「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

捕虜の葉書

捕虜からの手紙、捕虜への手紙

 このページでは、戦場で負傷して動けなくなるなどしてドイツ軍の捕虜となり、ドイツの捕虜収容所に入れられたフランス兵と、フランスに残された家族との手紙を取り上げたい。
 捕虜との郵便物は郵便料金が免除となったので、切手は貼られていない。その代わり、フランス語で prisonnier de guerre(プリゾニエ ド ゲール、捕虜)や、ドイツ語で Kriegsgefangenensendung(クリークス ゲファンゲネン ゼンドゥング、捕虜郵便)、Kriegsgefangenenlager(クリークス ゲファンゲネン ラーガー、捕虜収容所)、geprüft(ゲプリュフト、検閲済)、Eingang(アインガング、到着)などの印が捺されたり、文字が書かれていることが多い。

 検閲が厳しいので、書きたいことを書くことはできず、たとえば慰めるつもりで「もうすぐフランスが勝ちます」などと書いたら即没収となったと思われるが、抑えられた行間から家族の思いが伝わってきて、なかなか感動的なものも少なくない。
 収容所では食事が最低限しか与えられなかったので、親類などから小包で缶詰などが送られることが多く、送った小包の内容や、小包を受け取ったお礼などが書かれていることが多い。



1915年1月19日-女の子から捕虜収容所の父へ

 次の葉書は、南仏に住む幼い女の子がドイツの捕虜収容所にいる父に宛てて書いたもの(母による代筆)。

1915年1月19日

1915年1月19日

〔イラスト下部の文字〕
あなたに再会してキスすること、
それがあなたのまな娘の願いです。

〔通信面の右側〕
捕虜郵便(*1)

ドイツ
バイエルン州ハンメルブルク収容所
捕虜
第111歩兵連隊第2中隊
レオナール・デュランデット様

〔本文〕(左側)
イエール(*2)にて、1915年1月19日
いとしいパパへ
あなたの娘から無数の愛撫をお受け取りください。お父さんに会いたくて、しかたありません。毎晩、寝る前にお父さんの写真にキスをして泣いています。お母さんからの大きな愛撫もお受け取りください。
あなたの小さな娘アンリ・デュランデットより

〔縦書き部分〕
私のことを考えて、かわいらしい葉書を受け取ったかどうか教えてください。(*3)

〔引受消印〕
ヴァール県イエール
15年1月20日

〔青い四角の印(ドイツ語)〕
検閲済

(*1)この下に鉛筆で大文字 R と書かれているが、これはおそらく「返信済み」を意味するフランス語 Répondu の略。この葉書を受け取った父(捕虜)が返事を書いたことを忘れないようにするために書き込んだものと思われる。
(*2)イエールHyèresはイタリアに近い地中海に面する南仏ヴァール県の人口2万人前後(当時)の街。
(*3)要するに「返事をください」と言っているわけである。なお、この家族の他の葉書の筆跡から、この葉書は母親による代筆であることがわかる。



1915年3月6日-妻からドイツにいるフランス兵捕虜へ

 次の葉書は、上の葉書の差出人(女の子)の母親がドイツに捕虜になっている夫に送ったもの。

1915年3月6日

1915年3月6日

〔通信面の右側〕
捕虜郵便

ドイツ
バイエルン州ハンメルブルク収容所
捕虜
第111歩兵連隊第2中隊
レオナール・デュランデット様

〔本文〕
イエールにて、1915年3月6日
いとしい夫へ
私たちは二人とも元気です。あなたも元気でいることを願っています。明後日、またもう一つ小包を送るつもりですので、お知らせします。元気を出してください、まもなく抱き合えるようになりますから。最後に、あなたを強く抱きしめます。あなたの小さな娘も同じです。
一生涯あなたのことを愛する妻ヴァンサンスより

