「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

1916年の葉書(日付順)

1916年1月2日-ご子息が元気に帰ってきますように

 次の葉書は、南仏タルン県にある街の郵便局を退職した年金生活者とその妻に宛てられた年賀状。封筒に入れて出されており、差出人の詳細は不明だが、フランス北東部シャンパーニュ地方マルヌ県エペルネーにいた兵士または軍関係者が書いたものと思われる。

1916年1月2日

1916年1月2日

〔宛名〕
タルン県ラヴォール
元郵便局員
ブーイスー御夫妻

〔本文〕
1916年1月2日
親愛なる友人へ
お二人に1916年への祈念を捧げずに新しい年の初めをやり過ごすことはできません。この呪われた戦争が終わりますように。そしてお二人のご子息アベルが元気に帰ってきますように。そして我らが軍の最終的な勝利が得られますように。
同じ便でアベルにも書いておきます。

〔裏面〕
親愛なる友人よ、私の祈願をお受けとりください。また、心からの握手をお受けとりください。お二人の友人より(サイン)

〔写真左上〕
シャンパーニュ地方

〔写真下〕
エペルネー(*1) - シャンドン・ド・ブリアイユ館

(*1)エペルネーは1915年10月31日の葉書でも出てきた。



1916年2月16日-ツェッペリンによるパリ爆撃(1)

 1916年1月29日夜、心理的にパリの人々を恐怖に陥れるためにドイツの飛行船ツェッペリンがパリ上空に飛来し、20発前後の爆弾を投下、死者26人を出した。被害はパリ中心部から見て北東方面にある20区に集中しており、この写真はそのうち1発目の爆弾による被害を写したもの。
 説明文に「おぞましい犯罪」と書かれているので、無差別に一般市民を狙ったドイツ軍の行為を犯罪として糾弾する意図で一連の絵葉書が作られたことがわかる。
 次の葉書は、実際に爆弾が落下した場所から「50 mのところに」住んでいた女性が書いたもの。

1916年2月16日

1916年2月16日

〔写真説明〕
パリ上空のツェッペリン - ドイツのパイロットによるおぞましい犯罪
地下鉄の陥没(*1)

〔写真下の書き込み〕
1916年1月29日夜

〔本文〕
 パリにて、1916年2月16日
 親愛なるレイモン様
 私たちの家から50 mのところに最初に落ちたのがこの爆弾です。私たちはみな元気で、皆さんも全員元気であることを願っています。マルセルの再度の徴兵審査の話は出ていません。私たちみなに代わって、あなたのお婆様とお母様を抱擁してください。私たち三人そろってあなたを抱擁します。
サイン(H. アロー)

〔引受消印〕(上3つ)
16年2月16日、パリ、レピュブリック通り(*2)

〔到着印〕(右下)
16年2月18日、アンドル=エ=ロワール県(サヴィニェ=スュール=)ラタン

〔宛先〕
アンドル=エ=ロワール県
サヴィニェ=スュール=ラタン(*3)
レイモン・アルドゥーアン様

(*1)19世紀末からパリでは地下鉄が建設されていた。この写真はベルヴィル通り Boulevard de Belleville の地下鉄クーロンヌ Couronnes 駅付近の地上部分にあたる。
(*2)レピュブリック通り Avenue de la République はベルヴィル通りのすぐ隣にある。この通りに近い地区に差出人が住んでいたことが推測される。
(*3)アンドル=エ=ロワール Indre-et-Loire 県はパリから見て南西方面にある県。サヴィニェ=スュール=ラタン Savigné-sur-Lathan はその人口900人程度(当時)の村。



1916年2月?日-ツェッペリンによるパリ爆撃(2)

 次の葉書は、写真の右下に万年筆で書き込まれているように、パリ20区メニルモンタン通り86番地の被害のようすを写したもの。
 通信面には、男の子(フランソワ・モライヨン)が大きな鉛筆の字で書き、その母親(ルイーズ)が小さな万年筆の字で補足して書き込んでいる。
 差し出した日付は不明だが、爆撃のあった1916年1月29日夜からあまり遠くない同年2月頃だったと思われる。

1916年2月

1916年2月

〔写真説明〕
パリ上空のツェッペリン - ドイツのパイロットによるおぞましい犯罪
崩壊した建物の側面

〔写真右下の万年筆の書き込み〕
メニルモンタン通り86番地

〔写真左上の万年筆の書き込み〕
差出人 フランソワ・モライヨン
ドーフィヌ通り38番地

〔本文、大きな鉛筆の字〕
マルグリット様
ぼくのことを覚えていますか? ぼくは、よくあなたのことを思い出します。あなたの乾物をすべて割ったとき(*1)。ごらんのように、ツェッペリンがパリにやってきました。心から、あいさつします。
モライヨン、フランソワ

〔本文、小さな万年筆の字、下〕
「でもぼくたちは怖くありません」とフランソワは書くこともできたでしょう。

〔本文、小さな万年筆の字、横〕
ご覧のように、フランソワはあなたのことを思い出し、よくあなたの話をしています。ルイーズ

(*1)子供の稚拙な文で、何が言いたいのか不明。



1916年2月?日-ツェッペリンによるパリ爆撃(3)

 次の葉書の写真に写っているのは、パリ20区ボレゴ通り34番地のビドー巡査部長の家の被害のようす。
 上の葉書と同じ差出人(ルイーズ)によるもので、二枚一緒に封筒に入れて送られたと思われる。

