「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

『仏国戦死軍人絶筆集』

『仏国戦死軍人絶筆集』

 第一次世界大戦が終結した4年後の1922年、大戦中に戦死したフランスの将兵が死のまぎわに遺した手紙を集めた書簡集が刊行された。題名は『1914~1918年に戦場で死んだフランスの軍人たちによって書かれた最後の手紙』La dernière lettre écrite par des soldats français tombés au champ d'honneur 1914-1918, Flammarion, 1922.

 こうした遺書に近い手紙は、残された遺族が大切に保管するものなので、外部に流出することはあまりなく、筆者のような単なる葉書コレクターの手に渡ることは滅多にない。そのため、本ホームページに掲載している葉書類とは「月とすっぽん」のような違いがあり、比較するのも気が引けたので、これまで、この本について触れるのは避けてきた。
 しかし、名月を愛でるだけでなく、すっぽんの目線に立つことも必要なはずだと言い聞かせ、気を取り直して、このページでは名月に向きあうことにしたい。
 なお、この本は下記のように昭和初期に『佛國戦死軍人絶筆集』として日本語訳が出ているので、以下『絶筆集』と呼ぶことにする。

 まず、この『絶筆集』の成り立ちを確認しておこう。フランス語原版には、「1921年1月17日、『小隊長及び戦う兵士同盟』副会長ビネ=ヴァルメールの提唱に基づき、本書に公表される手紙を選ぶための委員会が設立された」と書かれ、この委員会の議長として大戦末期に最高司令官を務めた「フォッシュ元帥」の名と、その他14名の委員の名が記されている。
 また、表紙の題名の下には、「これらの手紙は、フォッシュ元帥のもとに集まった退役軍人とフランスのために死んだ息子を嘆く父たちによって選ばれた」と書かれている。
 さらに、表紙下部には、「この本は、パリ9区ラフィット通り10番地の『祖国のために息子を失った父母の会』、パリ8区ボークール通り17番地3の『小隊長及び戦う兵士同盟』、ならびにパリ6区ラシーヌ通り26番地のエルネスト・フラマリオン氏により刊行された」と記されている。

 ここからも推測がつくように、この『絶筆集』には、祖国のためなら進んで命を落とそうという、愛国精神あふれる模範的な将兵の手紙だけが集められている。
 また、戦争で息子を失った「父たちによって選ばれた」ものであるためか、妻や友人よりもむしろ父母に宛てた手紙が多く、従容として死地に赴きつつ、残された父母を思いやるといった、親孝行な内容の手紙が多い。

 本ホームページの他のページの葉書には書かれることのある不平不満・愚痴や厭戦的な言葉は、この『絶筆集』にはほとんど出てこない。
 これは、両親や肉親を心配させないように、あえてそうした本音は書かれなかったためだろうか。あるいは、単に編集時に不都合な部分が削除されたためなのだろうか。あるいは、死を覚悟して気持ちを整理すると、自然とネガティブな要素は消えていくものなのだろうか。

 いずれにせよ、死を悟った者の言葉は、崇高な威厳をもって響く。なかには、死者が口を開いて語りかけているような錯覚を起こさせる手紙もある。死者が語るとすれば、それは奇跡であり、まさに奇跡のような輝きを放っているものさえある気がする。

 フランスでこの本が出版された数年後、日本でも海軍中佐 洪 泰夫氏によって翻訳が出た。まず、3年後の1925年(大正14年)、海軍系の団体である水交社の機関紙『水交社記事』第239、第240、第241号(第23巻第2、第3、第4号、順に6月、9月、12月発行)に3回に分けて掲載された。ついで全文カタカナだった表記をひらがなに改めるなどの手直しを経て、1927年(昭和2年)12月、水交社から『佛國戦死軍人絶筆集 1914-1918』として刊行された。
 洪 泰夫氏はのちに海軍少将となり、国際連盟の代表を務めるかたわら、レーモン・ルクーリー著『フォッシュの回想』(水交社刊)やジョルジュ・クレマンソー著『戰勝の威光と其の悲哀』(海軍省教育局刊)も訳されたらしい。