〔引受消印〕
ヴァール県イエール
15年3月7日

〔青い印(ドイツ語)〕
検閲済



1915年4月20日-捕虜収容所の若い兵から祖父母へ

 次の葉書は、ドイツ南西部シュトゥットガルトの捕虜収容所にいるフランス兵が祖父母に宛てて書いたもの。

1915年4月20日

1915年4月20日

〔写真の説明〕
シュトゥットガルト旧市街

〔中央上の紫の細長い長方形の印(ドイツ語)〕
捕虜郵便 検閲済

〔その下の紫の小さな長方形の印(ドイツ語)〕
遅配(*1)

〔左の紫の楕円の印(ドイツ語)〕
シュトゥットガルト2捕虜収容所司令官

〔右上の引受消印(ドイツ語)〕
シュトゥットガルト
15年5月30日

〔その左の到着印〕(2つ)
ロワール=エ=シェール県シャティヨン
15年6月5日
15年6月6日(*2)

〔宛名〕
フランス 
ロワール=エ=シェール県
シャティヨン村フェルトヴー 
アロー・マルスレ夫妻

〔差出人〕
差出人 在シュトゥットガルト第110分隊 捕虜ジュール・トマ

〔本文〕
 1915年4月20日 親愛なるおじい様、おばあ様
 近況をお知らせするために、ひと言、お便りします。今のところ私はとても元気です。お手紙を受け取りました。母が言うには、ご病気だそうですね。これから気候がよくなるので、すぐに快復されることを願っています。母が言うには、私に会いたいと思っておられるそうですね。私もお二人のそばに行けたらどんなにうれしいだろうと思います。しかし、いずれにせよ、まもなくそばに行けるものと希望を持たねばなりません。送っていただいたパンの小包は、本日20日、受け取りました。でも、少しかびていました。5月3日に発送された小包です(*3)。親愛なるおじいさん、おばあさん、葉書の最後に、お二人のことを強く抱きしめます。まもなく会えることを期待しつつ お二人の孫 J. トマ

(*1)「F.a.」はドイツ語 Frist abgelaufen(遅配)の略。検閲で配達に手間どった場合などにこの印が捺された。
(*2)フランスの郵便局で日付の異なる消印が二度捺されている。シャティヨンはフランス中部やや西寄りにあるロワール=エ=シェール県の人口1,600人台(当時)の村で、正式名称はシャティヨン=シュール=シェールChâtillon-sur-Cher。
(*3)本文の冒頭に「1915年4月20日」と書かれ、「5月3日に発送された小包」を受け取ったというのは矛盾している。正しくは、日付が「5月20日」であるか、または「4月3日に発送された小包」なのか、どちらかということになる。わざわざ「遅配」の印が捺されているところをみると、書かれたのは4月20日で、「4月3日に発送された小包」だった可能性が高い。
 要するに、この葉書は4月20日にドイツ(シュトゥットガルト)の捕虜収容所内で書かれ、検閲に大幅に手間どって5月30日にシュトゥットガルトの郵便局で消印と「遅配」の印が捺され、6月6日頃にフランスの祖父母のもとに届けられたと推定される。なお、通常、検閲は捕虜収容所内のフランス語の読める係官が担当したらしい。



1915年12月21日-何ごとにも終わりがある

 次の葉書は、フランス最北端の都市ブーローニュ=スュール=メールからあまり離れていないところにいた「教師」が、ドイツの将校専用の捕虜収容所で囚われの身になっている友人の「少尉」に宛てて差し出したもの。
 何度も小包を差し入れていることが文面に書かれているので、非常に親しい間柄だったらしい。「何ごとにも終わりがある」という諺を持ち出し、つらい時期もいずれ終わりがくるから、元気を出せと励ましている。
 なお、宛名のあたりの鉛筆による書き込みは、郵便配達員、捕虜収容所の係官、受け取った少尉のいずれかが記したと思われるが、不明。

1915年12月21日

1915年12月21日

葉書にもともと印刷されている活字部分は緑字で訳した。

〔表面左側の垂直方向の差出人欄〕
 差出人の住所と氏名
ノール県メトゥレンヌ近郊
 メリー(*1)
教師 オメール・バラット

〔右上の丸い引受消印〕
15年12月21日
パ=ド=カレー県
ブーローニュ・タンテルリー駅

〔宛名部分、上から〕
 捕虜向け
郵便料金免除葉書
     ポンタルリエ経由(*2)

