「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

1917年の葉書(日付順)

1917年1月14日-雪合戦と禁煙

 次の葉書では、フランス北東部に来ていた兵士が故郷に住む妻に送ったもの。ふくらはぎの上まで雪が積もったのを見たのは初めてであることが記されている。第一次世界大戦では、それまでまったく故郷の村から出たことがなく、人生で初めて村から出たのが戦争に行くためだったという者もいたらしい。差出人は南仏の温暖な地域に住んでいたのではないかと想像される。いい加減な綴りで、くだけた会話調で書かれている。

1917年1月14日

1917年1月14日

〔写真下の説明〕
ポン=タ=ムッソン - ドイツ軍の到着前に爆破された橋(*1)

〔本文〕
   1917年1月14日、日曜
 ポーレットよ、きょう日曜はいい天気だが冷えこんでいる。凍っているからな。でも空がまた暗くなってきた。雪がふくらはぎの上までつもっている。こんなの見たのは初めてだ。もっとも、戦争を見たのも初めてだがな。おれはあいかわらず元気だ。今日は雪合戦をした。楽しかったのなんのって。そのほかに、こっちでは変わったことはない。おまえに送った葉書がちゃんと届いているか、教えてくれ。おまえには言ってなかったが、

〔葉書上部〕
もうたばこは吸っていないんだ。休暇から戻って以来、一度もパイプを口にくわえたことがない。
 おまえを抱きしめる。どれほどおまえを愛していることか。(サイン)

(*1)ポン=タ=ムッソン Pont-à-Mousson(逐語訳すると「ムッソン橋」)はフランス北東部ロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県にある人口1万4000人程度(当時)の街。大戦中はこの付近は主戦場の一つとなり、住民は避難し、街は砲撃を受けて荒廃した。この写真は、大戦初期、フランス軍がドイツ軍の進撃を阻止するために、街の名の由来となった橋をわざと破壊したようすを写したもの。差出人の部隊はこの近くで戦っていたことが、同じ差出人の他の葉書からわかる。



1917年1月19日-ごく身近にひそむ敵への怒り

 次の葉書は、上の葉書と同じ差出人が書いたもの。綴りがいい加減で、くだけた会話調であるうえに、感情にまかせて書きなぐられているので、読むのに骨が折れるが、とても文面がおもしろく、塹壕での生活の一端がかいま見える。
 ドイツ兵以外にも、ごく身近なところに意外な敵がひそんいたことがわかる。

1917年1月19日

1917年1月19日

〔写真下の説明〕
ムッソンの教会(*1)

〔本文〕
   1917年1月19日、金曜
 いとしい妻へ おれは怒ってる。おまえに怒ってるんじゃない。鼠に怒っているんだ。あいつらは、おれの安ブランデー(*2)を飲みやがった。紙も食いちぎり、栗も食いやがった。わかるだろ。ちょっと取っといたんだ。雑嚢に入れといたマグロまでもな(*3)。ほんとによ。あいつら、豚みてえにガツガツ食いやがって。雪がすごい。一晩じゅう明るくしてないといけない。そうしないと眠ってられん。あいつら、体の上を走りまわってポケットの中まで入ってきやがる。ほんの一時間でも安ブランデーをコップに入れといたら、全部めちゃめちゃだ。

〔葉書上部〕
火をおこすと、もう何もない。もう取っといた食べ物がなくなっちまった。少しも気が休まらん。ここじゃあ、鼠がドイツ野郎みてえなもんだ。しかしまあ、これが戦争だ、ってやつだ(*4)。
 かわいい妻よ、おまえのことを抱きしめる。
 鼠より、おまえが好きだ。(サイン)

(*1)この写真は、ポン=タ=ムッソン Pont-à-Mousson の近郊の丘の上の教会を写したもの。
(*2)「安いブランデー」を意味する gnole (gnôle) という言葉は、フランコ・プロヴァンス語(フランス南東部からスイスにかけて話されている方言)で「安酒」を意味する yôle に由来し、第一次大戦中に俗語として広まった。ここではもとの方言に近い yolle という綴りで書かれている。
(*3)第一次大戦中は保存食として缶詰がたくさん作られ、マグロの缶詰も存在した。それを食べかけて残しておいのかもしれない。
(*4)「戦争なんだから仕方ないじゃないか」という意味で「これが戦争だ」C'est la guerre ! という言葉が多用されていたことがわかる。



