「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

兵士Aの手紙

兵士Aの手紙

 以前、南仏に住む葉書商から、ある砲兵隊の兵士が書いた葉書34枚をまとめて譲り受けた。すべて綿密に解読済みなので、順にアップしていきたい。

 兵士の姓はロンバール、名は未詳。南仏ガール県の出身で、妻子を残して1914年夏の第一次大戦の開戦直後から砲兵第19連隊に所属、長らく軍曹を務め、1916年に曹長、ついで少尉に昇進した。第一次世界大戦最大の激戦として記憶されるヴェルダンの戦いにも参加している。

 綴りや文法が正確なので、一定の教養があったことがわかる。素朴な人柄のよく表れた好感のもてる文面で、塹壕での生活や兵士の考え方を知ることができる一次史料として興味深い。さらに、全部つなげて読むと、とぎれとぎれに書かれた「塹壕日記」のような印象も受け、文学性も高いように思われる。

 以下では、大戦後まもない頃に刊行されたと思われる小冊子『野戦砲兵第19連隊史』も適宜参照しながら、日付順に差出人の足どりを追っていきたい。



1914年9月20日(1通目)-靴下を送ってほしい

 差出人ロンバールの所属する野戦砲兵第19連隊は、1914年8月の開戦時に南仏ニームで結成され、ドイツと国境を接するロレーヌ地方に派遣された。同年9月上旬にはマルヌ会戦に参加している。次の葉書は、このマルヌ会戦からまもない時期に書かれている。

 宛名に「ロンバール様」Mme Lombard と書かれているのは、住所と内容からして、妻ではなく実の母のことだと想像される。本文の書き出しは「愛する家族へ」となっているが、むしろ「愛するお母さんへ」とするのがふさわしい内容である。

 なお、軍事葉書には、フランスと同じ連合国側に立って参戦した国の国旗の束が描かれていることが多い。ただし、国旗は当時と今では一部異なって描かれている。この葉書の場合、右上=フランス、左上=イギリス、右中=ベルギー、左中=ロシア、右下と左下=セルビアとモンテネグロ(両国はほとんど同じ)。

1914年9月20日

1914年9月20日

〔差出人〕
名:ロンバール
階級:長(*1)
連隊:砲兵第19連隊
中隊:第2中隊

〔宛先〕
ガール県ベルニ(*2)
ニーム ジャカール通り4番地
ロンバール様

〔本文〕
 1914年9月20日
 愛する家族へ
 みなが元気だという9月9日の手紙を受けとり、うれしく思っています。いまのところ私も元気です。戦争中ずっと元気でいられるといいと思っています。父とルイの知らせも受けとりました。返事を書いておきます。
 オリヴィエには手紙を書くように伝言しておきました。もっとまめに書くと約束していました。
 何か必要なものはないか ということですが、こちらではたえず雨が降っており、過酷な悪天候に耐えられるよう、襟のところが黒い白いウールのニット(自転車用)と、丈夫なウールの靴下2~3足が欠かせません。もう10日以上も水と泥の中を歩きまわっていますから(*3)。
 こうしたものを郵便局から、必要に応じて2包みにして書留で送ってください。お願いします。みなさんをやさしく抱きしめます。いとしい子供たちにキスをします。(サイン)

〔到着印〕
ガール県ベルニ
14年9月27日

(*1)「長」chef と書かれているのみで、何の「長」なのか不明だが、おそらく「砲手長」chef de pièce ではないかと思われる。「砲手長」は伍長 sergent がその任に当たった(翌年の2通目以降では階級が 1 つ上の「軍曹」となっている)。
(*2)差出人は宛先の住所を「ガール県ベルニ」と書いたが、郵便配達人が太めの万年筆で「ニーム ジャカール通り4番地」に訂正し、「ニーム」を青鉛筆で強調している。戦争中の混乱で、おそらく転居通知が届かず、差出人の知らない間に転居していたと考えられる。
(*3)当時の兵隊は、みな雨を嫌っていた。戦場ではもちろん傘などはささず、雨に濡れるがままとなったし、雨が降ると地面の低い場所がどぶと化し、下半身が泥まみれとなったからである。当時の兵士の葉書には、このように「靴下を送ってくれ」と書かれたものが多い。