第402歩兵連隊少尉
エマニュエル・ベルティオー殿

  捕虜
ギュータースロー(*3)
捕虜将校収容所
         ドイツ

〔青い四角の印(ドイツ語)〕
15年12月27日
到着

〔その上の紫字の印(ドイツ語)〕
検閲済

〔本文〕
7(*4)
 メリーにて、1915年12月21日
   親愛なるエマニュエルへ
 昨日、アベルから手紙を受け取った。彼が軍需工場で働けるように私が世話を焼いていることについて、有難いと書かれていた。うまくいくことを期待しよう。現在、健康状態は良好だ。私のいとしい母に一言書いてくれて、どうもありがとう。
 こちらは田舎ぐらしで、ブーローニュ=スュール=メール(*5)とは大違いだ。でもまあ、どこであろうと適応しないとね。それに、ずっとここにいるわけでもないから。
 今日また2 kgの缶詰(4缶)が入った4つめの小包を送っておいた。喜んでくれるとよいのだが。
 数日したらアベルのいる近くに行く予定だ。できたら彼に会いに行こうと思っている。
 それはそうと、君はどうしているの? 冬の長い夜を何をしてすごしているの? 親愛なるエマニュエルよ、元気をだせ。我慢していれば、いつかきっと終わりがくる。何ごとにも終わりがある(*6)のだから。
 体に気をつけて。心からの握手を。親友より、敬具 オメール・バラット

(*1)ノール Nord 県は、「北」を意味するその名のとおり、フランス最北端にある県。大戦中はノール県のかなりの部分がドイツ軍に占領されたが、差出人のいる地域は占領を免れたらしい。メトレンヌ Méteren はノール県の人口2千人台の町。メリー Merris はその南西の隣にある人口千人程度の村。
(*2)ポンタルリエ Pontarlier はスイスとの国境のすぐ近くにある人口1万人弱(当時)の街。ここにフランス軍の大規模な検閲機関が置かれ、1,300人もの検閲官が検閲業務をおこなっていたという(Strowski, p.308)。検閲を通過した郵便物は、ここからスイスに持ち込まれ、スイス当局の仲介によってドイツ等に引き渡された(あるいは逆にドイツ等からの郵便物は、スイス当局から引き渡されると、ここで検閲されたのちにフランス国内に配達にまわされた)。そのため、このようにドイツとの郵便物に「ポンタルリエ経由」Via Pontarlier という文字が印刷されていたり、手書きで書かれていることがある。
(*3)ギュータースロー Gütersloh はドイツ北西部の都市。ここに将校専用の捕虜収容所があった。
(*4)この葉書の左上の隅の「7」という数字は、おそらく同じ相手に宛てた「通算7通目の葉書」という意味だと思われる(このように、頻繁に手紙のやり取りをする相手への郵便物の隅に通し番号を書き込むことは、大戦当時はよくおこなわれた)。
(*5)ブーローニュ=スュール=メール Boulogne-sur-Mer はドーバー海峡に面する人口5万人台(当時)の都市。大戦を通じて一度もドイツに占領されることはなく、後方の拠点として重要な役割を果たした。たとえば、イギリス軍はここでフランスに上陸し、被占領地からの避難民も多数ここに流れ込み、負傷兵を収容する臨時病院も多数設置された。
(*6)第一次大戦中は、長びく戦争を受けて「早く戦争が終わってほしい」という言葉が(とくに一般市民の間で、ただし兵士の間でも)頻繁に交わされたが、この「何ごとにも終わりがある」Tout a une fin. というは、そうした当時の人々の不安な心を落ちつける役割を果たし、心の拠り所となったのではないかとさえ思われる。同じ諺が1915年12月18日のピアノの先生宛の葉書でも使われている。