1917年2月21日-サロニカ遠征(1)

 次の葉書は、ギリシアのサロニカ(テッサロニキ)から出されたもの。
 フランス軍の大半は、ドイツ軍と戦うためにフランス北東部に投入されたが、塹壕戦での膠着状態を打破する狙いもあって、ギリシアのサロニカにも「東洋軍」Armée d'Orient として相当な部隊が派遣された。

1917年2月21日

1917年2月21日

〔写真説明〕
サロニカ - 城壁から見たパノラマ

〔本文〕
フロリナ(*1)にて、1917年2月21日
親愛なる友人たちへ
あれから一年、私がどこにいかご覧ください。去年の2月16日にはヴェルダン(*2)で攻撃が始まりましたが、今年はアルバニア国境近くにいて、市街地の近くでテントで寝泊まりしています。12日にサロニカを離れ、平野部からスキドラで山岳地帯に入りました。ここは平地もありますが、目の前にはアルバニア国境があり、雪の覆われた山々がそびえています。あと5~6日も行進すれば我々の連隊に合流するでしょう。我々が目指す大隊(第3大隊)はアルバニアにおり、その他の大隊はセルビアのモナスティルにいます。私はあい変わらず元気です。皆さんも同じだと思います。しばらくベベールの知らせは受けとっていませんが、我慢しなければなりません。最後になりましたが、皆さん全員に私の真摯な思いを送ります。
東洋軍 第3大隊 歩兵第2連隊  リュシアン・スィヤン

(*1)ギリシアの北西の端にある山間部で、アルバニアとの国境近くにある。
(*2)ヴェルダンはドイツとの国境に近いフランス北東部の地域。第一次世界大戦最大の激戦地として知られる。



1917年3月13日-ヒンデンブルク線へのドイツ軍の退却

 1917年2~3月、フランス北東部にいたドイツ軍は、より少ない兵力で効率的に、コンパクトに守りを固められるよう、意図的に「ヒンデンブルク線」と呼ばれるところまで退却した。そのとき、それまで占領していた地域の建物を徹底的に破壊し、焼き払った。次の葉書の本文では、まさにこのときの退却について書かれている。
 なお、宛名の「レザン様」には既婚の女性を示す「マダム」という敬称がついているが、差出人との関係は不明。

1917年3月13日

1917年3月13日

〔写真説明〕
リオン(ソンム県)-教会で残っているもの(*1)
1914~15年の戦争

〔本文〕
 軍隊にて、1917年3月13日
   レザン様
 こちらでは数日前から話題になっているのですが、前方に派遣された斥候隊が偵察したところによると、ドイツ野郎どもは我々の目の前の土地を放棄し、20~30 km後方に退却したとのことです。確かなのは、ノワイヨンとロワ(*2)を焼き払い、ソワソンに焼夷弾を撃ち込んだことです。皆の士気のために、いまこそ陣地を新しい形にすべき時です。
 私からの変わらぬ気持ちを。  サイン(エルネスト)

(*1)リオン Lihons はパリの北北東100 km、パリとベルギー国境との中間あたりにあるソンム県の人口数百人(当時)の村。差出人はこの付近にいたらしい。なお、「1914~15年の戦争」と書かれていることから、この絵葉書自体は1915年に作られたと推定されるので、この写真は1917年のヒンデンブルク線への退却に伴って破壊されたようすを写したものではない。ただし、このリオンの村も、退却に伴ってドイツ軍が放棄した地域に含まれる(本文中に出てくるノワイヨンとロワも同様)。
(*2)ノワイヨン Noyon は、ヒンデンブルク線への退却の直前、当時ジョッフルに代わって総司令官になっていたニヴェルが、ドイツ軍の弱点として攻撃を計画していた場所。退却に伴い、この計画は無に帰した。ロワ Roye はその近くの村。ソワソン Soissons は人口1万人台(当時)の街で、すでに大戦初期に大聖堂は大きな被害を受けていた。



