(*1)ドイツ占領下のフランス人は、非常に過酷な条件に置かれ、ドイツ軍によって塹壕掘りなどの強制労働に従事させられた。「ずっと仕事をしています」というのは、そのことを指しているのかもしれない(ちなみに、働けない者は「口べらし」のために中立国スイス経由でフランスに送還された)。
(*2)「よい年でありますように」という記載から、このアルデンヌ県在住の家族は1917年1月頃に伝言に対する返事を書いたことがわかる。
(*3)通信面左上の小さな緑色の検閲印 Contrôlé は、フランス内務省内での葉書作成後、最終段階で検閲の際に捺されたもの。この葉書では緑色だが、ピンク色や赤色も存在した(Cf. Strowski, p.277)。

リヨンでの検閲印

 この葉書の経由した日付を整理すると、次のようになる。

 1916年8月10日にフランス内務省に伝言を託した
→1917年1月頃にアルデンヌ県の家族が返事を書いた
→1917年3月6日にフランクフルトのドイツ赤十字を経由した
→1917年4月7日にリヨンから配達された
→1917年4月9日にこの葉書が届いた

 伝言を託してから返事を受け取るまでに、実に8か月かかっていることがわかる。




















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