1916年10月8日-捕虜生活が体格に及ぼす影響

 次の葉書は、フランス南部トゥールーズ近辺に住んでいたと思われるフランス兵がドイツの捕虜となり、ドイツ南東部の収容所から差し出した「カルト・フォト」。
 ドイツの捕虜になったフランス兵は、このように襟や腕などに番号のついた服を着て写真に写り、それを葉書に現像して家族や知人に送ることが多かった。この葉書は検閲印しかないので、封筒に入れて送られたものと思われる。
 以前は恰幅が良かったのに、捕虜生活で十分な食糧が支給されず、やせてしまったことを自虐気味に書いている。

1916年10月8日

1916年10月8日

〔赤い印〕
検閲済
ランツフート(*1)

〔本文〕
 ランツフートにて、16年10月8日
  エストゥー様

ここに、私という人間の最新のサンプルをお送りします。長い捕虜生活が私におよぼす効果をご覧ください。時々、一言おたよりをいただけるとうれしく思います。フレッド、みなさん、そして家族全員を強く愛撫します。
 E. ポッジ

〔宛先〕
オート=ガロンヌ県トゥールーズ
アルコール通り58番地
「バー エセルシオール」
ベルトラン・エストゥー御夫妻

(*1)ランツフート Landshut はドイツ南東部バイエルン州にある都市。
なお、この上の赤い鉛筆の書き込みは、ドイツの収容所の係官が記載したものと思われるが、意味は不明。



1916年3月19日-足かけ5年の捕虜生活

 次の葉書は、ドイツで捕虜になっているフランス兵が収容所内でポーズをとった写真を葉書に直接現像したカルト・フォト
 ドイツの東の端にあるコトブスの収容所から、フランスの西の端にあるコニャックに住む妻に宛てて差し出されている。
 一見すると、よくある捕虜の葉書なのだが……

1916年3月19日

1916年3月19日

〔写真面の書き込み〕
捕虜生活
1914-15-16-17-18

〔本文〕
コトブスにて、1916年3月19日
ガストン・メリゲ
第35中隊、第217番
ドイツ
コトブス(*1)
捕虜収容所第1

〔宛先〕
シャラント県
コニャック(*2)
シャルマン通り17番地
G. メリゲ奥様

〔赤の印〕
通訳
マンスバッハ(*3)

(*1)コトブス Cottbus はドイツの東の端(つまりドイツ内でフランスから最も離れた地域)にあるブランデンブルク州の都市。
(*2)コニャックはフランス西部の大西洋に近い街で、ブランデーの産地として有名。ボルドーの北 100 km にある。
(*3)印がかすれているが、ドイツ語で Dolmetscher(通訳) Mansbach(マンスバッハ)と読める。この捕虜担当のドイツ人通訳がフランス語の文面を確認し、「検閲済」と同じ意味でこの印を捺したと考えられる。

 さて、一見するとよくある捕虜の葉書だが、写真面の「1914-15-16-17-18」という書き込みに注目したい。
 よく見ると、筆記用具が途中で変化している。

1916年3月19日

 「Captivité(捕虜生活)1914-15-16」までは住所面と同じ鉛筆で書かれているが、「-17-18」は違う紫色のペンで書き足されている。筆跡は、拡大してよく見比べると 7 の書き方などが住所などに含まれているものと非常によく似ているので、断定はできないがこの捕虜自身が書き込んだものと推定される。

 しかし、この葉書は1916年に妻に送られたものである……

 ここから、次のように推測することができるだろう。
 このフランス兵は、1914年にドイツ軍の捕虜となり、1916年にこの写真を撮って葉書に現像し、コニャックに住む家族のもとに送ったが、戦争が終わって無事解放され、ようやく家に帰ったところ、たまたま昔自分が妻に宛てて出した葉書を見つけたので、自分で「-17-18」と書き足した……。



(追加予定)