 この洪氏が訳された『絶筆集』は、厳密にいうと全訳ではない。もとのフランス語の本には、数え方にもよるが141通の手紙が収められているが、そのうちの6通が訳出されていないからである。この6通は、アメリカ兵が書いたものや、詩だけの手紙、あるいは他の典型的な手紙とは異なる形式で書かれたものが含まれており、感動が伝わりにくいと思って除外されたのかもしれない。
 訳文は、訳に関する細かい点を除けば、全体としては文章の完成度は非常に高く、原文の感動を十二分に伝えている。ただ、なにぶんにも戦前のものなので、手紙によっては「~していただきたい」の意味で「~被下度願上申候」(くだされたく ねがいあげ もうしそうろう)のように候(そうろう)文が用いられており、北アフリカの「アルジェリア」は「アルゼリア」、貨幣単位の「フラン」は「法」と表記され、もちろんすべて旧字旧仮名なので、現代の読者には少し理解しにくいかもしれない。また、この本自体、絶版で入手困難なものとなっている。

 そこで、著作権も消滅しているので、このページでは試みにいくつか訳し、しばらく名月を愛でることとしたい。
 なお、原文では戦死者(差出人)の姓のアルファベット順に並んでいるが、とりあえず以下では日付順に配列しておく。



1914年8月22日戦死(91通目)

<1914年8月22日、ムルト=エ=モゼル県ピエールポンの戦いにより、バルリウーで戦死した歩兵第151連隊少尉ジョルジュ・ル・バル(*1)の遺体の近くで見つかった手紙>

  いとしいご両親
  ならびに妹たちへ

 皆さんがこの葉書を受け取られる頃は、もう皆さんの息子はこの世におりません。私は 6人の兵とともに斥候に出たところ、数メートルの距離から弾丸を受け、腿の動脈が切れました。その後、一人残され、24時間は生きのびましたが、天国に召されることになりました。天国では遅かれ早かれ皆さんと再会するわけですから、あまり嘆かれることなく、どうぞ私のためにお祈りください。
 さあ。最後の瞬間、私は皆さんに思いを馳せ、神に思いを馳せています。
 最後に、皆さんに長く、やさしくキスを送ります。
 これが永遠のお別れとなります。皆さんの息子にして兄

           ジョ(*2)

(*1)フランス国防省の戦死者データベースによると、ジョルジュ・ル・バルは1893年8月18日生まれ。享年21才だったことになる。
(*2)「ジョ」は「ジョルジュ」の愛称。



1915年8月13日戦死(57通目)

 <1915年8月13日に戦死した歩兵第176連隊中尉アンリ・フルニエ(*1)が書いた手紙>

  親愛なるご両親

 今夜、我々はダーダネルス(*2)に向けて出港します。本当に時間がないので、急いで書きます。どうやら激しい戦闘をしにいくことになりそうです。もし無事に切り抜けられたら(と願っているのですが)急いで便りを差し上げるつもりです。
 お二人に心の底からキスをしつつ、まもなく再会できることを願っています。しかし、もし私が戻らなかったとしたら、強い心で私の犠牲を受け入れてください。私は何の悔いもなく、自分の国のために命を捧げられて満足していますから、そう心に言い聞かせてください。これで我々が勝利できたら、なお嬉しいのですが。
 お二人にこんなことを書いて、苦痛に思われるかもしれません。そうだとしたら許し下さい。しかし、事態は急を告げています。
 これ以上書くことはできません。しかし、ご安心ください。いずれにせよ最終的に成功を収めることを私はまったく疑っていません。
 最後にもう一度だけ、お二人を愛する息子から無数のキスを。