 なお、この葉書(9月20日付)の冒頭で「9月9日の手紙を受けと」ったと書かれているので、配達まで11日間要したことになり、日数がかかりすぎている(のちの葉書を見ると、南仏の家族から差し出された葉書は、おおむね3~4日後に前線のロンバールのもとに届けられている)。この原因としては、開戦初期にはマルヌ会戦などの戦闘があって郵便物の配達に手間どったこと、および郵便制度が需要に追いつかずに混乱していたことが考えられる。戦局が安定して塹壕戦になってくると、部隊もあまり動かなくなり、郵便制度も整備されるので、スムーズに配達されるようになる。



1915年7月25日(2通目)-まもなく休暇が取れる喜び

 次の葉書は、1914年8月に戦争が始まってから丸一年が経過しようとする頃、「休暇」を得て約1年ぶりに家族に再会できる日が近づいたときに、妻に宛てて書かれている。

 なお、1通目には描かれていなかったが、2通目以降の葉書では日本の旭日旗も追加されている。日本の参戦は少し遅かったため、フランスの軍事葉書でも初期のものには日本の国旗は印刷されていない。

1915年7月25日

1915年7月25日

〔差出人〕
名:ロンバール
階級:軍曹
連隊:砲兵第19連隊
中隊:第9中隊
郵便区:130

〔部隊印〕
主計及び郵便 130
15年7月26日

〔宛先〕
ガール県
ニーム
ユゼス通りメゾン・メセル
ロンバール様

〔本文〕
 1915年7月25日
 いとしい妻へ
 私よりも何日か前に休暇を取ったレックから、私の知らせを受けとったそうだね。私は相変わらず来週の木曜に休暇に出発できたらいいと思っているけれど、こればかりはわからないからね。昨日、おまえが長い間たよりをよこさなかった理由を説明した書留便を受けとった。すぐに事情は理解できたよ。
 私は相変わらず元気だ。みんなの元気な姿を見られると期待している。週末よりも前におまえたちを抱きしめにいけたらうれしいのだけれど。その日を待ちながら、はるか遠くからみんなのことを抱きしめる。(サイン)

〔縦方向の書き込み〕
時間によっては、オランジュ(*1)に半日とどまった方がいいのではないか。向こうは終わってしまうだろうし(*2)、ベルニに行く必要はないだろう。

(*1)オランジュ Orange はロンバールの妻たちの住むガール県のすぐ手前のヴォクリューズ県にある大きな街。
(*2)「向こうは終わってしまう」というのは、「その先は電車がなくなってしまう」という意味のようにも取れるが、正確なことは不明。このあたりは当事者以外はわからないような省略した書き方をしている。

 差出人の欄は、30通目の葉書まで同一なので、以下省略する。



1915年7月31日(3通目)-家族との再会

 次の葉書は、差出人が休暇を得て南仏ニームに住む家族のもとに帰り、そこから近くに住む妻の両親に宛てて出したもの。家族との再会の喜びが語られている。

1915年7月31日

1915年7月31日

〔消印〕
ガール県
ニーム(?)駅(*1)
15年7月31日

〔宛先〕
ガール県
サン=タンブロワ(*2)
ルイ・ゴーサン様

〔本文〕
 1915年7月31日
 親愛なる義理のご両親へ
 昨晩から丸6日間の予定で家族と一緒にすごしています。1年間の留守ののち、こうやってみなで集まれることがどれほどうれしいか、容易に想像いただけると思います。
 私の父と母には電報で知らせておいたので、オランジュの駅に来てくれました。駅で列車は10分停車しました。
 火曜日に、夜の7時半に私たちみんなでお邪魔したいと思っています(*3)。水曜は一緒にすごしましょう。もしデュラン家のみなさんがバルジャックにいるようでしたら、なるべくデュラン家のみなさんにもお知らせください。
 子供たちとママは、パパがいて幸せそうです。私も夢を見ているようです。もう二度とご両親にはお会いできないと思っておりましたので。
それではまた。みなさんを抱きしめます。(サイン)

