「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

20世紀前半のフランスの電報

フランスの電報

 少しフランス文学に興味のある人なら、カミュの小説『異邦人』を読んだことがあるだろう。そして、冒頭に出てくる文を記憶しているだろう。

  • Aujourd'hui, maman est morte. Ou peut-être hier, je ne sais pas. J'ai reçu un télégramme de l'asile : « Mère décédée. Enterrement demain. Sentiments distingués. » Cela ne veut rien dire. C'était peut-être hier.

  • きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。「ハハウエノシヲイタム、マイソウアス」これでは何もわからない。恐らく昨日だったのだろう。(窪田啓作訳、新潮文庫版)

 しかし、電報を実際に見たことのある人は少ないのではないだろうか。

 筆者が初めて昔の電報の実物を見たとき、まっ先に思い浮かべたのが上のカミュの一節だった。これがあの『異邦人』の冒頭に出てくるやつかと思い、違う色の紙テープが貼りつけられているのを見て、こういう仕組みになっているのかと合点がいった覚えがある。

 カミュの小説が書かれたのは第二次世界大戦前後だったが、第一次世界大戦の頃も電報用紙の書式は基本的には同じである。
 まだ電話があまり普及していなかった当時、急ぎの用件には電報がよく用いられた。20世紀後半になると、電話の普及に伴い、電報は急速に存在意義を失っていく。

 このページでは、電報がまだ生活に不可欠な、生き生きとした役割を帯びていた第一次世界大戦当時の電報を取り上げてみたい。

   ⇒ 電報用紙の読み方
   ⇒ 私用の電報(3通)
   ⇒ 公用の電報(3通)

電報用紙の読み方

 まず、フランスの20世紀前半の電報用紙の読み方について説明しておきたい。

 当時の電報について解説された文献は、なかなか見つからない。以下の記述は、おもに筆者が集めたフランスの1900年前後~第二次世界大戦頃の電報の実物を比較・観察した結果によるものであることをお断りしておく。

 当時の電報は、以下のような形で送信された。

  • 電報を送る場合は、郵便局の専用の用紙にメッセージ(宛先と本文)を読みやすい字で記入し、窓口に提出した。
  • 電信によって先方の郵便局(=配達局)にメッセージが届くと、局員はタイプライターで打ち出されたリボン状の紙テープをちぎって電報用紙にのりで貼りつけるか、または手書きで電報用紙に記入した。
  • いうまでもなく、電報ではメッセージが打電されて送られるだけなので、電報用紙に手書きで書かれている文字は、電報依頼者の自筆ではなく、すべて電信を受け取った郵便局の局員が記入したものである。通常、癖のない、ペン習字のような読みやすい字で書かれる。
  • この時代の通常の電報用紙は、広げた状態では半袖のワイシャツのような形をしている(下記画像を参照)。折りたたむ場合は、まず左右の「半袖」を内側に折りたたんでから、上下に二つに内側にたたむ(この順序は逆にすることもある)。最後に「首」の部分を内側にたたむ。
  • 折りたたみ終わった状態で表面にくるところに、宛先の住所・氏名の紙テープを貼りつけるか、または手書きで宛先を書き込んだ。その後、軽くのりを塗布した。電報を受け取った人は、「ここを破ってください」A DÉCHIRER と書かれた点線を破り、電報用紙を広げて読んだ。ただし、のりは軽くついているので、点線で破らずに、のりを剥がして広げられている場合も多い。
  • 広げた状態で右上の部分に配達局の日付印が捺された。
  • 電報は語数が多いほど料金が高くなるので、語数を切り詰めるために主語は省略され、単語の羅列のようになった。そのため、当事者以外は意味を取りにくいことも少なくない。
  • タイプライターによる紙テープの場合、アルファベットはすべて大文字が使われた。
  • 課金対象となる語数は、「本文」と「宛先の住所・氏名」の合計によってカウントされる。
  • 本文の前には、順に「発信局」、「番号」、「語数」、「日付」、「依頼時刻」が記載される。これは郵便局向けの情報なので、語数にはカウントされない。
  • 語数を切り詰めるため、多くの場合、差出人の住所・氏名は記載しない(正確にいえば、郵便局に提出する依頼用紙には書くが、電報メッセージとしては送られない)。その代わり、電報メッセージ(本文)の末尾に差出人の名または姓を入れることが多い。
  • 大戦中のものは、「検閲済」を意味する CTLE (=contrôlé) または VISÉ という印が捺されることがある。また、宛先の直前の部分に CTLE という文字が入ることがある。
  • 電報料金は、1916年当時、フランス国内間の場合、1語あたり5サンチームかかり、最低料金は50サンチームだった1916 Almanach, p.219)。つまり、10語未満に切り詰めても10語分は請求されたことになる。外国宛は高くなり、たとえばイギリス宛は1語あたり20サンチーム、日本宛は1語あたり4フラン88サンチームもかかった(Ibid.)