1916年2月

1916年2月

〔写真左上の書き込み〕
戦争の思い出
1916年1月30日~31日の夜(*1) ルイーズ

〔写真説明〕
パリ上空のツェッペリン - ドイツのパイロットによるおぞましい犯罪
ビドー巡査部長の家

〔写真説明の下の書き込み〕
ボレゴ通り34番地

〔宛先〕
コート=ドール県
コルゴロワン
協同組合
マルグリット・ベリガン様

〔本文〕
親愛なるギット(*2)へ
ツェッペリンによる大そうな仕事をご覧ください。不幸なことに、この建物だけではありません。9棟が取り壊され、29人が亡くなったのですから。でもご安心を。私は死んでも怪我してもいません。メニルモンタン地区(*3)は私の家からはかなり離れていますので。
あなたのことを強く抱きしめます。ルイーズ

(*1)実際には、爆撃があったのは1916年1月29日から30日にかけての夜なので、記憶違いだと思われる。
(*2)「ギット」は「マルグリット」の愛称。
(*3)メニルモンタン通りは、同時に送ったと思われるもう一枚の葉書で写真に写されている。



1916年3月21日-地中海ビゼルト沖の駆逐艦ラ・イールから

 次の葉書は、地中海を航行していた駆逐艦「ラ・イール」の乗組員が、妻と思われる女性に書き送ったもの。
 以前乗っていた大型の戦艦に比べて船酔いがひどいこと、ドイツ軍の潜水艦が目撃されたこと、石炭のせいで目がはれ上がっていることなどが書かれている。
 この絵葉書自体は、おそらく寄港したチュニジアのビゼルトで入手したのだろう。

1916年3月21日

1916年3月21日

〔写真説明〕
風景と人々 - 放浪するアラブ人女性の一群

〔本文〕
   ラ・イール(*1)より、1916年3月21日
     パンジーヌへ

 6日前、出港直前に受け取った4日付の葉書に返事を書いておく。我々はサルデーニャ島とチュニジアの間を巡航した。船酔いになったんだが、なんだか風邪かと思ったよ。前のヴェルニョー(*2)がなつかしい。あの船に戻れるなら100フラン出しても惜しくはない。仲間にそう言ったら、喜んでもらってやると言われたが、残念ながらどうすることもできない。
 あの船に戻れるなら100フラン出しても惜しくはないというのは、第一にあの船は勝手が知れているからだ。第二に、この船ほど船酔いにはならないからだ。目下、ビゼルト(*3)沖に潜水艦の警報が出ていて、二隻目撃されたそうだ。石炭投入をやったから目がはれ上がって、おまえにこれを書きながら涙が出るんだ。さしあたって新しく知らせることはほとんどない。
 みんなによろしく。心からキスをする。 シャルル

(*1)駆逐艦(当時は通報艦兼魚雷艇 Aviso-torpilleur と呼ばれた)ラ・イール La Hire は、本文に書かれているように、大戦中はイタリア南端のサルデーニャ島とチュニジアのビゼルトの間で哨戒任務に当たった。排水量904トン。もちろん蒸気船で、石炭を燃料としていた。
(*2)ダントン級戦艦ヴェルニョー Vergniaud は、排水量18,350トンで、ラ・イールよりもはるかに大型。1914年にはアドリア海でオーストリア=ハンガリー帝国の軍港コトルを砲撃し、1916年にはギリシアのアテネで上陸作戦をおこなって死者を出した。
(*3)ビゼルト Bizerte は、当時フランス統治下にあったチュニジアの北端にある地中海に面した都市。地中海を挟んで北側にはサルデーニャ島がある。地中海の交通の要衝として、フランス海軍の軍港が置かれていた。



1916年4月1日-奪還したアルザスの村への爆撃

 次の葉書は、フランス軍が奪還した旧ドイツ領アルザスの村の一つ、サン=タマランにいた砲兵隊所属の獣医が妻に書き送ったもの。
 当時、この地域では戦局が安定し、郵便局も6つの村で開設され、子供は学校に通うなど、市民生活が営まれていた。この絵葉書の写真は、当時のフランス大統領ポワンカレがサン=タマランを訪れ、住民が歓迎しているようすを写したもので、右奥には子供や女性も並んでいる。こうした写真は、アルザス奪還をことさら強調して宣伝しようとする、多分にプロパガンダ的な意図で広められた。しかし、この葉書の本文を読むと、そうはいってもドイツ軍の爆撃を日常的に受けていたことがわかる。

1916年4月1日

1916年4月1日

〔写真説明〕
オート=アルザス県サン=タマラン(*1)
共和国大統領の訪問-1915年8月9日(*2)

〔本文〕
 サン=タマランにて、1916年4月1日
 昨日、ドイツ野郎の飛行機が活発な動きをみせていると書いたけれど、この村の近くに7発の爆弾を落としたんだ。でも、草地に落ちたから、まったく被害はなかったよ。今朝の4時半、また2発だ。たえず上空を飛んでいるけれど、この谷は我が軍の75 mm砲兵隊によってしっかり守られているから、飛行機はしかたなく引き返すことも多い。