(*1)消印は不鮮明だが、この葉書は差出人の妻子が住んでいたニームから差し出したと考えられる(妻子が当時ニームに住んでいたことは2通目の葉書からわかる)ので、同時期の他の葉書とも照らし合わせてみると、消印の外周部分の郵便局名は NÎMES GARE / GARD と読めると思われる。
(*2)サン=タンブロワ Saint-Ambroix は南仏ガール県アレス郡にある町で、人口は三千人台。当時すでに鉄道の駅が存在していた。ここに差出人の妻の実家があったことがわかる。ちなみに、当時、大都市に宛てて手紙を出す場合は番地まで書いたが、地方の町に宛てて手紙を出す場合には番地は書かず、たとえば「サン=タンブロワ ×× 様」だけで届いた。その他、職業を添えて「サン=タンブロワ 肉屋 ×× 様」といった書き方も見かける。
(*3)この葉書を出した1915年7月31日は土曜日だった。つまり、ここで週明けの予定について知らせているわけである。



1915年8月9日(4通目)-休暇から前線への復帰途中

 次の葉書は、休暇が終わって前線に復帰する途中で、列車の中または駅構内から差し出されている。

1915年8月9日

1915年8月9日

〔本文〕
 シャティヨン=スュール=セーヌ(*1)にて、1915年8月9日 8時30分
 いとしい妻へ
 あいかわらず移動中だ。昨晩はぐっすり眠った。おそらく明日の朝に目的地につくだろう。とても暑いから、私たちの森(*2)に着いたらいい気持ちだろう。
 食糧も底をつきかけているが、旅も終わりに近づいている。駅ではパンやワインが手に入る。一番大切なものだからな。
 おまえたちみんなを強く抱きしめる。昨日送った葉書も届いていることだろう。
 (サイン)

〔宛先の上の波形の鉄郵印〕
ニュイ=サン=ラヴィエール~シャティヨン=スュール=セーヌ間(*3)

〔宛先〕
ガール県
サン=タンブロワ
L. ロンバール様(*4)

〔通信面の到着印〕
ガール県
サン=タンブロワ
15年8月12日 (?)

(*1)シャティヨン=スュール=セーヌ Châtillon-sur-Seine はフランス東部ブルゴーニュ地方の中心地のひとつ。差出人の故郷のある南仏と、差出人の部隊があるロレーヌ地方との中間にある。円弧上に広がるドイツとフランスの国境から見て扇の要(かなめ)のような場所にあたり、1914年9月にはこの地でフランス軍総司令官ジョフル将軍がマルヌ会戦の指揮を執った。
(*2)『野戦砲兵第19連隊史』によると、1915年8月当時、差出人の所属する野戦砲兵第19連隊は、マルヌ県ヴィル=スュール=トゥルブ Ville-sur-Tourbe 付近(ヴェルダンから西に四十数km)に陣取っていた。その東側には、広大なアルゴンヌの森が南北に連なっている。ここでいう「私たちの森」も、広く言えばアルゴンヌの森に属する。
(*3)波形の消印は、いわゆる鉄郵印(鉄道郵便印)。この路線は、ブルゴーニュ地方コート=ドール県シャティヨン=スュール=セーヌ Châtillon-sur-Seine 駅と、隣のヨンヌ県の村ラヴィエール郊外にあるニュイ=サン=ラヴィエール Nuits-sous-Ravières 駅とを結ぶ全長 36 km の短いローカル線で、現在では貨物専用となっている。波形の消印は、ここを走る列車内または駅構内から葉書が差し出されたことを示している。
(*4)妻の住所は、2通目(7月25日)の時点ではガール県ニーム(サン=タンブロワから50 kmほど離れた大都市)だったが、この4通目(8月9日)の時点ではサン=タンブロワに移っている(3通目で見たように、サン=タンブロワには妻の両親の家がある)。おそらく、戦争が長びいて夫の不在が長期化したために、子供をつれて実家またはその近所に移り住んだのではないかと思われる。
なお、宛先の欄は、これ以降の妻宛ての葉書ではみな同じため、以下省略。