私用の電報

 この時代の私用の電報と公用の電報では、多少形式に違いがある。

 まず、比較的よく目にする私用の電報を取り上げたい。

1917年6月10日-死亡通知の電報

 最初に、このページ冒頭で言及したカミュの『異邦人』冒頭の電報に近い、死亡通知の例を取り上げてみよう。

 電報用紙を広げた状態では、このようになっている。

フランスの電報

 タイプライターで打ち出したブルーの紙テープが 2 行にわたってのりで貼りつけられている。

 1行目は郵便局内の情報で、順に

 「ルドンより No. 74 11語 10日 17時45分」

を意味する。
 ルドン Redon はフランス北西部ブルターニュ地方にある人口6千人台(当時)の街。この街にある郵便局から、この電報が打たれたことを示している。
 「11語」という語数は、本文6語+宛先5語(下記参照)の合計である。

 2行目が本文で、

 「ジェジェ 死す 埋葬 火曜 朝 ランティ」(6語)

と書かれている。
「ランティ」は差出人の名前(おそらく姓)。

 なお、日本の昔の電報は全文カタカナで書かれたが、外国の電報を訳す場合は、地名や人名のカタカナと混じって読みずらくなる場合があるので、以下、漢字やひらがなも使用し、場合によっては口語調も用いることにする。

 右上の日付印は、メッセージを受け取ってこの紙テープを貼りつけた郵便局が捺したもので、「ソンム県 アミアン中央局 17年6月10日」と読める。

日付印

 時刻の記載はなく、「 * 」印になっている。

 その下には、非常に薄く紫の CONTROLE(=contrôlé 検閲済)の印が太字・大文字で捺されている。ほとんど見えないくらい色が褪せてしまっているのだが...

フランスの検閲印



 さて、これを折りたたむと、表面は次のようになる。丁寧に折ると、ちょうど長方形になるのだが、これを折った郵便局員は少し雑な折り方をしている。
 このブルーの紙テープに書かれているのが宛先である。

フランスの電報の表面

 冒頭に「検閲済」を意味する略号 CTLE が打たれている(これは語数にはカウントされない)。
 ついで、

 「アミアン ローランドー 通り 170番地 ケルトー様」(5語)

と読める。
 アミアン Amiens は北仏ソンム県の県庁所在地。「ケルトー」は姓。

 以上から、この電報は、「ランティ」さんの依頼により、1917年6月10日17時45分にフランス北西部ブルターニュ地方ルドンから打電され、同日中に北仏アミアンの郵便局に届き、「ケルトー」さんのもとに配達されたものであることがわかる。
 敬称が添えられていないので、「ランティ」さんと「ケルトー」さんが男か女かはわからない。

 死亡した「ジェジェ」Gégé は、男性の名「ジェラール」Gérard の愛称として使われることが多い。一般市民の可能性が高いと思われるが、臨時病院に後送されていた兵士や、後方勤務の兵士などが死んだ可能性も考えられる。



1917年4月2日-駅への到着時刻を知らせる電報

 次に、手書きで転記された、ごく短い電報を取り上げてみたい。

 次の電報は、フランスのちょうど真ん中あたりにある街リオン Riom から、南仏マルセイユに近いジューク Jouques という小さな村に宛てて打たれたもので、ジューク村に近いメラルグ Meyrargues 駅への到着時刻を知らせる内容となっている。

 通常、電報には、電報を依頼した人の職業や所属などは記されない。そのため、手紙や葉書以上に、差出人の人物像や、どのような事情があって電報を打ったのかという背景を知ることは困難となる。

 この電報の場合も、かろうじて名前から、差出人が男で受取人が女であることくらいしかわからない。

 しかし、ここでは、「休暇」を得た兵士が故郷の駅に到着する時刻を妻に知らせるために打ったと想像してみよう。まあ、想像するのは自由だし、実際、そうした場合にはよく電報が使われたのだから(たとえば兵士Aの手紙の3通目26通目を参照)。