〔宛先〕
ヴォージュ県タントリュ(*3)
ルイ・オーブリ奥様

〔差出人〕
ルイ・オーブリ 獣医(*4)
第36中隊
参謀部第14輸送隊
郵便区192

(*1)サン=タマラン Saint-Amarin はタンやダンヌマリーと並んで、フランス軍が奪還した、大戦前のフランス領に近かったアルザスの主な村の一つ。
(*2)フランス大統領レイモン・ポワンカレは、大戦中、サン=タマランを含むアルザスの地を何度も訪れている。この写真の中央で、右手を挙げて歓声に応えている、白い顎鬚を生やしているのがポワンカレ。その数人おいて右側で、左腰にサーベルを下げて縦に9個のボタンが並んだ軍服を着ているのは、このとき案内役を務めた少将マルセル・セレ Marcel Serret だと思われる。
(*3)タントリュ Taintrux は、ヴォージュ山塊を挟んでアルザスの西隣にあるヴォージュ県の人口千人台(当時)の村。
(*4)当時の砲兵隊では、フランス軍の主力となった75 mm 砲は主に馬で牽引したので、馬の世話をする獣医も活躍した。



1916年4月10日-日常が保たれていたパリ

 次の葉書は、負傷または病気をしていたらしい差出人がパリ20区の赤十字の施設から友人に宛てたもの。
 ツェッペリンによる散発的な被害はあったにしても、前線に比べれば概してパリでは日常生活が送られていたことがわかる。

1916年4月10日

1916年4月10日

〔本文〕
 パリにて、1916年4月10日
 親愛なるアルベールへ
 いつも楽しく君に便りを書いています。私はというと、あらゆる点で申し分ありません。健康はこのうえなく、力も正常の状態まで戻っています。もっといえば、私はずっと同じで、変わっていません。君と君のいとしい家族も同様であることを心から願っています。もし君がここパリの大通りに来たら、いまは戦争中だなどとは、またフランスが途方もない陰うつな危機をくぐり抜けているなどとは信じられないことでしょう。私たちはほとんど毎日散歩をしており、本当に見るに値する美しいものが色々あります。ジュアン夫人とご家族全員によろしくお伝えください。そして親愛なる友人よ、君に対しては心からの友情を込めて握手をしたいと思います。
 友人A. ミュレより

〔紫の大きな印〕
フランス負傷軍人救護協会
20区兵士サークル(*1)

〔写真説明〕
パリ-リュクサンブール美術館
彫刻室

(*1)この印から、差出人はパリ20区の赤十字の施設からこの葉書を出したことがわかる。フランス負傷軍人救護協会は、赤十字の創設者アンリ・デュナンの肝いりで1864年に設立された、現フランス赤十字の前身組織。フランスの赤十字は、第一次大戦中は負傷した兵士や病気となった兵士の救護・看護、看護婦の養成・指導、兵士や避難してくる一般市民への食事提供、戦争捕虜やドイツ占領地域の住民との通信の仲介などの活動をおこなった。



1916年5月6日-ドイツに勝つのは無理

 次の葉書は、前線の兵士が妻に宛てたもの。この頃になると、多くの兵士は戦争に嫌気がさし、早く戦争が終わればいいとか、休暇が待ち遠しいといった内容が目立つようになる。

1916年9月6日

1916年9月6日

1916年9月6日
いとしい妻へ
書く習慣を失わないように、また一言、書くことにした。でも何を書いたらいいかわからない。毎日が同じで、すべて同じことの繰り返しだから。全然変化がない。本当にうんざりだ。みんな私と同じ気分だ。この天気のいい中を、昼も夜もずっと塹壕の中にいて、ドイツ野郎を眺めているんだ。こんなことがもう21か月(*1)も続いているんだよ。誰も終わらせようとしない。あいつら(*2)は我々を最後まで戦わせようとしているが、最後だって最初とまったく同じように負けるのさ。だって、ドイツに勝つなんて無理なのだから。我々の砲兵隊が大砲を10発ぶち込めば、向こうは100発返してくるんだ。そういうわけで、何にもならない。今日はもう書くことがない。いつまでたっても同じ繰り返しだから。糞くらえだ。
お前の夫より おまえとマルセルと家にいるみなを抱きしめる
サイン(*3)

(*1)「21か月」は1年9か月。逆算すると、1915年1月頃から。その頃に差出人は塹壕に来たのだと思われる。
(*2)「あいつら」というのは漠然とした表現だが、軍の上層部のことだと思われる。
(*3)サインは「モーリス」と読める気もする。全体的に、この葉書は不正確な綴りが多く含まれている。封書で送られたらしく、住所と消印がない。差出人と受取人の名前も不明。前線の兵士が書いた葉書で、これほどネガティブな文面のものも珍しい。



1916年5月25日-戦死者の墓の写真

 次の葉書は、戦死したフランス兵の墓を写した写真を、そのまま葉書に現像した「カルト・フォト」と呼ばれるもの。
 フランス国防省のデータベースによると、戦死したルイ・バルトリは1893年9月17日マルセイユ生まれ。砲兵隊に配属され、1916年5月25日に戦線からは少し離れたフランス北東部のマイイーキャンプ軍事病院で病死した。享年22才。
 簡素な墓ではあるが、敵の攻撃を受けて死亡し、遺骸が放置されるままになった兵士に比べれば、手厚く葬られただけ、まだ恵まれていたと言えるかもしれない。
 この葉書は封筒に入れて送られているが、宛先欄には送った相手の住所と名前が書かれている。戦死した兵士と同じ姓で、男性の名前であるところをみると、戦死した兵士の父親に宛てて送られたのではないかと推測される。
 宛先欄の末尾に添えられたサインは、戦友のものではないかと思われる。埋葬して、墓に飾りを置き、写真を撮影して、故人の父親に送ったのだろう。

1916年5月25日

1916年5月25日

〔写真下の書き込み〕
ルイ・バルトリ 1916年5月25日、フランスのために死す
(オーブ県、マイイー墓地)