1917年4月4日-トゥールーズの工場

 次の葉書は、南仏トゥールーズに来ていた人(おそらく女性)が親しい女性宛てに差し出したもの。本文には、当事者以外にとっては興味を持ちようのない、こまごまとした内容が書かれている。それにひきかえ、写真面の書き込みは当時のようすを知るうえで貴重なので、例外的に写真面のみ取り上げる。

1917年4月4日

〔写真右下の写真説明〕
戦争中のトゥールーズ(*1)
アメリカと同様に、
数か月の間に、産業都市が生まれた……

〔写真面の上部の書き込み〕
 トゥールーズの河岸にあるこの巨大な工場では、3万人を超す男女の労働者が働いているようですが、まだ見にいったことはありません。ここにはあらゆる土地出身の、あらゆる皮膚の色をした人々がいます。そのため、この住民によって物価が上がり、住居も見つけにくくなっています。女性が1日で8フランも稼ぐんですよ!!(*2)

(*1)トゥールーズ Toulouse は南仏のスペイン寄りにある人口15万人前後(当時)の都市。大きなガロンヌ川が流れている。前線からは遠く離れていたため、軍需工場などが多く、イタリアやスペインからの移民や出稼ぎも多かった。
(*2)第一次世界大戦では、体力のある男がほとんど兵士となったため、その穴を埋めるために女性が軍需工場などで働くようになった。病院の看護婦などと並んで、これが女性の社会進出のきっかけとなったといわれている。



1917年4月11日-「戦争代母」と「兵士の家」

 次の葉書は「愛する代母様」に宛てられている。本来、「代母」とは、教会での幼児の洗礼に立ち会い、実の母が早死にしたときはその代わりを務める役割を果たしたので、通常なら自分の親にあたる世代の人がなるはずなのに、宛名には未婚の女性に対する「お嬢様」という敬称がついている。さらに、親しくない相手に対する「あなた」という言葉で呼びかけ、具体的な郷里の話などはせずに、ありきたりの定型文句と小包のお礼だけが書かれていることからして、この相手が「戦争代母」であることは確実だと思われる。
 本当の代母に対して、素朴な親愛の情をこめて「愛する代母様」と呼ぶことは可能だが(たとえば「愛するお母様」と書くことも可能なのと同様)、この兵士の場合は、それとは別の意味で「愛」している(つまり恋愛感情を抱いている)のだろう。
 通信欄の上部には、アメリカの団体 YMCA(キリスト教青年会)が大戦中にフランス各地に設立していた「兵士の家」LE FOYER DU SOLDAT の文字が印刷され、この「兵士の家」が発行した便箋や葉書に描かれることが多い兵士のイラストが、手紙のレターヘッドに相当する部分に添えられている。
 「戦争代母」「兵士の家」という2つの要素によって、平凡だが、この時期を物語る資料となっている。

1917年4月11日

1917年4月11日

〔宛先〕
パリ13区
ラ・ガール通り143番地
ジャックリーヌ・ブロックお嬢様

〔本文〕
1917年4月11日
    愛する代母様
 復活祭のおいしい小包、ありがとうございます(*1)。完璧な状態で届きました。私はあいわらず非常に健康です。あなたとあなたの優しいご両親も同様であることを願っています。
 愛する代母様、感謝しているあなたの兵士からの大きなキスをお受けとりください。
     ルイ・カステル

〔差出人〕
L. カステル
歩兵第15連隊(*2)
第6中隊
郵便区140

〔部隊印〕
1917年4月12日
郵便区140

(*1)復活祭は毎年キリストの復活を記念して春先に祝われる祭。1917年は4月8日に祝われた。「おいしい」と書かれているので、食べ物が入った小包を贈られたらしい。
(*2)歩兵第15連隊は、1917年4月当時、激戦区ヴェルダンの304高地に展開していた。冬の寒さに続き、春は雪解けによって泥まみれとなる劣悪な条件下で、たえず敵の砲撃に見舞われていた(歩兵第15連隊史による)。ただし、定型文句ばかりのこの葉書からは、そうした大変さはまったく伝わってこない。