              アンリ

(*1)「アンリ・フルニエ」はありふれた名前で、フランス国防省の戦死者データベースには大戦中に死亡した同姓同名の「アンリ・フルニエ」が25名も収録されているが、上に該当するものが見あたらず、詳細不明。
(*2)ダーダネルス海峡は、地中海の東端、ギリシアとトルコの間にある。1915年、ダーダネルス海峡に面するガリポリ半島において、ドイツ側についたオスマン帝国と英仏軍との間でガリポリの戦いがおこなわれ、英仏軍は敗北、フランス軍の死者・行方不明者はあわせて1万人に達した。この手紙を書いたアンリ・フルニエもそのうちの一人だったことになる。



1915年10月4日戦死(89通目)

<1915年10月4日、ミエットの塹壕で戦死した歩兵第412連隊伍長フランソワ=ピエール=ジョゼフ・ラスクー(*1)が書いた手紙>

 もしお母様がこの手紙を受け取られたとしたら、それは私が勇敢にキリスト教徒として戦場で死んだことをお知らせするためです。「キリスト教徒として」と書いたのは、私は覚悟ができているからです。
 私はお母様に単なる「さようなら」ではなく「さらば」と言います。神のもとで(*2)私はお母さんをお待ちしているからです。神のもとで、いつの日か再会できることを確信しつつ、そこを待ち合わせ場所に指定したいと思います。
 すべてを神の意志に委ねてください。この出来事が起こるにあたって、神は私が大いなる心の安らぎを得ることをお許しになりました。
 十字架の下にいる聖母マリアをご覧ください。聖母と同様、「神のみ心のままに」と仰ってください。
 さらば、お母様。あなたの息子は義務を果たして死んだと思って、また最後に考えていたのは神のこと、フランスのこと、お母様のことであったと思って、お慰めください。
 待ち合わせ場所は…… 天です!
 私が愛したすべての人々とも、同じ待ち合わせ場所です。

(*1)フランス国防省の戦死者データベースによると、フランソワ=ピエール・ラスクーは1891年1月31日生まれ。享年24才だったことになる。
(*2)フランス語の「さらば」Adieu と「神のもとで」À Dieu を掛けた表現。



1916年9月4日戦死(124通目)

<1916年9月4日、サジェクールの戦いで戦死した歩兵第158連隊擲弾少尉ルイ・キテ(*1)が書いた手紙>

 いとしいご両親、どうぞ気持ちを強くお持ちください。もし私が死なねばならないとしても、少なくとも私が最後まで務めを果たしたと思うことで、慰めとすることができるはずです。お嘆きになってはなりませんよ。祖国のために死ぬ者を、嘆いたりはしないものですから。

(*1)フランス国防省の戦死者データベースによると、ルイ・キテは1891年11月7日生まれ。享年24才だったことになる。



1916年10月24日戦死(18通目)

<1916年10月24日、ドゥオーモンの要塞(*1)で戦死したモロッコ植民地連隊伍長イザク=アンリ・ビスミュート(*2)が書いた手紙>

   前線にて、
   1916年10月22日午前8時

  いとしい弟へ

 これがおまえに書く最後の手紙となるだろう。今日、10時に自動車でヴェルダンに出発する。おそらく今夜、前線に立つ。二、三日後に攻撃になるだろう。必ず立派な働きをしてみせる。ドゥオーモンの要塞を奪うための攻撃だ。なに、奪ってみせるさ、手放さないでみせるさ、そしてドイツ野郎どもをやっつけてやるさ。
 スバ奥様に買っていただいたレインコートをスタンヴィルに住む親切な女性のところに預けておく。もし私に不幸が起きたら、その女性から引き取ってくれ。住所は「ムーズ県スタンヴィル 57 ナシオナル通り ガロワ奥様」だ。
 勝利を願いつつ、喜び勇んで出発する。果たすべき使命があるから、最後までやり抜くつもりだ。
 我が軍が勝利することを信じている。きっと優位に立てるだろう。
 ○○さんによろしく伝えてくれ。

