「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

大戦中の日付不明の葉書

日付不明の葉書

このページでは、日付の記載も消印もないが、第一次世界大戦中に書かれたことは確実な葉書を取り上げてみたい。

日付不明-パリ近郊の郵便配達人

 次の葉書は、負傷した兵士や病気の兵士、医師や看護婦などの病院スタッフを撮影した写真を、葉書用の厚紙に直接焼きつけてできた「カルト・フォト」と呼ばれるもの。
 封筒に入れて送られており、差出人や受取人の氏名は書かれておらず不明。しかし、「カルト・フォト」には差出人が写っているのが普通であり、この葉書のフランス語の文面をじっくり読むと、このうちの誰が差出人なのかがわかる。さて、誰が差出人だろうか。

日付不明

日付不明

〔本文〕
 お母様
 封書為替と同時に、私が区域を担当している517病院(*1)の写真を送ります。半数ほどの病院のスタッフや負傷兵と一緒に、私も写ることになりました。どこにいるかわかりますか? 少し蔭になっていて、ちょっと暗く写っているのだけれど。とくに変わったことはありません。元気でやっています。お母さんも病気にならないように気をつけて。今度の春に会いにいきます。それでは。息子より

〔左端の紫色の小さな字のスタンプ〕
写真家モロー、サン=ジェルマン=アン=レー(*2)

(*1)臨時病院(=戦争中に急増する傷病兵に対応するために学校やホテルなど大型の建物を転用した病院)の番号だと思われる。
(*2)サン=ジェルマン=アン=レー Saint-Germain-en-Laye はパリの西隣にある街。ここに住む「写真家モロー」が撮影し、数十枚(または十数枚)葉書に現像して、ここに写っている負傷兵らに販売したと推測される。そのうちの多くが、近況を記した文章を添えて、この葉書を家族のもとに送ったはずである。

 さて、誰が差出人なのかを推理してみたい。
 まず、「病院のスタッフや負傷兵と一緒に、私も写ることになりました」という文から、差出人は「病院のスタッフや負傷兵」ではなく、本来なら写真に写るつもりはなかったのに、たまたま写真に写ったらしいことがわかる。
 決定的なのは、最初の文に出てくる「区域を担当する」desservir という動詞である。この動詞は特殊な使い方をする単語で、物ではなく人が主語になる場合は、おもに「聖職者」または「郵便配達人」が「区域を担当する(受け持つ、管轄する)」という意味で使われる (Cf. TLFi, s.v. desservir)。この写真には聖職者らしき人は写っていない。とすると、差出人は郵便配達人のはずである。この写真で郵便配達人と思われるのは、向かって一番左端に立っている人であり、郵便配達人が肩から掛けることが多い、太いベルトがついた典型的なかばんを右肩から下げている(戦争中の郵便配達人の絵葉書を参照)。

郵便配達人

 要するに、自分の担当する配達区域の中にある「517病院」に配達に行ったら、そこでたまたま記念撮影の準備をしていて、誘われて一緒に写真に収まったものと推測される。だから、写真の一番隅に立っているのだろう。
 こうした臨時病院のスタッフや負傷兵を写した「カルト・フォト」は多数現存するが、普通はこのように郵便配達人が写っていることはない。言われてみると、なんとなく一人だけ場違いのような表情を浮かべている気もする。

 郵便配達人 facteur のうちの相当数(若くて体力のある者)は、戦争が始まると前線で郵便物を収集・配達する「郵便物担当下士官」vaguemestre となったが、もちろんこのように後方で仕事をしていた者もいたわけである。



日付不明-一枚の葉書がたどった数奇な運命

 次の葉書は、あるフランス兵が、この写真に写っているフランス北東部ワーヴル地方の村を通ったときに、未使用の状態で村人から贈られ、ベルギーなど各地を転戦する間も肌身離さず持ち歩いたことが文面からわかる。実際、葉書の角も丸くすり減っている。その後、なかば独白のような形で書きつけたらしい。最後に「私の父の手に委ねる」と書かれているので、おそらく父宛の封書に同封したのではないだろうか。
 一風変わった文面で、「葉書」がなかば擬人化され、一貫して「この葉書」が主語で書かれている。

日付不明

日付不明

〔写真説明〕
トゥール(*1)近郊の写真
パニェ=デリエール=バリーヌ村。教会と街区の入口

〔本文〕
 この葉書は、私が歓待を受けたこの村の住民から私に与えられた。1914年9月25日、この地を通過して宿営した思い出として、この葉書が私に託されたのだ。この葉書は私とともにワーヴル地方を転々とし、私たちが冬のあいだじゅう苦しい時期をすごした中立国ベルギーにも行った。この葉書は私とともに再びワーヴル地方に戻り、ついで大きな森、広い平野があるロレーヌ地方を駆けめぐった。さあ、葉書よ、生まれ故郷に戻るがいい。いつの日かおまえに再開できることを願いつつ、おまえを私の父の手に委ねる。
     エリゼ・ジャンゼ(*2)

(*1)トゥール Toul はドイツやベルギーに近いフランス北東部にある人口1万5千人前後(当時)の都市。行政的にはロレーヌ地方ムルト=エ=モゼル県に属し、自然地理的にはワーヴル Woëvre 地方に属す。このトゥールの近くに、人口数百人のパニェ=デリエール=バリーヌ Pagney-derrière-Barine 村がある。
(*2)エリゼ Elisée は男の名で、文面からフランス軍の兵士だったと思われる。この文面が記された時期は不明だが、1915年以降であることは確実。

ちなみに、「この葉書がはるばる日本まで旅を続けたことを知ったなら、エリゼ・ジャンゼは喜んだことでしょう」という言葉とともに、筆者はこの葉書を譲り受けた。



(追加予定)














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