1915年8月10日(5通目)-布の寝袋

 次の葉書は、前線に復帰して寝る前に妻に宛てて書かれている。

1915年8月10日

1915年8月10日

〔本文〕
 1915年8月10日、22時30分
 いとしい妻へ
 2日と3泊の旅ののち、目的地に到着した。なかなか快適な旅で、それほど疲れなかった。とはいえ、これから喜んで布の寝袋にもぐり込み、もらって当然の休息を満喫することにする。
 明日、旅のことをもっく詳しく書いてあげよう。
 おまえたちみんなを強く抱きしめる。
(サイン)

〔赤い印〕
砲兵少佐



1915年8月12日(6通目)-知人が見つからない

 次の葉書では、他の連隊に属する親戚または親友が近くにいるはずなのに探しても見つからないことが書かれている。
 また、交替勤務で、この日から塹壕に行くことが告げられている。

1915年8月12日

1915年8月12日

〔本文〕
 1915年8月12日
 いとしい妻へ
 いまだにリヴィエールが見つからない。長い間会えないのではないかと心配だ。移動中ずっと邪魔になっているあいつの食糧を厄介払いするために、ヴァンサンにあいつを探しに行かせている。
 デュランの息子がやって来て、午前中の間、ずいぶん長いこと話をした。3日間、塹壕で充実した日々を送ったそうだ。すでに知らせておいたように、今夜は私が塹壕に行く番だ。しばらく前から雨が降っているから、晴天は望めない。なるべく毎日、葉書を送るようにするよ。戻ってきたら手紙(*1)を書くから。
 ヴェルジェズのいとこに会った。あとは、見つからないリヴィエールをつかまえるだけだ。
おまえたちみんなを強く抱きしめる。(サイン)

〔通信面の到着印〕
ガール県
サン=タンブロワ
15年8月17日

(*1)「手紙」 lettre とは、広い意味では「葉書」を含む郵便物を指すが、狭い意味では「封書」を指す。差出人は、特に忙しくない限りはほとんど毎日葉書を書き、たまに長い封書の手紙を書いていたらしい。前線の塹壕では短い葉書しか書けないから、塹壕での勤務を終えて後方の陣地に戻ったら、ゆっくりと長い手紙を書くと約束しているわけである。



1915年8月23日(7通目)-ライターと煙草、写真

 次の葉書では、親戚や親しい知人のことが話題になっている。また、ライターと煙草を送ってくれたことへのお礼や、写真うつりのいい写真を送ってほしいという要望なども書かれている。

1915年8月23日

1915年8月23日

〔本文〕
 1915年8月23日
 いとしい妻へ
 たったいま受けとった20日付の手紙でおまえが望んでいたように、私たちはすっかり身を落ち着けた。
 昨日、オリヴィエ本人から、あいつらを襲った不幸の話は聞いたよ。詳しいことは25日にアレス(*1)に休暇に帰るやつに持たせる手紙の中で書いておく。
 ライターはとてもいい具合だ。煙草もちょうどいい時に来た(*2)。この村では手に入らなくなっていたからね。
 リヴィエールの奥さんには安心するように言ってくれ。リヴィエールは現役部隊には配属されないから。若いやつらだよ、現役部隊に選ばれるのは(*3)。リヴィエールの連隊はここから遠くはないはずだから、会えるように努力しよう。みんなにとびきりのキスを送る。それはそうと、写真はまだかな。一番よく写っているのを最初に送ってくれよ。

〔左側の縦の書き込み〕
 本当にエドモンは撮るのが下手くそだからな。ずいぶん私は変な顔をしているぞ!