〔住所欄〕
ラザレ地区 ランティエ通り12番地
オーギュスト・バルトリ様

          (サイン)

 なお、筆者が高齢のフランス人の歴史家から直接聞いたところによると、昔は裕福な人の墓には墓石や石碑が置かれたが、貧しい人の墓は、このように木の枠を置いただけの簡素なものも多かった。また、墓の前後に飾られているのは、一見すると、白いレース飾りのように見える。しかし、昔は、針金に小さな色つきのガラス玉を通した葬儀用の花輪細工も盛んに作られ、白いレース飾りを模したものもあって、遠目には見分けがつかないほど精巧に作られていたので、その可能性も高いのではないか、とのことだった。



1916年6月8日-パリ8区の「兵士の家」の水兵たち

 次の葉書は、撮った写真をそのまま葉書サイズの厚紙に現像した「カルト・フォト」と呼ばれるもの。
 文面から、ここに写っているのは、兵士をリラックスさせるために当時各地につくられていた「兵士の家」と呼ばれる施設で、パリ8区ミロメニル Miromesnil 通りにあったことがわかる。
 この写真に写っている兵士たちの服装は、海軍のものである。特徴的なのはベレー帽で、洋上の強風で帽子が飛ばされないように、白いあご紐がついている(ここに写っている水兵たちはみな上に跳ね上げている)。帽子のてっぺんには、フランス語で俗にポンポン pompon と呼ばれる丸くて赤い房飾りがついている。
 手前のテーブルでは水兵たちがコーヒーを飲みながらトランプに興じている。右奥には白い服を着た年配の婦人がいて、その周囲に立っているのは芝居の練習でもしているのだろうか。
 文面自体にはたいしたことが書かれていないが、写真の場所とおおよその日付を明らかにすることで、写真のおもしろさを引き立てる役割を果たしている。

1916年6月8日

1916年6月8日

〔本文〕
  パリにて、1916年6月8日
ミロメニル通りの兵士の家の一室です。私もときどき少し休憩するために来ています。ここではよい気ばらしが得られ、楽しむことができ、いやなことも一時的に忘れさせてくれます。

〔宛名〕
マルセル・ルフェーヴル様
第404連隊 第6中隊 第2小隊 兵士
郵便区76



1916年6月29日-ドイツ軍の残虐行為

 次の葉書は、大戦初期にドイツ軍に占領され、その直後(1914年9月6日~9日のマルヌ会戦後に)フランス軍が奪還した地域にいた兵士が書いたもの。葉書の内容から、前線ではなく、やや後方にいたことがわかる。
 開戦当初、ベルギーを経てフランス北部や東北部に攻め入ってきたドイツ軍は、無実の住民多数を見せしめに銃殺するなど、多くの残虐な行為をおこなった。フランス側がこれを「ドイツ軍の残虐行為」として積極的にプロパガンダに利用したり、人々の間で根拠に乏しいデマが流布したという側面もあったにせよ、そうした行為が実際に存在したことも歴史的事実として否定できない。次の葉書を読むと、そうした「残虐行為」が(多少形を変えて)戦争中に生々しく語り継がれていたことがわかる。
 綴りは滅茶苦茶で、表現も意を尽くさない部分があり、解読するのに骨が折れる。結語やサインがなく、左上に (1) と書き込まれていることから、2枚以上の葉書の裏に文章を書き、封筒に入れて送られたうちの1枚目であることがわかる。そのため、話が途中で終わっている。

1916年6月29日

1916年6月29日

〔写真説明〕
ネッタンクール(*1)(ムーズ県)-砲撃前の
教会(歴史的建造物)

〔本文〕
1916年6月29日木曜 いとしいエリザベートへ
 25日付のおまえの手紙は、きのう28日に届いた。フェールシャンプノワーズ(*2)にいた12中隊の兵隊がおれたちの所に会いにきたんだ。あいつは少佐殿のところに寄らなけりゃならなかった。そんなわけで、とてもうれしかった。ルケーの奴ったら、休暇は得られなかったんだそうだ。てっきりもう家についたと思って、きのうハガキを2枚送ってしまったよ。
 いとしいイヤベートよ、きのう、行軍訓練と称して、中尉殿がおれたちを引きつれ、ソメイユ(*3)の廃墟を見にいってきた。見るも無残で、ほったて小屋が4つ残ってるだけだった。ソメイユの絵葉書はもうなくて、手に入らなかった。例の家と地下室を見にいった。あの地下室で、野蛮人どもは不幸な女を強姦し、胸を切りとり、その胸を口のなかに突っこんでから、その4人の幼い子たちの両腕を切断し、そのうちの9才だった娘を強姦したんだ。丈夫な娘だったから、12才に見えたんだ。

(*1)ネッタンクール Nettancourt はフランス北東部ムーズ県にある人口数百人の村で、この葉書が書かれた当時は、のちに元帥となるペタン司令官の参謀部が置かれていた。差出人もこの近辺にいたらしい。
(*2)フェール=シャンプノワーズ Fère-Champenoise はフランス北東部マルヌ県にある村で、ネッタンクールの70 kmほど西にある。
(*3)ソメイユ Sommeilles はフランス北東部ムーズ県にある人口数百人の村。この絵葉書の写真に撮られているネッタンクールの隣村。

 なお、このときのソメイユ村での出来事は、1914年9月23日のデクレ(=政令ないし大統領令)に基づいて設立された「人権を侵害して敵軍が犯した行為を確認するために設けられた委員会」がフランス閣僚評議会議長(=首相)に提出した報告書の中で取り上げられ、1915年1月8日付の官報に記載されているので、関連部分を訳しておく。