1917年6月22日-ドイツ兵捕虜の見張り役

 次の葉書は、英仏海峡に近いフランス北西部ノルマンディー地方の捕虜収容所で、ドイツ兵捕虜の見張り役をしていた兵士が故郷の人々に書き送ったもの。
 捕虜を採石場で働かせていること、軍曹が古参兵に対しては愛想がいいこと、前回の休暇が終わったときに「憂鬱の虫」に取りつかれたことなどが、とりとめもなく書かれている。

1917年6月22日

1917年6月22日

〔写真説明〕
カーン(*1) - サン=テティエンヌ教会

〔本文〕
メ=シュール=オルヌにて、1917年6月22日
代父、代母(*2)、いとこの皆さん
 カーンから13 km離れたメで、きのうから、ふたたびドイツ野郎の見張りをしています。やつらは採石場で働いています(*3)。私は慣れるだろうと思います。軍曹はとても親切で、とくに古参兵に対してはとても愛想のよい人です。8月8日に骨休めの休暇を取ることを約束してくれました。つまり、あと1か月半です。ドゥワルヌネ(*4)から去るときは、私が憂鬱の虫に取りつかれていたのをご覧になったと思いますが、そうです、あの虫はやっつけました。よくなり始めています。私が皆さんに会わずに立ち去ったことを、お許しいただけるとよいのですが。代父がグリヴァールさんの庭で仕事をされていたことは、あとになって駅でマリーから聞きました。それとは反対側の方に、私は家から立ち去っていたのでした。
 皆さんに心からキスを送ります。名づけ子にしていとこより

  コランタン・ビュレル、歩兵第36連隊
  メ=シュール=オルヌ捕虜収容所(カルヴァドス県)

(*1)カーン Caen は英仏海峡にほぼ面した、フランス北西部ノルマンディー地方カルヴァドス県の県庁所在地となっている人口4万人台(当時)の都市。カーンの南にあるメ=シュール=オルヌ May-sur-Orne という村の捕虜収容所に差出人は勤務している。メ=シュール=オルヌは「オルヌ川沿いのメ」という意味で、本文では単に「メ」と呼ばれている。
(*2)代父と代母は、生後すぐに幼児の洗礼に立ち合い、実の親が早死にしたときは親に代わる役割を果たした。この差出人の場合は、いとこの両親(おじとおば)が代父と代母になったらしい。
(*3)石を切り出す作業は重労働だったので、当時は採石場でドイツ兵捕虜を働かせることも多かった。「1917年2月21日-脱走した捕虜の指名手配の電報」で出てきた捕虜も、土地柄からして、採石場で働いていたのではないかと想像される。
(*4)ドゥワルヌネ Douarnenez は大西洋に面したフランス北西部ブルターニュ地方フィニステール県の人口1万3千人台(当時)の街。差出人はこの街の出身で、代父、代母、いとこもこの街に住んでいたらしい。以下では、この葉書のおそらく数か月前に休暇を取ってこの街に帰郷したときのことが綴られている。



1917年7月28日-サロニカ遠征(2)

 次の葉書もサロニカにいる兵士から出されたもの。

1917年7月28日

1917年7月28日

〔写真左上の説明文〕
サロニカの防御陣地(伊・仏・英三か国語表記)

〔その下の差出人の所属・氏名の書き込み〕
東洋軍 郵便区510
臨時病院No.6衛生兵エミール・デルマ

〔本文〕
サロニカにて、1917年7月28日
   いとしい妹へ
7月9日付の親切なお葉書とジュスタンの手紙を受けとりました。ジュスタンの手紙をこんなにみすぼらしい状態でお返しして済みません。ポケットに入れておいたら、まったく綺麗ではなくなりました。それに、少し破けてしまいました。みなさんが元気だと知って喜んでいます。最近、エメ・カルラが四日間の休暇を取ってサロニカに来てくれました。私に会いに来たのです。私のベットに寝かせてやりました。この四日間、暖かくもてなしました。二晩、サロニカのホテルで一緒に夕食をとりました。彼は元気で、少し日に焼けています。みなさんによろしく伝えてほしいと言っていました。彼もまたこの戦争が早く終わればいいと思っています。彼が言うには、前線ではいいことばかりではなく、ミヨー(*1)の同じラジョル通りに住む戦友が十日前に航空魚雷(*2)によって彼のかたわらで死んだそうです。この戦争が終わることを切に望んでいます。さしあたって、もう特に話すことはありません。マリー・ジュスタンとマルゴによろしく。みんなにキスをします。エミール・デルマ