〔通信面の到着印〕
ガール県
サン=タンブロワ
15年8月27日

(*1)南仏ガール県アレス郡。妻の住む町サン=タンブロワがある。
(*2)ライターと煙草が入った小包を妻が送ってくれたことがわかる。
(*3)現役部隊(現役軍)は、いわゆる職業軍人と、動員によって新たに召集された新兵で構成される。この対語である予備部隊(予備軍)は、元軍人だった者(予備役)と、動員時に35才以上だった者で構成され、現役部隊よりも後方の比較的安全な場所にいることが多かった。リヴィエールは35才を超えていたのだと思われる。

 なお、20日付の妻の手紙を23日に受けとり、この23日の葉書は27日に妻のもとに届いているから、妻のいる南仏とフランス北東部の前線との間では3~4日で郵便物が行き来していたことがわかる。



1915年9月4日(8通目)-売れ残りの煙草と「観測」

 次の葉書では、煙草などを送ってくれたお礼と、翌日から「観測」に行くことが告げられている。

1915年9月4日

1915年9月4日

〔本文〕
 1915年9月4日
 いとしい妻へ
 今日、知らせておいてくれた小包を受けとった。とてもよい状態だった。いろいろいい物を入れてくれてありがとう。でも、もう一度言っておくけれど、私の方から送ってほしいと言わないかぎり、何も送らないようにしくれ。この煙草は変わっているなあ。こんなの見たことがないよ。サン=タンブロワで売れ残りをつかまされたんだろう。でも、なかなかうまいよ。
 明日はあまり書く時間がないだろう。観測(*1)に行くからだ。明後日もだ。そのぶん、あとで話すことがたくさんできるから。
 おまえたちみんなを強く抱きしめる。

〔左側の縦の書き込み〕
 いとしい家族のことをしばしば思いを馳せているパパより(サイン)

(*1)「観測」とは、大砲が狙った場所に弾着(着弾)しているかどうかを見きわめることを意味する軍事用語。双眼鏡などを使って「観測」することで、大砲の角度を調整し、命中の精度を上げる。差出人は砲兵隊に属している。



1915年9月6日(9通目)-写真と野うさぎ

 次の葉書では、他の場所で戦っている親友との写真の交換について書かれている。また、野うさぎを仕留めたのでご馳走が食べられることについて書かれている。

1915年9月6日

1915年9月6日

〔本文〕
 1915年9月6日 22時
 いとしい妻へ
 今朝、9月1日付と3日付のおまえの手紙と、写真入りのエドモンの手紙を受けとった。エドモンに返事を書き、こんな見すぼらしい結果を残すために甚大な努力を払ってくれたことに感謝しておこう(*1)。私がおまえに送る小さな写真は、私が受けとった写真よりはうまく撮れたと思うよ。まあ、何ごとにも始めが必要だからね(*2)。
 2日間の観測が終わったから、明日はもっとおまえに書く時間ができるだろう。
 今日の午後、野うさぎを仕留めたよ。どうやって仕留めたのか、いずれ説明してやろう。明日はすごいごちそうだ。手で食べるのは行儀がよくないとか、マルセルのやつは言っているがね。モーリスの調子がよくなってよかった。

〔左側の縦の書き込み〕
 たぶん、あいつは日曜日に名づけ子(*3)のところで甘いものを食べすぎたんだろう。
 おまえたちみんなを強く抱きしめる。(サイン)

(*1)受けとった写真の出来ばえがよくなかったので、明るい調子で皮肉を言っている。
(*2)「何ごとにも始めがある」Il y a un commencement à tout.という諺の変形。これは「最初はうまくいかなくても仕方がない」という意味で、自分のことに関しては言い訳として、相手に対しては慰めとして使われる。
(*3)「名づけ親」の反対。生まれたての赤ん坊のときに洗礼時に名前をつけてやったという関係にあたる。