           兄
            アンリ・ビスミュート

(*1)ドゥオーモンの要塞は、第一次世界大戦最大の激戦地として記憶されるヴェルダン地区の中でも最強として知られた要塞。1916年2月25日にドイツ軍に占領されたが、フランス軍は同年10月21~23日に36万発の砲弾を撃ち込んだのち、10月24日に突撃を敢行し、奪還に成功した。上の手紙を書いたアンリ・ビスミュートは、まさにこの突撃によって戦死したと思われる。翌25日のフランスの新聞各紙には大きく「ドゥオーモン奪還」の文字が踊った。ちなみに、ジャン・ルノワール監督の映画『大いなる幻影』では、ドイツにとらわれているフランス兵捕虜が新聞で「ドゥオーモン奪還」を知り、ラ・マルセイエーズを歌い出す場面があるが、このときの新聞を見たのではないかと思われる。
(*2)フランス国防省の戦死者データベースによると、イザク=アンリ・ビスミュートは1889年6月20日生まれ。享年27才だったことになる。



1918年6月2日戦死(31通目)

<1918年6月2日に戦死した兵士コラン(*1)が書いた手紙>

  愛するご両親へ

 もしこの手紙がお手許に届きましたら、それはお二人の息子エロワがもうこの世にいないことを意味します。その不幸が起こったとしても、お嘆きにならないでください。私は単に義務を果たしただけですから。この義務を完遂しようと私は心に決めていましたが、そのためにご両親には大変なご心労をおかけしてしまいました。私が唯一お願いしたいのは、私が志願したことでご心労をおかけしたことをお許しいただきたいということです。
 祝福し、私のためにお祈りください。
 このあたりでやめておきます。長々と書いても、お心を痛めるだけですから。しっかりなさってください。勝利は我らのものです。いとしい我らが祖国万歳!
 私が愛してやまなかったお二人に最後のキスを送ります。さようなら。フランス万歳!

           コラン

(*1)姓のみで名が不明なため、フランス国防省の戦死者データベースで調べられず、生年月日等は不明。



戦死の日付不明(48通目)

<戦死した歩兵第68連隊伍長 A. デュラン(*1)が書いた手紙>

  いとしい妻へ
  いとしいご両親へ

 もし神の意志により、一発の弾丸が私を死に至らしめ、いとしいマルグリット、いとしい子供たち、いとしいご両親に愛されたこの命が奪われるようなことがあったなら、私が死の瞬間に長い旅に出る心構えができていたことを知って、せめてもの慰めとしてください。私が地上でできたかもしれないすべてのことの代わりに、空の上から祈っております。いずれ空の上で皆さんに再会できることを願いつつ。
 いとしい妻よ、おまえの人生は滅茶苦茶になってしまったな。ああ! 私たちの美しい日々は短く、少ないものだったな。わかってくれると思うが、おそらくもう二度とみんなに会えないと思うと、ひどく胸をかきむしられる思いだ。
 しかし、そうはいっても、私はフランス人として、キリスト教徒として、一家の父として、義務を果たして行動したいと思っている。もし死に襲われることがあったなら、私の最後のキス、最後に吐く息は、いとしい妻であるおまえと、いとしい子供たち、そして両親に捧げるものとなるだろう。
 いとしいマルグリットよ、おまえはジャンヌとモーリスというかわいらしい子供たちの中に、かけがえのない慰めと私の忠実な記憶を見出すだろう。子供たちを愛してやまなかった父の思い出を語ってやってくれ。神への愛、仕事への熱意を教え、立派な教育を授けてやってくれ。要するに、立派な息子、立派に家事を切り盛りできる女に育ててくれ。
 いとしい人々よ、私の思い出を大切にし、どんなことがあっても私はみなのことを考えていると信じてほしい。妻と子供がいる身だから、無駄に犠牲にはなりたくないが、もし神が望み、義務によって要請されたなら、私は軍人として行動するつもりだ。
 さようなら、いとしい妻よ、おまえのことはいつも気にかけていた。この戦争で余儀なくされた長く残酷な離別の間、おまえへの愛はむしろ大きくなるばかりだった。その愛を持っていくことにしよう。
 おそらくこれが最後になりますが、みなさんにやさしくキスをします。
 さようなら、愛するご両親。私に代わり、いとしいマルグリットを支えてやってください。