  • 「ムーズ県の中で、ソメイユ村ほど苦しみを味わった所は、そう多くはない。この村は〔1914年〕9月6日にドイツ軍の歩兵第51連隊によって完全に焼き払われ、今はもう瓦礫の山しか残っていない。自転車の空気入れのような、多くの兵士が携行していた装置を使って、火が放たれたのだ。
     この不幸な村は、惨劇の舞台となった。放火の冒頭、夫が従軍していたX婦人は、夫のアドノ家の人々および4人の子供とともに、アドノ家の地下室に避難していた。4人の子供は、順に11才、5才、4才、1才半だった。数日後、ここで、この不幸な人々全員の遺体が血の海の中で発見された。アドノ氏は銃殺されており、X婦人は片胸と右腕が切られ、11才の娘は片脚が切断され、5才の男の子は喉をえぐられていた。X婦人と少女は強姦された形跡があった。」

 これに照らし合わせると、上の葉書では、伝言ゲームのように少し話に「尾ひれ」がついていることがわかる。



1916年7月9日-逆向きに走るアルザスの蒸気機関車

 次の葉書は、差出人の名が書かれておらず、受取人との関係も不明だが、おそらくアルザスにいた兵士が故郷にいる妻に宛てて書いたものではないかと思われる。
 絵葉書自体は、写真説明に「1914~1916年の戦争」と書かれていることから、1916年に印刷されたものであることがわかる。フランス軍がドイツからアルザス地方を奪還したことをフランス国民が実感できるよう、奪還後初めてこの地域で列車が走ったところを写真に写し、多分にプロパガンダ的な意図のもとでつくられた絵葉書だといえるだろう。
 本文冒頭の日付が「7月9日」となっているのに、捺されている日付印はそれよりも早い「6月27日」となっているのが注意を惹く。これは、もともと誰に書き送るわけでもなく、記念印のようなつもりで日付印を絵葉書に捺してもらい(いわゆる「コンプレザンス印」)、しばらくしてからこの葉書を実際に使用することに決め、文章と宛名を書き込んで、封筒に入れて送ったためだと推測することができる。

1916年7月9日

1916年7月9日

〔写真説明〕
1914~1916年の戦争
オート=アルザス - ヴェッセルランとタンの間を走る最初の列車

〔日付印〕
アルザス ヴェッセルラン(*1)
1916年6月27日

〔本文〕
  16年7月9日
 この葉書に写っている列車が15 kmの道のりしか走らないのは残念なことだ。機関車が逆向きにつながれているのがわかるだろう。終着駅で正常な向きにすることができないからだ(*2)。

〔宛名〕
ロ=テ=ガロンヌ県アジャン
コロンヌ通り34番地
T. トール奥様

(*1)ヴェッセルラン Wesserling は開戦前の独仏国境から数 km ドイツ寄りにあるアルザス地方の村。このすぐ東側にタン Thann の村がある。ヴェッセルラン郵便局は、タン郵便局などとともに、1915年2月1日に開局した(「コンプレザンス印 2」のページを参照)。
(*2)この写真に写っている列車は、煙がたなびいている方向からして、向かって左に走っているはずだが、たしかによく見ると、牽引している蒸気機関車の向きは逆さまになっている(本来なら煙突が先頭にくるはずである)。要するに、この機関車はバックしながら走っているのだ。

逆向きの蒸気機関車

 これは、差出人が指摘しているように、折り返し地点(タンの駅)には機関車をUターンさせる設備がなかったためだと思われる。タンの一つ先には19世紀以来ヨーロッパ屈指の工業都市だったミュルーズ Mulhouse の街があり、街を一周するように鉄道の線が敷かれ、多数の分岐があり、Uターンも可能だった。ミュルーズは大戦初期のごく短い期間だけフランス軍が奪還したが、すぐにドイツ軍に取り返されてしまった。おそらく差出人は、はっきりとは書いていないが、このミュルーズの街がドイツ軍の支配下にあることを「残念」に思っているのだろう。
 こうして、アルザス奪還を祝うために作られたはずのこの絵葉書は、よく見ると、実はフランス軍はアルザスのなかでもごく一部の地域しか奪還できていないことを、はからずも露呈しているといえる。
 この機関車が逆向きに走っていることの理由は、差出人の指摘がないと、なかなか思い及ばないことであり、そのぶん、この短い文章は貴重だといえる。



1916年7月23日-葉書を入手するのも簡単ではない

 次の葉書では、葉書を入手する困難について書かれている。実際、大戦が始まる前には、小さな村であっても、文具屋などに限らずさまざまな店で葉書が売られていたが、この写真のような状況では葉書を手に入れるのも大変だったにちがいない。

1916年7月23日

1916年7月23日

〔写真説明〕
1914~1915年の戦争
エルシュ(ソンム県)-この土地のようす(*1)

〔本文〕
1916年7月23日
  愛するみんなへ
 私はとても元気だ。おまえたちも同じであることを願っている。
 今日、この村に作業をしに行ったが、見てのとおりのありさまで、なんとかこの葉書を手に入れることができた。葉書を手に入れるのも簡単じゃないんだ。
 最後に、おまえたちのことを心から抱きしめる。
 おまえたちのことを愛し、忘れてはいない夫にして父より
  (サイン)
 また明日、おまえたちの知らせを。(*2)
 家族みんなと近所の人たちによろしく