差出人は収容所、家族は占領下

 以下では、フランス北部~北東部の出身で、家族はドイツ軍に占領された地域に住み、自分はドイツで捕虜になっている兵士が書いた葉書を取り上げてみたい。

1915年3月20日-「占領された宛先地」の印

 次の葉書は、フランス北部エーヌ県出身で、ドイツ中部のガルデレーゲン捕虜収容所に囚われているフランス兵が故郷の家族に宛てて差し出したもの。
 文面は当たりさわりがないもので、それほど珍しい葉書ではなかったかもしれない……もし「占領された宛先地」LIEU DE DESTINATION ENVAHI の印がなかったとしたら。
 宛先の左側に捺されたこの印は、宛先地がドイツ軍に占領されているために、届けることができないことを示している。つまり、この捕虜は、自分の家族の住む街が占領されていることを知らずに、この葉書を出したことになる。

 差出人はドイツ軍の収容所、家族はドイツ軍占領下という、二重の悲劇をこの葉書は物語っている。

1915年3月20日

1915年3月20日

葉書にもともと印刷されている活字部分は緑字で訳した。

〔差出人欄〕
所在地:ドイツ、ザクセン州
アルトマルク郡ガルデレーゲン(*1)
氏名:捕虜アンリ・ドゥエンヌ
中隊(バラック):第1中隊、
バラック32A
   読みやすく書くこと
手紙は20行で2ページを超えてはならない

〔宛先〕
軍事郵便葉書
 フランス
 エーヌ県
 ブエ(*2)
 トマ・ドゥエンヌ夫人

〔右上の紫の鷹の印〕
ガルデレーゲン
駐留司令部検閲所
検閲済

〔左上の黒い引受消印〕
ガルデレーゲン
15年3月20日 午前10-11(*3)

〔左下の黒い印〕
占領された宛先地

〔本文〕
 いとしいジュリアとベルタへ
私はあいかわらず元気で、皆さんも、両親、兄弟ともにみな元気であることを願っています。時間が長く感じられるようになってきましたが、平和とともによい日々が戻り、またみんなでずっと一緒にいられるようになることを望んでいます。さしあたって、みなさんに遠くからキスを送ります。アンリ・ドゥエンヌ

(*1)ガルデレーゲン Gardelegen 捕虜収容所はドイツ中部ザクセン州(当時)にあり、1万人以上の捕虜が集められていた。
(*2)エーヌ Aisne 県は、パリから見て北東にある県。大戦を通じてフランスの県全域が占領されたのはアルデンヌ県だけだったが、その他にも9県が部分的に占領された。エーヌ県ははその9県のうちの一つ。アルデンヌ県宛ての郵便物には四角い「占領された宛先地」印が捺されていることが多いが(被占領地の葉書を参照)、この葉書では丸型の印が使われている。宛先地となっているブエ Boué はエーヌ県の北端にある人口1,300人程度の町で、ベルギー国境まで20~30 kmしか離れていない。
(*3)この印に重なって、よく見ると「遅配」を意味する F. a. という筆記体のような字体の紫の印が捺してある。この印は、ドイツの捕虜収容所で検閲などで手間どり、郵便に回されるのが大幅に(たとえば1か月程度)遅れた場合に捺された。つまり、実際にこの葉書が書かれたのは、この日付よりもだいぶ前だったことになる。



1915年5月25日-被占領地出身の捕虜から子爵夫人へ

 次の葉書は、ドイツの中でもポーランドに近い、ドイツ北東部ブランデンブルク州ツォッセンの捕虜収容所で囚われの身となっていたフランス兵が、パリに住む面識のない子爵夫人に宛てて書いたもの。何か衣服と食糧を送ってもらえないかと頼んでいる。
 この捕虜は、おそらく子爵夫人が複数の捕虜に援助物資を送っていることを仲間などから聞きつけ、住所を教えてもらって、この葉書を書いたらしい。子爵夫人は一種の「戦争代母」としての役割を果たしていたことがわかる。
 注目されるのは、自分が「被占領地の出身」だと書かれている箇所である。この捕虜の家族は、当時ドイツに占領されていたフランス北部ないし北東部に住んでいたと思われる。実際、差出人の「パルマンティエ」という姓は、フランス最北端のノール県で最も多く見られ、ついでベルギーとの国境に沿った地域に多く見られる。家族が被占領地に住んでいると、自由に文通もできなかったし、物を送ってもらうこともできなかったから、こうした子爵夫人のような篤志家や慈善団体に頼るしかなった。
 ただ、当時の「貧しい労働者」にしては、あまりにも完璧な文法・綴り・字体で書かれているので、教養のある仲間に書いてもらったのではないかという気がする(当時はうまく文字を書けない者が仲間に代筆してもらうことも少なくなかった)。