(*1)ミヨー Millau は南仏ミディ=ピレネー地方アヴェロン県にある街。この街にたしかにラジョル通り rue du Rajol が存在する。本文から、差出人に会いに来た「エメ・カルラ」はここに住んでいたことがわかるが、差出人やその妹(受取人)もこの近くに住んでいたのではないかと推測される(封書で送られたらしく、住所は書かれていない)。
(*2)航空魚雷とは、飛行機から水中に落下させて船に命中させる魚雷のこと。



1917年8月8日-地中海を往復する病院船ラファイエット

 大戦中は、戦地で負傷したり病気になった兵士を後送するために、鉄道以外に船も用いられた。大戦初期には、北仏やベルギーの戦闘で負傷した兵士を、フランス最北端のダンケルクの港で乗せて後方に運び、一杯になっていた鉄道を補助する役割を果たしたが、西部戦線の膠着後は、むしろ地中海で活躍した。こうした「病院船」は全部で19隻ほど存在した (Altarovici, p.47)
 次の葉書に写真が印刷されたラファイエット号も、こうした病院船の一つ。もともとフランスとアメリカを結ぶ大型客船として建造されたが、戦争中に病院船に改造され、南仏トゥーロンとギリシアのサロニカ間を往復した。この葉書は軍事郵便専用の珍しい葉書で、差出人欄と宛名欄は空欄なので、封筒に入れて送られたことがわかる。
 本文を読むと、差出人はこのラファイエット号に乗り込んでいた医師、看護兵、水兵のいずれかで、おそらく船が修復のためにボルドーに停泊していた間に、その南にある故郷のダックスに戻っていたときに投函したのではないかと推測される。
 サロニカ遠征を中世の「十字軍」にたとえているのが興味を惹く。たしかに、十字軍でもイスラム教徒を敵にまわし、しばしば地中海を渡って敵地に赴いたから、そうした連想が働いたのだろう。「第3回慈善十字軍」というのは気の利いた表現だが、この差出人が病院船に乗って救護に向かうのがこれで3回目であることを意味している。
 

1917年8月8日

1917年8月8日

〔本文〕
    ラファイエット号(*1)より、1917年8月8日
 おば様たちへ おそらく今夜、出港することになりますので、その前に、非常に簡潔ではありますが、心からの誠実な思いを込めたお便りを差し上げます。私は希望と神への信頼を抱きつつ、私に託された使命を変わらず誇りに思いながら、第3回慈善十字軍に出発いたします。愛情のこもったキスを送ります。
          ダックス(*2)より、R. プルー

(*1)ラファイエット号は、もともと大西洋を横断して米仏を結ぶ大型客船として、第一次世界大戦の直前から建造が開始され、1915年からボルドーとニューヨークを結んで運航されていた。1917年1月にフランス軍に徴用され、ボルドーのドックで改造され、病床数1,400の病院船となり、1917年末までに地中海の南仏トゥーロン~サロニカ間を10回以上往復した。なお、この船の名前は、アメリカ独立戦争でアメリカの独立を助けたフランスのラファイエット侯爵に由来する。
(*2)ダックス Dax はフランス南西部のランド県にある、大西洋やスペインに近い人口1万人強(当時)の街。ボルドーの約150 km南にあり、ボルドーとは鉄道で結ばれていた。ちなみに、当時はアメリカ参戦後まもない頃で、アメリカからの軍艦が続々とボルドー近辺に入港し、混雑していた。



1917年8月16日-アメリカ参戦の軍事葉書(1)