(*1)エルシュ Erches はパリの北北東100 kmほどのところにある人口200人台(当時)の村。なお、「1914~1915年の戦争」という書き方から、この葉書は1915年に作られたことがわかる。
(*2)ここは、いったんサインをしてから書き足しているが、文のつながりがおかしい。全体的に、この葉書は綴りが間違っていて読みにくい箇所がある。あまり教養がなかったともいえるが、極度に疲れていて頭がまわらなかった可能性もある。

 なお、戦地で葉書を入手することの大変さについては「1914年10月5日-重宝される往復葉書」でも触れられている。



1916年8月9日-ティオーモンでの負傷

 次の葉書は、戦闘で負傷して野戦病院にいる兵士が友人に送ったもの。野戦病院からの手紙では、このように負傷してかえってよかったという感慨が漏らされることがある。

1916年8月9日

1916年8月9日

〔本文〕
 1916年8月9日
 いとしいジャンヌへ
 私の近況をお知らせします。あい変わらずとても良好です。あなたも同様であることを心から願っています。
 現在、私はバルクール(*1)の野戦病院3/16におりますが、12日には中隊に戻らねばなりません。5日にティオーモンの要塞(*2)で行われた戦闘で左の前腕を少し負傷しただけです。そのため、後送はされませんでした。
 結局、こんなふうに抜けることができてよかったと思います。連隊は全滅しましたから。他の隊が我が隊を引き継ぎ、我が隊は休養をとることになります。まもなく私も休暇が得られると思います。あなたの二人の兄弟とご家族が元気であることを願っています。

〔右上の書き込み〕
ご両親によろしくお伝えください。アルフォンスィンヌにもよろしく。

〔写真面の書き込み〕
あなたのとびきりの友人からの愛情に満ちた抱擁を
サイン(C. シャルル)

〔写真説明〕
1914~16年の戦争(*3)
ヴェルダン(ムーズ県)- 破壊された通り

(*1)原文はバルクールBalecourtと読めるが、おそらくバレクールBaleicourtの誤り。バレクールは第一次大戦最大の激戦区ヴェルダンにあり、野戦病院も存在した。
(*2)ティオーモンThiaumontの要塞は、1870年の普仏戦争後、函館の五稜郭にも通じる形式でドイツ国境付近に作られた要塞群の一つで、ヴェルダンに存在した(ドゥオーモンDouaumontの要塞の隣)。1916年6月下旬からドイツ軍の攻撃が始まり、8月5日の砲撃では多数の負傷者を出し、まもなくフランス軍はここから撤退した(同年10月に再び奪還することになる)。
(*3)この書き方は、この葉書が1916年に発行されたことを示している。



1916年9月5日-女性の感想

 次の葉書は、女性から女友達に送られたもの。この絵葉書に写されたソワソン大聖堂の破壊のようすを見て漏らした感想がつづられている。

1916年9月5日

1916年9月5日

〔写真左上の説明〕
1914~1916年の戦争

〔写真下の説明〕
ソワソン(*1)-1915年6月15日の砲撃後の大聖堂の塔

〔本文〕
16年9月5日
 親愛なる友人へ
 なんという災難! なんという惨状! これほどの冒とくには驚き、がく然とするしかありません。この建物のなんという損壊。すべては戦争、おそろしい戦争のせいです! 男たちは、いつ彼らの中でもっとも偉大な者、イエスの声を聞き、理解するのでしょうか。「みな兄弟であれ」という声を。
 心からの友情とキスを送ります。サイン

〔右上の書き込み〕
アンヌ S... 嬢(*2)

(*1)ソワソン Soissons はパリの北東100kmたらずのところにあるピカルディ地方の都市。ランスの大聖堂などへの攻撃と同様、ドイツ軍による野蛮な行為として、当時のフランスの新聞などで激しく非難された。
(*2)おそらくこの葉書を受け取った人が差出人の名前をここに書き込んだのではないかと思われる。



1916年9月5日-イギリス流のユーモア

 次の葉書は、宛名と差出人欄はフランス語で、本文は冒頭以外は英語で書かれている。戦場での轟音をバイオリンの音と比較したり、当時の常套文句を意識的に引用するなど、イギリスらしい余裕のあるユーモアが感じられる。

1916年9月5日

1916年9月5日

〔本文〕
軍隊にて、16年9月5日16時
 数日前から塹壕にいます。この新しい生活は、実際とても興味深いもので、この大音量の音楽はバレー(*1)氏のバイオリンの甘美な音色とはだいぶ異なります。フランスの兵士たちが言うように、「健康は良好、士気は最高」(*2)だとつけ加えることもできるでしょう。 敬具

〔宛名〕
セーヌ=アンフェリウール県ディエップ(*3)
バール通り「プリムローズ・ヴィラ」
メルク御夫妻

〔差出人〕
セルシス
伍長
第287歩兵連隊
第3大隊第24中隊
郵便区103

(*1)バレーBalleyは当時のバイオリンの名手だったと思われるが不明。
(*2)「私は元気(健康)でやっています」とか「士気は最高です」というのは、当時の兵士の手紙にみられる紋切型の表現。手紙には嘘でもこのように書くことが多かった。これは、戦争について否定的な感情が形成されるのを防ごうとする軍の意図と、家族や友人を心配させないようにという兵士の配慮の両方によるものだと考えられる。この空疎な表現を、差出人は直接使うのではなく、意識して引用符をつけて使っている。
(*3)ディエップDieppeはフランス北部セーヌ=アンフェリウール県(現セーヌ=マリティーム県)にある海沿いの街。海を挟んでイギリスがある。