           A. デュラン

(*1)正確な名が不明なため、フランス国防省の戦死者データベースで調べられず、生年月日等は不明。



戦死の日付不明(141通目)

<シャンパーニュ地方で戦死した歩兵第405連隊少尉ロドルフ・ウュルツ(*1)が書いた手紙>

  いとしいお母さん

 私はお母さんがこの手紙を決して受け取られないことを望んでいます。もしいつの日かこの手紙が届いたとしたら、それは私が亡き父と弟に再会しに行ったことを意味するからです。
 この死ぬという観念は、これっぽっちも怖くはありません。もし私が死ぬとしたら、それはフランスのためであり、現在多くの人々がそうしているように、自分の義務を果たすことによってなのですから。
 唯一気がかりなのは、お母さんのことです。「かわいそうなお母さんはどうなるのだろう」と自問しています。もし私が死んだら、こうしてください。まず、つとめて心を落ち着け、平静を保ち、絶望して人前に出て泣き叫んだりしないでください。苦しみは穏やかに、また威厳あるものでありますように。
 それから、リュシェ=トゥーアルセ(*2)の父の墓前に行き、二人の息子は義務を果たして死んだと、また婿も同様だったと、告げてください。
 長男ロドルフと次男エミールが戦死したことを知って、父は満足されるでしょう。
 また、ロドルフは士官として兵の先頭に立ち、敵の前で死んだと父にお告げください。立派な子供たちを持ったことを知って(立派といえるかどうか疑っている人々もいましたが)いとしいお父さんは幸せに思われるでしょうし、いとしいお母さんも満足されるでしょう。
 そしてシェフ=ブートンヌ駅(*3)の仕事に復帰され、相当疲れてもう十分に働いたので休みたいと思われる日まで、お仕事をお続けください。
 そしてフランス領となっている故郷アルザスにお戻りください。タンやストラスブール(*4)に行かれたら、お母さんの息子は我らのなつかしい地方をフランスに取り戻すのに貢献したのだと心の中で呟かれることでしょう。
 この考えがお母さんの心に心地よく響きますように。それがお母さんの老いの慰めとなるでしょう。お母さんには、つねに勇気と信頼をお持ちいただきたいと願っています。しっかりと犠牲を受け入れたら、諦念のなかに喜びを見出すことで、人は強くなるものです。誰に対してもお怒りにならず、子供が無事だった母親たちをねたまないでください。もし私や弟の友人を見て溜息が出ることがあったら、息子たちはもう苦しんではおらず、息子たちの栄光ある死は、生き残った者たちの哀れな生に十分に匹敵するとお考えください。
 お約束いただけるでしょうか。もし私が戻らなかったとしたら、お母さんの長男は、最後の瞬間にお母さんと妹ブランシュのことを考えていたと思ってください。そして勇者たちの天国から私がお二人を守っていると思ってください。
 さあ、お別れのキスです。生きても死んでも、勇気と強い心をお持ちください。

           ロドルフ・ウュルツ

(*1)フランス国防省の戦死者データベースによると、ロドルフ・ウュルツは1894年2月9日生まれ、1915年9月28日に戦死した。享年21才だったことになる。
(*2)リュシェ=トゥーアルセはフランス西部ドゥ=セーヴル県にある村。
(*3)シェフ=ブートンヌ駅もドゥ=セーヴル県にある。
(*4)タンとストラスブールは、どちらもフランス東部アルザス地方の街で、1870年の普仏戦争でドイツ領となったが、タンは第一次世界大戦の開戦早々にフランス軍が奪還し、ストラスブールは大戦後にフランスに引き渡された。





(追加予定)
















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