1915年5月25日

1915年5月25日

〔本文〕
ヴァインベルゲ収容所にて、1915年5月25日(*1)
  子爵夫人様
 突然失礼いたします。奥様の捕虜に対する惜しみなさを知り、御支援を賜れないかと思い、一筆差し上げます。私は被占領地の出身で、既婚で子供のいる貧しい労働者でございますが、戦争が始まって以来、家族からは何の知らせも受け取っておりません。何か衣服と食糧をお送りくださいましたら非常に有難いのですが。私の嘆願を御勘案いただけることを希いつつ、子爵夫人様、どうか私の心の底からの敬意をお汲み取りください。
     A. パルマンティエ

〔宛先〕
フランス セーヌ県
パリ サン=トノレ通り368番地
ヴェラール子爵夫人様

〔差出人〕
差出人:アシーユ・パルマンティエ
第2連隊 第5中隊
ドイツ ツォッセン捕虜収容所
ヴァインベルゲ収容所
返信のために上記住所を正確に書くこと

〔右の丸い紫の印〕
ツォッセン
捕虜収容所司令官
消印

〔その左の丸い黒い印〕
ツォッセン
練兵場
15年6月16日午前10-11時

〔左の紫の印〕
捕虜郵便
検閲済
遅配

(*1)日付は鉛筆がかすれて読みにくいが、差出人欄の「第5中隊」の「5」と同じだと思われる。検閲に手間どったためか、この葉書が書かれた約1か月後の6月16日に取集されたことを示す消印が(「遅配」の印とともに)捺してある。

 なお、通信欄の紫の丸に「?」印と「星」印は、同時期のツォッセン捕虜収容所から出された他の葉書にも同じものが確認されるので、同収容所またはその近辺で、検閲官などが何らかの印に使ったものと思われる。
 また、本文中の「被占領地」という文字には赤鉛筆、差出人欄の「ヴァインベルゲ」収容所の箇所には青鉛筆で線が引いてある。想像をたくましくするなら、子爵夫人の執事が印をつけたのではないかとも考えられる。被占領地の出身なら、優先的に援助しなければならないと思ったにちがいない。



1915年8月8日-真情が伝わる壮絶な綴り間違い

 次の葉書も、上と同じツォッセン収容所において、被占領地出身の捕虜が書いたものである。
 一般に、同じ村や同じ地域に住む男たちは、徴兵されると同じ部隊の所属になることが多く、それによって連帯感や友愛感情も強められた。ひとたび戦闘が起き、不幸にして、ともに戦った仲間が同時に敵の捕虜となった場合、同じ収容所に連行されるケースも多かった。だから、上の葉書と同じ被占領地域の出身の兵士が同じ収容所に入れられていたとしても、とくに驚くべきことではない。
 この兵士は、フランス南東部の大都市リヨンの慈善団体に宛てて援助物資を要請している。自分で文章を書いたらしく、単語の綴り間違いが多数含まれている……というより、ほとんどすべての綴りが間違っている。日本語でいえば、すべての漢字が間違っているようなものだろうか。しかし、そのぶん真情がひしひしと伝わってくる。この壮絶な綴り間違いは、なかなか人の心を打つものがある。

1915年8月8日

1915年8月8日

〔本文〕
ドイツにて、1915ねん8がつ8日 とつぜん おたよりを指しあげ、しつ例します。じつは1914ねん9がつから なにも うけとって ないのです。こうして おて神を 指しあげるのは、わたしの家からは なにもこないからです なぜなら とてもまずしく、古きょうは 千りょう されてるからです。ですから なにか おくって板だけると 日じょうに ありがたいのですが。どうぞ 四ろしく おね外します 計ぐ アンリ=ドゥフェール・デュルラン