1916年10月3日-小包へのお礼を述べたスイス宛の葉書

 大戦中に兵士が差し出す葉書は、基本的にはすべて郵便料金が免除された。外国宛の場合も無料になるはずだったが、外国当局との取り決めが不十分だったために、実際には届け先で不足額が徴収されてしまうという事態が発生していた。その不具合を解消するために、兵士に代わって軍または民間の郵便局で切手を貼るサービスがおこなわれるようになった (Cf. Mognon, p.25)。次の葉書も、軍の郵便機関において、兵士の代わりに切手が貼られたものである。
 この葉書は、未婚の女性に宛てたもので、小包を送ってくれたことへのお礼が書かれている。しかし、直接ではなく、スイスの斡旋事務所を通じてやり取りがされている。しかも、親しくない相手に使う「あなた」vous という言葉を使って、どちらかというと他人行儀ともいえる丁寧な文体で書かれている。おそらく、この「M. パレルお嬢様」は、この兵士にとって一種の「戦争代母」のような存在で、フランス兵を支援したいと思っていたスイス在住のフランス系の女性だったのではないかと想像される。

1916年10月3日

1916年10月3日

〔本文〕
    1916年10月3日
  親愛なるお嬢様
 ジラール氏の仲介を通じて、立派な小包をいただきました。とりわけ、物資が豊富とはいえなかったソンム県の前線にいたときに受けとっただけに、なおさらうれしく感じました。厚くお礼を申し上げます。私は健康は良好ですが、非常に疲れています。ヴェルダンと同じくらいひどい状況だからです。もう冬が近づいており、我々にとっては気が気ではありません。しかし、その前に終わることを期待しましょう(*1)。斡旋事務所の皆様にどうぞよろしく。私の心からの挨拶をお受けとりください。R. デュパン

〔差出人欄〕
氏名 R. デュパン
階級 信号兵
連隊 第171
大隊 第1
郵便区 169

〔部隊印〕
主計及び郵便30
16年10月6日

〔宛先〕
ヌーシャテル州(スイス)
ラ・ショー=ド=フォン(*2)
プロムナード通り5
A. ジラール斡旋事務所
M. パレルお嬢様

〔紫の印〕
軍事当局により検閲済(*3)

(*1)前線の塹壕では、火をおこせば敵に狙撃されたので、火をおこすわけにもいかず、冬の寒さは非常に厳しかった。冬になる前に戦争が終わることを期待しているわけである。
(*2)ラ・ショー=ド=フォン La Chaux-de-Fonds はフランスの国境に近いスイス西部の街で、高級時計の工房があることで有名。
 なお、この宛先の「A. ジラール斡旋事務所」の後ろに「気付」というような言葉を補って解釈すべきだと思われる。
(*3)この検閲印は、フランスからスイスへの国境を越える前に、フランス軍の検閲機関によって捺されたものと思われる。この印には多数のバリエーションがあり、使用場所の特定は困難(Cf. Bourguignat, p.386)

1916年10月3日



1916年10月22日-兵士からの恋文

 次の葉書は、ある兵士が書いた恋文のような雰囲気のもの。
 当たり前だが、兵士は大きく既婚者と未婚者に分かれた。
 未婚の兵士は、このように丁寧な字で半分ラブレターのような内容の手紙を送ることもあった。

1916年10月22日

1916年10月22日

〔差出人〕
アルフレッド・ヴィラット
第112重砲兵連隊
第8中隊
郵便区150

〔青い女神座像の印〕
第112重砲兵連隊第8中隊
中隊長

〔宛先〕
シャラント県アングーレーム近郊
ル・ヴェルジェ(*1)在住
G. モリノーお嬢様

〔本文〕
    1916年10月22日
ジェルメーヌお嬢様
 すてきなガラ(*2)の絵葉書を受けとりました。この絵葉書を見ると、この村の若い娘と一緒にあなたの家ですごした心地よい夜のことを思い出します。あるいは、あなたがその娘のところに訪れていただけなのかもしれません。
 あの幸せな日々は、どこへ行ってしまったのでしょう。あなたやご家族と一緒にすごした、かくも美しい夜々。ああ、私はよくあなたのことを思い出しています。とても感じがよく、優雅で品のあるあなたのことを。夜、夢の中で、あなたのほほ笑むお顔と、希望にみちた美しいまなざしを何度も見かけたような気がします。気のせいかもしれませんが、しかしもう一度お会いしたいという希望を持っています。いつの日か再びお会いできたら、私にとって美しい日となることでしょう。
 私はあいかわらず元気です。皆さんもそうであることを願っています。
 ジェルメーヌお嬢様、私の情愛にみちた心からの思いを、信じていただけますよう。
       (サイン)

〔左下の書き込み〕
ご家族皆様によろしくお伝えください。

(*1)アングーレーム Angoulême は大西洋に近いフランス南西部、ボルドーの近くにある人口4万人弱(当時)の都市。アングーレームの南東にル・ヴェルジェ le Verger という集落がある。
(*2)ガラ Garat はアングーレームの東側にある村。ル・ヴェルジェに近い。