 それまで中立を守っていたアメリカは、ドイツの無制限潜水艦作戦によってアメリカ船が相次いで撃沈されたことを受け、1917年4月6日にドイツに宣戦布告し、6月にはアメリカ軍の第一陣が大西洋を渡り、フランス西部の港町サン=ナゼール Saint-Nazaire に上陸した。
 長びく戦争で低下していた士気を、アメリカ参戦の知らせによって再び奮い立たせようという意図のもとで、アメリカ軍の上陸を記念して一連の軍事葉書シリーズが作られた。次の葉書はそのうちの一枚。写真の上の「士気を高めるため、というか奮い起こすために、こうした葉書が配られています」という書き込みが当時の状況をよく物語っている。
 フランスにやってくる他国軍は、みな現地の服装のままやってきたが、この写真のアメリカ兵も、西部劇に出てくるようなカーボーイそのままの格好をしている。

 ただ、参戦当初はアメリカ兵が上陸してくる速度が遅く、また前線に立つ前に後方での訓練が必要だったため、アメリカ兵が実戦で無視しえない兵力となるまでには翌1918年まで待たねばならなかった。

1917年8月16日

1917年8月16日

〔写真下の説明〕
フランスに上陸した最初のアメリカ軍部隊の行進(1917年6月)

〔写真の上への書き込み〕
士気を高めるため、というか奮い起こすために、こうした葉書が配られています。

〔本文〕
        1917年8月16日
 親愛なるイヴォンヌ、親愛なるアンナ
 今日はお二人からの便りはありませんでした。昨日は3通も受けとりましたから。小包ありがとうございます。でも、休暇に帰る前は、これで最後にしてください。若鶏は本当にすばらしい味でした。お菓子もとてもおいしく、新鮮なままでした。ジャン・プラサールのことを知らせてくれて喜んでいます。彼は私の住所をなくしたにちがいなく、私が出した手紙も受けとっていないようです。私は元気でやっており、不足しているものはありません。私の代わりに父と母を抱きしめてください。二人とも私の心からのキスを受けとってください。 サイン(ピエール?)



1917年8月21日-アメリカ参戦の軍事葉書(2)

 次の葉書も、同じ軍事葉書シリーズのうちの一枚。
 写真説明に「パリを行進するアメリカ軍部隊」とあるとおり、写されているのはパリ中心部リヴォリ通りでの行進風景。左手の建物はルーヴル美術館。その奥にはチュイルリー公園が見える。
 上の葉書と同様、差出人はこの葉書を封筒に入れて送ったと思われる。

1917年8月21日

1917年8月21日

〔写真下の説明〕
パリを行進するアメリカ軍部隊(1917年6月)

〔本文〕
1917年8月21日
 いとしいお母さん 非常に幸運なことに晴天が続いており、泥がよく乾き始めています(*1)。
 できればムーリエ法(*2)の条文が載っている官報を入手し、送ってください。
 私の健康はまったく問題ない状態が続いています。ここでこの職務を続けられたらいいと思っています。
 戦争が終わることを切に願っています。もう、みんなうんざりしています。今朝、塹壕から戻ってきたアルフォンスの連隊を見かけました。兵隊たちは本当に疲れきっていましたが、無理もありません。
 あいかわらず、すべき仕事はたくさんあります。
 それではまた明日、愛を込めて
  (サイン)

〔宛名面の横の活字〕
共和国軍
郵便
料金無料葉書
住所:
  様

〔宛名面の縦の活字〕
差出人:
氏名:
階級:
連隊または部隊:
中隊、大隊、小隊等:
郵便区番号:
(返信時の住所欄には上の記載事項を記入すること)

(*1)塹壕は地面に穴を掘って作られるので、雨が降ると水びたしになり、泥だらけの中で生活しなければならなかった。そのため、雨は兵士から嫌われ、晴天は泥が乾くので有難がられた。当時の兵士の家族宛の手紙には「靴下を送ってほしい」と書かれたものがたくさんある。
(*2)ムーリエ法とは、医師でもあった南仏ガール県の代議士ルイ・ムーリエ Louis Mourier(1873-1960)が提出して1917年8月10日(この葉書が書かれた11日前)に採択された法律のこと。この法律は、若くて健康な一部の人々が前線に行かずに後方(工場など)で勤務していることへの人々の不満を解消することを目指したもので、たとえば熟練工は軍需工場で働かせる代わりに、若い労働者は前線に送ることを定めている。