 まず、広げた状態ではこうなっている。

フランスの電報

 電信メッセージを受け取った郵便局の局員が、手書きで所定の用紙に書き込んでいる。ジューク村の郵便局には、リボン状の紙テープを打ち出す機械が備わっていなかったのだろう。

 1行目には、所定の欄に郵便局向けの情報が書き込まれている。

フランスの電報

発信局番号語数日付依頼時刻
リオン54894月2日11時35分

 「9語」という語数は、本文6語+宛先3語(下記)の合計である。

 2行目が本文で、

 「火曜 夜 6:43 メラルグ駅 到着予定 マリユス」(6語)

と書かれている。単語の羅列だが、もちろん

 「火曜の夜6:43に私はメラルグ駅に到着する予定だ。マリユスより」

を意味する。

 右上に捺された印は、電信メッセージを受け取った郵便局が捺したもので、「ブーシュ=デュ=ローヌ県ジューク 17年4月2日 9時20分」を意味する。

日付印

 しかし、打電されたのが11時35分なのに、それが届いた局で捺された印が同じ日の9時20分というのは、なんとも理解に苦しむ。

 筆者も、最初は気が狂いそうになった。

 しかし、実は、これにはわけがあった。

 今でこそ、スタンプにはデジタル時計が内蔵されていて、自動的に分刻みで時刻が切り替わってくれるが、昔のスタンプは、手作業で時刻を切り替える必要があった。

 郵便物の取集は1日に何回かおこなわれたが、スタンプの時刻が更新されるのは、次の収集がおこなわれるときだったらしい。
 このジューク村では、午前9時20分の収集ののち、次の収集はたとえば12時頃だったと考えることができる。
 そのため、11時半頃の時点では、スタンプの時刻は9時20分のままだったというわけである。

 決して、11時35分に打った電報が9時20分に届いたわけではない。

 ……このことをフランスの熱心な郵趣家に教えてもらい、発狂せずにすんだ。

 次に、電報の裏面はこうなっている。

フランスの電報

 これを折りたたむと、表に宛名がくる。

フランスの電報

 この状態で相手に電報が届けられた。

 単に「ジューク村 ジュリア・チュス様」となっている。人口の少ない村では、これだけで郵便物が届いた。

 なお、「チュス」Thus というのは、南仏ブーシュ=デュ=ローヌ県に多い姓らしい(Cf. Geneanet)。



1914年9月4日-疎開先から打たれた電報

 次の電報は、戦争が始まって1か月後、ドイツ軍が攻めてきてパニックになっていた頃の一般市民の混乱したようすを物語っている。

 まず、電報を広げた状態では、このようになっている。

フランスの電報

 のりで紙テープが貼りつけられている。

 1行目は郵便局による情報で、

 「クランより No. 602 21語 9月4日 16時」

を意味する。
 「クラン」Craon はパリから 200 km 以上も西(パリとブルターニュの中間あたり)にあるマイエンヌ県の街。この街にある郵便局から、この電報が打たれたことを示している。
 「21語」は本文15語と宛名6語の合計である。

 2~3行目に本文が書かれている。

〔本文〕
「我々 ボーヴェ家は 立ち去る ことを 余儀なくされ マイエンヌの クランに 住む いとこ デュフォワイエの 家に 避難した あなたは どこ? ボーヴェより」

 この電報を依頼した差出人は、ドイツ軍の進撃を避けるようにして西に逃れてきたと察せられる。もともとどこに住んでいたのかは不明だが、後述の事情により、パリまたはその近郊だったのではないかと想像される。
 「ボーヴェ」も「デュフォワイエ」も姓である。

 用紙の右上には電信を受け取った郵便局の日付印が横向きに捺されているが、かすれている。日付は「14年9月」、局名は「パリ 中央局」だろうか。

日付印

 次に、折りたたんだ状態で表面にくる宛先を見てみよう。

フランスの電報の表面

 斜めの VISÉ の印は「検閲済」を意味する。

〔宛先〕
「パリ テオフィル・ゴーチエ 通り 33番地
ボーヴェ 夫人」

 差出人の姓も「ボーヴェ」だったが、宛名も「ボーヴェ」なので、別々に住んでいた親戚(おそらく義理のきょうだい等)だったと推測される。

 「テオフィル・ゴーチエ通り」はパリ16区にある。どちらかというと高級住宅地なので、「ボーヴェ夫人」は中流階級以上だったのではないかと想像される。

 さて、宛先の「パリ テオフィル・ゴーチエ」の部分に取り消し線が引かれ、その右上には、インクが滲んで見えずらいが「裏面を参照」Voir au dos と斜めにペンで書き込まれている。