〔差出人〕
アンリ=ドゥフェール・デュルラン差出

〔所属欄〕
野戦歩兵第3連隊
アンリ=ドゥフェール・デュルラン

〔宛先〕
フランス
ローヌ県リヨン ブルス通り12番地
「捕虜小包」(*1)御中

〔所在地〕
ドイツ
ツォッセン捕虜収容所

〔右の丸い紫の印〕
ツォッセン
捕虜収容所司令官

〔左の紫の印〕
捕虜郵便
検閲済
遅配

(*1)「捕虜小包」とは、フランス南東部のリヨンで民間の有志によって作られた慈善団体の名称で、要するに「捕虜に小包を送る会」のこと。家族の援助が得られない捕虜に小包を送る活動をおこなっていた。こうした団体は、官民どちらも存在した。





その他

 捕虜からの葉書や、捕虜への葉書ではないが、捕虜のことが話題になっているものを取り上げておきたい。

1914年10月27日-伝え聞く捕虜生活

 次の葉書は、フランス東部のスイスに近いジュラ県ラ・マールに住む女性が、ドイツに捕虜になっている夫の消息について、前線からはだいぶ後方の要塞に勤務している自分の父親に書き送ったもの。
 通常よりも横長の葉書で、真中で折れているので、折って封筒に入れて出したのではないかと思われる。

1914年10月27日

1914年10月27日

〔本文〕
 ラ・マールにて、1914年10月27日 お父様
 今日の夕方、お父様の手紙と同時にルイからの手紙を受け取り、うれしく思っています。ルイによると、捕虜はなかなかよい時をすごしており、トランプやチェッカーで遊んだり、フランス語で書かれたすてきな小説を読んでいるそうです。しかし、戦場の方がいいとも言っています。食事のことは書いていませんが、おそらく豊富とはいえないでしょう(*1)。元気でやっているとお父様に伝えてほしいと言っています。ルイからの手紙は、今日の夕方、ブラン家の人々に送っておきます。ルイは私としか文通できず(*2)、それも好きなだけ文通できるわけではありません。フェのタルトランも捕虜になっており、ベルリンのすぐ近くにいます。
 元気を出し、辛抱してください。スュザンヌとべべもよくお父様の話をしており、よろしくと言っています。マルトより

〔左側の縦方向の書き込み〕
ボン夫人(*3)、ジュラ県ラ・マール(住所)

〔宛先〕
オート=マルヌ県ラングル
ペニェ(モンランドン)要塞(*4)
要塞補助要員
カナール・イポリット
南西地区
第15分隊

(*1)捕虜が収容所での待遇について不平不満を述べると、検閲によって差し押さえられたので、否定的なことは書くことができなかった。
(*2)フランスでは、1915年3月3日以降、フランス軍兵士がドイツの収容所に囚われているフランス兵捕虜に手紙を出すことは禁止された(Cf. Bourguignat, p.15)。おそらくドイツ側の規則でも、ドイツにいるフランス兵捕虜がフランス軍兵士に手紙を送ることは禁止されていたのではないかと推測される。それで、この捕虜「ルイ」は義父(この葉書の受取人)に直接手紙を出すことができず、妻(この葉書の差出人)に伝言を依頼したのだと思われる。
(*3)この書き込みから、おそらく捕虜「ルイ」は差出人の夫で、ルイ・ボンという名前だったと推測される。とすると、差出人自身はマルト・ボンという名前だったことになる。
(*4)オート=マルヌ県ラングル Langres は、フランス東部(つまりドイツ寄り)にある街。前線からはだいぶ離れた後方に位置していた(年配の兵士は、少なくとも大戦初期は通常は後方に配属された)。ラングル近郊にあったペニェ要塞とモンランドン要塞については、セレ・ド・リヴィエール協会のホームページに詳しい(Fort de Peigney ; Fort de Montlandon)。



(追加予定)














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