1915年9月9日(10通目)-嵐の前触れ

 次の葉書では、これから少し忙しくなり、妻に葉書を書いたり、ベットで寝たりすることができなくなることが告げられている。

1915年9月9日

1915年9月9日

〔本文〕
 1915年9月9日21時
 いとしい妻へ
 今のところコンスタントにおまえの手紙を受けとっている。私の手紙もちゃんと届いているといいのだが。でも、今後しばらくは、今まで通りでなかったとしても、おかしいと思う必要はないよ。それは単に忙しい証拠だからだ(*1)。
 今のところ、静かな時期をすごしているが、これは嵐の前触れなのだろうか。そうであればいいと、みな願っている。
 今日、エドモンに感謝の手紙を1通書き、サラおばさんにも1通、甥といとこのルイにも葉書を書いておいた。明日はおまえの番だ。それまで、心安らかにベットで眠ることにする。というのも、これからしばらくの間、ベットで眠ることは

〔左側の縦の書き込み〕
できなくなるのではないかと思うからだ。おまえたちみんなを強く抱きしめる。
(サイン)

(*1)数日間手紙のやり取りが途絶えた場合、それは単に忙しくて書けなかっただから心配しないでくれ、といった内容の文面は、当時の兵隊が家族に宛てて出す葉書でよく見かける。



1915年9月11日(11通目)-休暇に帰る仲間の見送り

 次の葉書は、土曜の夜に書かれたもので、翌日の日曜に休暇に帰る仲間の見送りを兼ねて、ご馳走を食べて、歌を歌って騒いだことなどが記されている。。
 なお、同じ地方の出身の兵は、同じ部隊に配属されることが多かった。

1915年9月11日

1915年9月11日

〔本文〕
 1915年9月11日 22:30
 いとしい妻へ
 目下、非常にコンスタントにおまえの手紙を受けとっている。ただ、このまえ送ってくれた小包を受けとったと書いた手紙は、おまえは受けとっていないんじゃないか。
 明日休暇に出発するゴワランといい夜をすごすことができた。とてもバリエーションに富んだ献立だった。詳しくは手紙に書くことにするよ。当然のように仲間たちが歌い、それを聴きながら夜がすぎた。そんなこんなで、時がたつのが早く感じられる。
 明日の日曜には手紙を書こう。それが明日の私の気晴らしになるだろう。
 おまえたちみんなを強く、強く抱きしめる。(サイン)



1915年9月13日(12通目)-ドイツ軍将校の丸焼き

 次の葉書では、見晴らしのよい要塞で砲兵隊の観測をおこない、壮観な撃ちあいを眺めたことや、ドイツ軍将校が鉄条網に引っかかって丸焼きになっていたことなどが語られている。

1915年9月13日

1915年9月13日

〔本文〕
塹壕にて、1915年9月13日 18時

 いとしい妻へ
 今日は要塞で観測兵としてすごした。最前部にいたから、壮観な砲弾の撃ちあいを眺めることができた。すべては味方にとって良い結果に終わった。ドイツ野郎どもは大損害を受けたにちがいない。無数の砲弾をお見舞いしてやったからね。今はすっかり静かになり、時おり弾丸が飛んできて、要塞の胸壁にはりついているぐらいだ。
 おまえが勧めていたように、今日はとても慎重だった。調子にのって銃をぶっ放したりはしなかったよ。でも、例の好奇心という悪魔にそそのかされ、歩兵となって聴音哨(*1)のところまで歩いて行った。そしたら、かわいそうなドイツ野郎の将校がおれたちの鉄条網に引っかかって丸焼きになっていたよ。こんがり焼き上がっていたねえ(*2)。
今日と明日は城塞で寝ることにする。

〔左側の縦の書き込み〕
戻ったらもっと詳しく書くよ。
おまえたちみんなを強く抱きしめる。(サイン)

〔右上の逆向きの書き込み〕
たった今、おまえの10日付の手紙を受けとった。ありがとう。

〔到着印〕
ガール県ソミエール
15年9月17日

(*1)聴音哨とは、一般に音を聴いて敵の動きを察知する役割を担った兵士のこと。第一次大戦中は、おもに二つのケースがあった。一つは、坑道戦(=地下深いところに穴を掘り進めて爆薬を仕掛ける戦法)において、対壕(塹壕)を掘り進めて接近してくる敵の作業に耳を澄ます場合。もう一つは、最前線で通信兵が無線傍受をおこなう場合(これは1915年以降にヴェルダン戦線で一般化した)。ここでは後者だと思われる。
(*2)敵の侵入を防ぐため、陣地や塹壕には鉄条網が張りめぐらせてあった。鉄条網を焼き肉のグリルにたとえる比喩は、当時の兵隊の間でよく用いられた。