 それでは裏面を見てみよう。
 通常、折りたたんだ電報の裏面にあたる部分には、何も書かれていないが、この電報の場合は、このように転居先住所が手書きで書き込まれている。

フランスの電報の裏面

〔転居先〕
「マンシュ県ドーヴィル レ・クルティヨン
シュネデール様方
ボーヴェ夫人」

 宛名は同じ「ボーヴェ夫人」。電報配達人が電報を届けにいったら、転居していたことがわかり、書き込んだのだと思われる。
 「様方」となっているので、転居といっても、「シュネデール」さんの家に身を寄せていることがわかる。

 この転居先住所の上には「XVI 23」という小さな印が逆向きに捺されている。

郵便配達人の印

 この印は、郵便配達人の個人印である。上側の「XVI」は「パリ16区」を意味し、下側の「23」はおそらく「No. 23の配達人」を意味する。

 さて、この転居先住所の下には、転居先の近くの郵便局で日付印が捺されている。

〔日付印〕
「マンシュ県ドンヴィル=レ=バン
14年9月9日6:30」

 電報を打ってから5日も経っている。パリから転居先の住所へは、電報ではなく郵便物として転送されたらしい。郵便物とはいえ、5日もかかったのは、まさにこの頃(9月6日~ 9日前後)は第一次世界大戦初期の最大の戦い「マルヌ会戦」がおこなわれている最中で、郵便が混乱していたからだと思われる。

 日付印にあるマンシュ県のドンヴィル=レ=バン Donville-les-Bains は、フランス北西部ノルマンディー地方にある海岸の港町で、海を隔てて対岸はイギリスである。
 つまり、電報を打った相手の「ボーヴェ夫人」もドイツ軍を恐れてパリから逃げ出し、フランスの北西の涯、何かあったらさらにイギリスに逃れられそうな場所に移っていたことになる。
 しかも、この電報を送った親戚には、転居の知らせすら出していなかったことになる。それだけ慌てて逃げ出したのだろう。

 要するに、これは「疎開先から、相手も疎開していたことを知らずに打たれた電報」ということになる。

 この電報の本文をもう一度よくみると、末尾に「あなたは どこ?」と書かれている。この電報を打った人は、相手が本当にまだパリのもとの住所に住んでいるのか半信半疑だったようにみえる。
 実は、この電報が打たれた2日前の9月2日、ドイツ軍を恐れてフランス政府はパリからボルドーへの移転(要するに「遷都」)を決定していた。この時期、50万人近いパリ市民がパリを脱出したといわれている。「ボーヴェ夫人」も「脱出組」の一人ではないかと、差出人は電報を打ちつつ疑っていたのではないだろうか。

 開戦の1か月後の1914年9月上旬のパリ市民のパニックの様子については、「1914年9月11日-ドイツ軍がパリに攻めてくる恐怖」の葉書を参照されたい。



公用の電報

 県知事が市町村長に宛てて打った電報などは「公用」扱いとなった。

 公用の電報の場合、第一次世界大戦中のものに関しては、私用の電報用紙とは異なり、おもに以下のような特徴がみられる。

  • この時代の公用の電報では、上で取り上げたような私用向けの「半袖シャツ」型の電報用紙ではなく、おもに横長の長方形の用紙が使われた。非常に薄く、聖書の紙のようにぺらぺらの紙である。寸法は横25 cm、縦13 cm程度と大きいので、折りたたまれていることが多い。折り方に特に決まりはないが、四つ折にすると専用の封筒にちょうど入れることができた。
  • 用紙の上部左側に「受領表示」、上部右側に「送信表示」という欄が設けられていることが多いが、ここは空欄になっていることも多い。
  • 1行目(郵便局内の情報)の最初には「電報の性質および送信先」という欄が追加されていることが多い。この欄に「電報の性質」として「公用」officiel を意味する off. と書き込まれていることが多い。または、用紙の上部余白に off. と書き込まれていることが多い。
  • 私用の電報の場合と違って、日付欄などが空欄になっていることも多い。
  • 本文冒頭には「誰々から誰々へ」(たとえば「○○県知事から○○村長へ」)という言葉を入れることが多い。