1917年10月3日-毒ガスの後遺症

 次の葉書は、おそらく激戦地ヴェルダンで苛酷な時期をすごしたのち、毒ガスの後遺症をわずらいながらも、アルザス近くに来ていたと思われる差出人が仲間に宛てたもの。

1917年10月3日

1917年10月3日

〔写真上の説明〕
ベッソンクール(*1)-ドゥネー通り

〔本文〕
   1917年10月3日
  親愛なるフロリモンへ
 こんなにも長い間、便りをせずにいて済まない。とてもつらい時期をすごしていたんだ。幸いにも、ヴ……(*2)から抜け出すことができた。今年は去年よりも少しましな場所にいた。すべてはうまくいったが、毒ガスで軽い中毒にかかってしまった。少し後方で休養しているところだ。しかし今度は、毎日ドイツ野郎の飛行機の爆撃がある。あと二週間くらいしたら休暇にいけると思う。君のほうはいつごろ休暇が取れそうかな? 狩をしたいと思っていたが、その期待は裏切られてしまった。いずれにせよ、十日間を快適にすごす方法を見つけるつもりだ。家族はみな元気だ。君と君の家族も元気であることを願っている。アンドレさんによろしく。
 心から君に握手をする。
   昔からの仲間より  サイン(D. ルネ)

(*1)ベッソンクール Bessoncourt はフランス東部のアルザス地方に近いベルフォールにある人口500人台(当時)の村。ドゥネーDenneyはその北西にある村。
(*2)軍事機密のため地名を書くことができず、頭文字 V のみになっているが、おそらく大戦最大の激戦地区ヴェルダンか。



1917年10月26日-捕虜1万人と大砲120門をぶんどる

 次の葉書は、フランス北東部の街フィムまたはその近辺で戦う兵士から南仏ラ・パルムに住む家族に宛てて、封筒に入れて差し出されたもの。
 宛名には未婚の女性の敬称がついているが、末尾には「息子にして父より」と書かれているので、形式上は娘に宛てつつ、実質的には親と娘の両方に宛てて書かれたものだといえる。

1917年10月26日

1917年10月26日

〔写真説明〕
フィム(*1)-1914年9月2日にフランス軍の工兵隊が爆破したヴェール川に架かる橋

〔本文〕
    1917年10月26日
 私は元気でいます。21日付のカルト・レットルと22日付のお手紙、ありがとうございます。ドイツ野郎は退却し続けています。我々が捕虜にした敵兵は1万人に達し、120門の大砲をぶんどりました。あいかわらず攻撃はわが軍に有利に進んでいます。みなさんを抱きしめる息子にして父より E. ボネ

〔宛名〕
オード県ラ・パルム(*2)
ジャンヌ・ボネ様

(*1)フィム Fismes はフランス北東部マルヌ県の街。この写真は、大戦初期、フランス軍がドイツ軍の進撃をくい止めるためにわざと橋を破壊したようすを写したもの。この後、フィムの街はドイツ軍によって占領された。いったんドイツ軍は退却するが、この葉書の書かれた翌1918年には再度のドイツ軍の攻勢によってこの街は主戦場の一つとなり、主だった建物は瓦礫の山と化すことになる。
(*2)ラ・パルム La Palme はスペインとの国境に近い、南仏オード県にある地中海に面した港町。



1917年10月26日-巨大な「列車砲」

 次の葉書に写っているのは、線路の上を移動する列車に巨大な大砲を備えつけた、いわゆる「列車砲」。この葉書は、即席で撮影した写真をそのまま葉書に現像した「カルト・フォト」と呼ばれるもので、写真の右上には、撮影の日付として「17年4月23日」と書き込まれている。半年前に作って手元に取っておいた葉書を使用したものであることがわかる。
 第一次世界大戦中は、兵器のための技術が著しく進歩し、初期と末期では大きく様相が変化したが、これほどまでに巨大な大砲が登場して人間を襲うようになると、この葉書に書かれているように「戦争は進むにつれて野蛮で残酷なものになっている」という感想も頷ける気がする。