1916年11月23日-故郷への一時休暇

 次の葉書は、兵士が同じ故郷の戦友に宛てた、なかなか心がこもった葉書。
 差出人は通信面に書ききれずに、つなげて写真面に書いている。

1916年11月23日

1916年11月23日

〔本文〕
1916年11月23日 親愛なるアルベールへ 君がぼくに手紙を書く気になってくれたのだから、ぼくも君に近況を知らせないわけにはいかない。君があいかわらず元気で、これまでたくさん戦ってきたのに、今のところ無事に切り抜けていることを知ってうれしかった。先日、休暇を取ってきたが、みなぼくと同様に元気だった。メラニーと一緒に君のご両親の家に夕食に行ったよ。君が戦争から持ち帰った思い出の品も見せてもらった。君の変わらぬ勇敢さをよく証明している。君の弟のリュドヴィックが元気で、君が言うほど不幸ではないことを知ってよかった。君からも彼によろしく言っておいてほしい。小さいロジェも君のことを話していた。本当に会いにいくたびにロジェは大きくなっている。故郷に帰ると、わかってくれると思うが、いつもとても悲しい気分になる。いるべきはずの人が大勢いないから。その点をのぞけば、君が出征してから他に変わった点はない。あとは特に話すことはない。ここに戻ってきて、少し憂鬱の虫に襲われているくらいだ。それも時間がたてば収まるだろう。君の戦友であり友人である者からの真摯な思いと心からの握手を受けとってくれ。ぼくはあいかわらず輸送部隊にいて、さらに前進するのを待っている。まるで野生動物のように森の中にいる。夜になると、下の写真の村に泊まりにいく。娯楽もないから、めん鶏のように早寝をするんだ。ときどき気が向いたら便りをくれ。ぼくもそうするから。それでは、もし可能ならできるだけ早く再会しよう。ジュリアン

〔写真説明〕
(抹消)(*1)-城の丘からの眺め

(*1)この地名の部分が差出人によって抹消されている。これは、自分の部隊の居場所を軍事機密として漏らさないよう、1915年4月21日以降は、戦地から絵葉書を送る場合は地名を塗りつぶすように決められたことによる(実際には守られていない場合も多い)。ただし、よく見ると、Vellexon(ヴェレクソン)と書かれているのが透けて見える。ヴェレクソンはフランス東部フランシュ=コンテ地方オート=ソーヌ県にある村(正式名称は3つの村が合わさってできたヴェレクソン=クートレ=エ=ヴォーデVellexon-Queutrey-et-Vaudey)。



1916年12月31日-戦争が終わりますように

 次の葉書は年賀状。今でこそフランスでは葉書で年賀状をやり取りする習慣はすたれてしまったが、「葉書の黄金時代」だった当時は、この習慣が健在で、次のように年賀専用の絵葉書も多数つくられた。なお、日付は実際に書いた日付(年の暮れまたは年明けの日付)を記載した。

1916年12月31日

1916年12月31日

〔絵の面の左上の文字〕
良い年になりますように

〔本文〕
 クレルモン(*1)にて、1916年12月31日
  親愛なる義妹マリーへ
 新年に向けて、あなたに心からの祈念を捧げたいと思います。この一年がまもなく殺りくの終わりをもたらしてくれますように。そして恐るべき戦いからなんとか無事に逃れることができた人々が自宅で休息できますように!
 あなたの兄ジャンはあい変わらず工場で働いていますが、かわいそうに、全然丈夫とはいえません。いつも膝が痛いそうで、釘のようにやせています。でも、一緒にいることができるだけ幸せです。お二人のことを強く抱きしめ、健康をお祈りしています。
 ジャンおよびマリー・デ...(*2)

(*1)クレルモン Clermont という地名はいくつか存在するが、切手の消印の下側に...UY DE DOM...という文字が見えるので、フランス中南部オーヴェルニュ地方のピュイ=ド=ドーム Puy-de-Dôme 県の中心都市クレルモン=フェラン Clermont-Ferrand を指すことがわかる。
(*2)末尾の差出人の姓は字がつぶれていて判読できない。



1916年12月31日-平和がやってきますように

 次の葉書は、前線の兵士が年賀状を兼ねて南仏の親戚の若者に送ったもの。前の持ち主が壁かアルバムに貼りつけていたらしく、四隅にテープの跡が残っている。

1916年12月31日

1916年12月31日

〔写真の説明文〕
1914~1915年の戦争
検閲済 パリ

アラス(パ=ド=カレー県)
市役所 - 残されたもの

〔宛名〕
ロット県
ピュイ=レヴェック
肉屋
マルク・リヴィエール様(*1)

〔本文〕
 1916年12月31日
 親愛なるマルクへ
 幸せなよい年になりますように。そして1917年には長続きする平和がやってきますように。29か月前(*2)から私たちが送っている悲惨な生活を、君たちの年の若者が送らなくて済みますように(*3)。栄誉ある戦場で命を散らした私の戦友たちは別にしても。我々は129連隊の416名の死者に敬意を表する儀式に参加してきたところだ。
 君と君の両親を心から抱擁する。私の代わりにマリーと子供たちに抱擁してくれ。
  モーリスより

(*1)ピュイ=レヴェックPuy-l'Évêqueは南仏ピレネー山脈のふもとに近いロット県にある人口1,700人台(当時)の村。当時は小さな村に郵便を出す場合は番地は書かないことが多く、その代わりに肩書・職業を添えることがあった。受取人(マルク)は、おそらく差出人(モーリス)の親戚だと思われる。
(*2)29か月とは、2年5か月。2年5か月前は、大戦が始まった1914年8月にあたる。
(*3)この書き方からして、相手のマルク・リヴィエールはまだ未成年で、兵役に召集される年齢に達していないことがわかる。
 しかし、結局なかなか戦争が終わらず、翌年になってマルクが兵隊となって戦地から両親に宛てて出した葉書も数通残っている。



(追加予定)



⇒ 1917年










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