1914年8月2日-農村の人手不足に関する電報

 次の電報は、フランスで総動員令が発せられた翌日の1914年8月2日、パリの東隣にあるセー=ネ=マルヌ Seine-et-Marne 県(セーヌ=エ=マルヌ県とも表記される)の県知事が県内の市町村長に打電したもの。

 内容は、若い男たちが全員兵士となって村から出て行ってしまったため、農作業に支障が出ているので、通常なら農作業をしない者までも総出で農作業にあたり、それでも足りない場合は都市部の労働者を回して何とか人手を確保すべし、といったことが書かれている。

 全部で167語という長いものなので、表だけでは書ききれず、珍しく裏にも続きが書かれている。
 用紙は三つ折になっている。

フランスの大戦中の電報

フランスの大戦中の電報

 表側には、「公用」を意味する off という文字が右上の「送信表示」INDICATIONS DE TRANSMISSION 欄とその左下の「電報の性質」欄の2か所に記されている。

 1行目(郵便局内の情報)はこうなっている。

電報の性質および送信先発信局番号語数日付依頼時刻
公用ムラン1569167語15時40分

 ムラン Melun はセー=ネ=マルヌ県の県庁所在地。もちろん、ここに県知事がいた。

 本文にはこう書かれている。

 「県知事より セー=ネ=マルヌ県市町村長へ
 予備役軍人の 出征により 農作業に 支障を 来たしつつ あるという 報告を 多くの 市町村長から 受けた。各市町村では まず 収穫 ついで 脱穀 さらには 秋の 種まきを 確実に 続けていけるよう 市町村庁が 努力することが 重要である。できるだけ 作業を 細分化し すべての 健康な者 兵役免除者 48才を超えている者 若者 女性 若い娘たちにも 作業させることが 市町村長の 役割であり それでもなお 人手が 足りない 場合は 手のあいている 商業 ないし 産業界の 労働者に 仕事を 見つけられる 場所を 斡旋 したいので 必要な 人数を 正確に 報告して いただきたい。同じ 理由により 都市部の 市町村長は 仕事がなく 働く 意思のある 人の 数を 至急 知らせて いただきたい」

 この文で「48才を超えている者」とあるのは、特に志願しない限り、徴兵義務によって召集されたのは20才~48才の男たちだったからである。

 用紙の右上には、電信を受け取った村の郵便局の日付印が捺されており、

 「セー=ネ=マルヌ県シュヴリュ村 14年8月2日」

を意味する。
 シュヴリュ村 Chevru はパリの東約60 kmのところにある人口400人程度の村。パリも少し離れれば畑が広がっている。

 第一次世界大戦が始まった8月は、ちょうど農作業の繁忙期にあたっていた。パンのもとになる麦も、ワインのもとになるぶどうも、夏に収穫される。この忙しい時期に戦争が始まり、若くて健康な男たちが全員いなくなって、村人は途方に暮れていたのだろう。

 ちなみに、この電報のあとも農村の人手不足はなかなか解消されず、この年の10月以降は「農業休暇」の制度が整備され、忙しい時期には兵士が一時的に帰郷し、農作業を手伝えるようになった。



1914年9月6日-許可なく自動車の通行を禁止する電報

 次の電報は、開戦の約1か月後の1914年9月6日、英仏海峡に近い北仏ウール Eure 県の県知事が、副知事と県内の各市町村長に宛てて打電したもの。

 用紙は長方形で、裏面には何も書かれていない。四つ折にされた跡がついている。

フランスの大戦中の電報

 1行目(郵便局内の情報)はこうなっている。

電報の性質
および送信先
発信局番号語数日付依頼時刻
エヴルー373277語9月6日21時15分

 このうち 2 と 7 の数字は、通常のフランス人による数字の書き方とは異なる郵便局員特有の字体で書かれている。

 エヴルー Evreux はウール県の県庁所在地。もちろん、ここにウール県知事がいた。

 用紙上部の中央には大きく「公用」off. と記されているが、これは一番左の「電報の性質」の欄に記入されることも多い。

 さて、本文にはこう書かれている。

 「ウール県 知事より 副知事 ならびに 電信・電話を 備えた 本県 市町村の 長へ
 9月8日 火曜 以降 昼夜を 問わず 何人も 自動車 または オートバイで 通行することは 禁止される ただし 正当な 要請に 基づき ルーアンの ムーリネ 通り 5番地にある 第3管区の 指揮官たる 将軍が 交付した 許可証を 携行している 場合は 除く。明日 すなわち 水曜に 印刷された 告示を 送付 するので ただちに 各市町村にて 掲示されたい」