1917年10月26日

1917年10月26日

〔写真右上の文字〕
1917年4月23日

〔本文〕
  ソムスー(*1)にて、1917年10月26日
     親愛なるロージャック様
 もっと早くお便りを差し上げなかったのは、直接お会いできると思っていたからです。10月1日に休暇に出発するはずでしたので。しかし、実際に砲兵中隊から出発したのは9月21日でした。それ以来、本当にジプシーのようにいろいろなところを駆けまわり、現在は今月21日から砲兵隊の「大道具」と「小道具」を引きつれて、ここマイイーキャンプの近くでアメリカ軍と一緒にいます。それを別にすれば、とてもよく、なんといっても屋内にいられるので、これまで転々としてきたところに比べれば、心地よく落ちつくことができます。それはそれでいいのですが、本当はこの殺りくが全部終わるのを目にすることができればよいのですが。戦争は進むにつれて野蛮で残酷なものになっているからです。
 うれしいことに、ガブリエルから便りをもらいました。休暇から戻ったそうですが、むしろつらかったと書いてありました。皆さんもお元気だとよいのですが。奥様とご家族にどうぞよろしく。ガブリエルの婚約者にも。私の母にもよろしくお伝えください。
 心から握手をします。(サイン)

〔右上の書き込み〕
 工場の仲間にもよろしく。

(*1)ソムスー Sommesous はパリのほぼ真東140 kmほどのところにあるマルヌ県の村。この村のすぐ隣に、本文に書かれているようにマイイー Mailly キャンプ(駐屯地)がある。



1917年12月25日-シベリアの寒さの塹壕

 次の葉書は、フランス北東部マルヌ県の塹壕にいた兵士が1918年の年賀状を兼ねて書き送ったもの。相手の「アニー」は、家族か親戚、または親しい知人だと思われる。
 最前線の塹壕では、火をおこせば砲弾や銃器の標的となったので、たき火で暖をとることもできず、寒さをしのぐには、ひたすら手をこすりあわせ、息を吹きかけ、足踏みすることぐらいしかできなかった。そうした状況で、ろくにクリスマスを祝うこともできず、シベリアさながらの寒波に震えていなければならないとしたら、早く平和が訪れるのを願ったのも無理はないかもしれない。

1917年12月25日

1917年12月25日

〔本文〕
 いとしいアニーへ 少し静かな時間ができたので、これを利用して、数行書き送ることにします。新年を迎えるにあたって、みなさん三人に対し、心からの祈念を捧げることなく元旦をやりすごしたいとは思わないからです。また、私の現状についても少し詳しくお知らせしたいと思いました。現状はあまりぱっとしません。あいかわらず塹壕にいるからです。ほんとうに、私たちはクリスマスの日をとてもみじめにすごしました。元旦も同じことになるでしょう。いずれにせよ、新しい年には、切に願われる平和がやってくることを希望しましょう。
 こちらでは、しばらく前から、寒さで非常につらい思いをしています。物は凍り、雪もたくさん降っています。ひとことで言えば、本当にシベリアの気温なのです。

〔上部余白〕
あいかわらずリスさんからはよい知らせをもらっていますか。
みなさん三人に対して、私の誠実な友情を。レイモン

〔写真の書き込み〕
よい思いと心からの祈念を。
(1917年12月25日)
サイン(L. レイモン)

〔写真の説明〕
1914~1917年の大戦(*1)
ムルムロン=ル=グラン(シャロン駐屯地)(*2)-シャロン通り(1917年8月)

(*1)この葉書は1917年に作られたために、こうした書き方になっている。
(*2)「シャロン駐屯地があることで有名なムルムロン=ル=グラン」という意味。ムルムロン=ル=グラン Mourmelon-le-Grand はフランス北東部マルヌ県にある人口5千人程度(当時)の街。ランス Reims の東南20 kmくらいのところにある。
 ちなみに、緯度だけでみると、フランスの国土の半分以上が、北海道の最北端の稚内よりも北に位置する。





(追加予定)





 なお、なかなか葉書では窺い知ることができない戦争後期(1917年頃)の兵士の心情を歌った「クラオンヌの歌」も参照されたい。






⇒ 1918年










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