 ここに出てくる「管区」とは、複数の県によって構成される、地理的に固定された軍事的な単位のこと。当時、フランス全土(アルジェリアを含む)は全部で21の「管区」に分かれ、これが21の「軍団」に対応していた。「第3管区」の本拠地はルーアン(ムーリネ通り5番地)に存在し、ウール県も第3管区に属していた。

 用紙の右上には、電信を受け取った村の郵便局の日付印が捺されており、

 「ウール県コルメイユ村 14年9月7日11時」

を意味する。コルメイユ村 Cormeilles はウール県にある人口1,100人台(当時)の村。

 この電報が打電されたのは1914年9月6日(日曜)21時15分だが、日曜の夜だったためか、電報を受け取ったコルメイユ村の日付印は翌日の9月7日(月曜)11時となっている。

 さて、この電報が打たれた1914年9月6日は、まさに第一次世界大戦初期の最大の戦い「マルヌ会戦」で本格的な戦いが始まった日だった。

 たとえ前線から離れていても、一般市民が自動車に乗っていたりしていると、緊急時の軍用車両の通行や軍事作戦の妨げになる可能性があったので、許可なく自動車の通行を禁止するという措置が取られたのだろう。



1917年2月21日-脱走した捕虜の指名手配の電報

 次の電報は、フランス中央部のやや南寄りに位置する山がちなオート=ロワール県の県知事から、県内のモニストロール=ダリエ村の村長に宛てて打たれたもの。

 前日にドイツ兵捕虜が脱走したことが書かれ、捕虜の人相が描写されている。

 用紙は長方形で、裏面は何も書かれていない。四つ折にされた跡がついている。

フランスの大戦中の電報

 1行目(郵便局内の情報)はこうなっている。

電報の性質および送信先発信局番号語数日付依頼時刻
モニストロール=ダリエピュイ9561語18時50分


 「ピュイ」は正しくは「ル・ピュイ」Le Puy で、オート=ロワール県の県庁所在地(現在は「ル・ピュイ=アン=ヴレ」Le Puy-en-Velay と呼ばれる)。ここに県知事がいた。

 この電報の場合、一番左の「電報の性質および送信先」欄には「送信先」に対応する「モニストロール=ダリエ」という村の名しか記入されていない。
 もし「電報の性質」を記入するとしたら、「公用」off. と記されていたはずである。

 本文にはこう書かれている。

「県知事から モニストロール=ダリエ村長へ
 20日 モニストロール=ダリエの 現場から 捕虜が 脱走した 名はヨーゼフ・マイヤー 登録番号 962 人相は 頭髪と眉 黒色、目 灰色、額 ふつう、鼻 平均的、口 平均的、顎 卵形、顔 卵形、身長 1m61 服装 ドイツの毛織物、加えて 粗布と コートも 持ち出した フランス語は 話さない 発見した場合は 打電されたい」

 用紙の右上には、電信を受け取ったモニストロール=ダリエ村の郵便局の日付印が捺されており、

 「オート=ロワール県モニストロール=ダリエ 17年2月21日 16:40」

を意味する。
 本文には20日に脱走したと書かれているので、翌21日になって脱走したことが判明し、電報が打たれたらしいことがわかる。

 この郵便局から、モニストロール=ダリエ村の村役場にこの電報が届けられ、村長または村役場の職員が上部左側の「受領表示」の欄に、

 「受領 19時15分(サイン)」

と書き込んだわけである。

 時間軸でみると、依頼時刻が18時50分で、電報を受け取った時刻が19時15分と書かれているのに、電信を受け取った局の印がそれよりも前の16時40分となっているのは、前述の「1917年4月2日-駅への到着時刻を知らせる電報」と同様の事情による。



 なお、この電報の場合、電報用の封筒(袋)も残されている。

電報の封筒の表

 宛名には「モニストロール=ダリエ村長殿」と書かれている。

 左下に捺された日付印は、電報用紙に捺されているものと同じである。

 裏には何も書かれていない。上部で破かれている。

電報の封筒の表

 上の電報を四つ折りにし、この封筒に入れて届けられたことがわかる。

 この地味な青緑色の電報用の封筒は、当時の一般的なもので、私用の電報でもまったく同じものが使われた。
 ただし、破り捨てられることが多かったらしく、散逸している場合が多い。






(追加予定)











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