1915年9月14日(13通目)-観測の任務を終えた夜

 次の葉書は、前日からの要塞での観測の任務を終えた夜、じめじめした狭い牢屋のような部屋の中で書かれている。明日の朝には少し後方に戻って休むことが告げられている。

1915年9月14日

1915年9月14日

〔本文〕
1915年9月14日 20:30
  いとしい妻へ
 私の2日目はほとんど終わった。作業は夜遅くまでかかると思っていたのだけれど。1日目と同様、今日も非常にうまくいった。
 今夜、おまえからの11日付の手紙とベルニの友人からの手紙を受けとった。これが少し気晴らしになり、囚人の独房にも似た私の部屋は、悲しいじめじめした感じが少し消えた気がする。
 しかし、よく眠り、明日は朝8時に出発して、少し休息することにする。
 おまえたちのことを強く、強く抱きしめる。(サイン)

〔到着印〕
ガール県
サン=タンブロワ
15年9月20日



1915年9月25日(14通目)-収穫で忙しいぶどう畑を通過

 次の葉書では、雨の中、軍曹だった差出人が「一列の」兵を従えて移動し、途中で通ったぶどう畑での収穫のようすが書かれている。

1915年9月25日

1915年9月25日

〔本文〕
 1915年9月25日 21時30分

 いとしい妻へ
 ここから10 kmほどのところに一列の兵を率いて帰ってきたところだ。少し疲れているが、おまえに一言書かずに一日を終えることはできない。
 道すがら、広大なぶどう畑を通ったが、収穫する人々が濡れながら走りまわっていた。昨日から雨だからね。
 通過する多くの村の一つでルーに会えるかと思っていたが、あいつはもう L...(*ぬ)にはいなかった。塹壕に行っているにちがいない。
 これからすぐ明日まで眠る。
 おまえたちのことを強く抱きしめる。(サイン)

(*1)村の名をイニシャルだけ書き、あとは伏せている。戦地から出す手紙には具体的な地名は書いてはならなかったからである。



1915年9月26日(15通目)-何もしないでいるのは、うんざりだ

 戦闘がなく平穏なのは歓迎すべきことのようにも思われるが、逆に何もせずに無駄に日々がすぎていくのも耐えがたかったらしいことが次の葉書からわかる。

1915年9月26日

1915年9月26日

〔本文〕
 1915年9月26日 21時

 いとしい妻へ
 今日、23日付の手紙を受けとった。22日付の手紙は配達途中なのだろう。私たちの日曜は静かにすぎた。しかし、この静けさがずっと続いてほしいとは思っていない。こうやって何もしないでいるのは、うんざりだ。
 しばらく雨が続きそうだから、外で寝なければならなくなったら、去年の同時期と同じ野原が見られるだろう(*1)。
 私の葉書がコンスタントに届かなかったとしても、それは書く暇がないだけだ。
 おまえたちみんなを強く、強く抱きしめる。パパより(サイン)

(*1)雨がたっぷりと降って草木がうるおい、去年と同様に青々と茂ることだろう、と言っているのだと思われる。



1915年9月30日(16通目)-水がたまった連結壕での移動

 次の葉書では、ときには少し大変な思いをした方が、そのぶん休みがありがたく感じられるという、この兵士のポジティブな考え方が綴られている。

1915年9月26日

1915年9月26日

〔本文〕
1915年9月 29日 30日
 いとしい妻へ
観測の2日目が静かに終わろうとしている。
今朝、水が一杯たまった連結壕(*1)を通って10 kmほどたっぷり移動した。でも、これくらい何でもない。むしろ、ときには少し苦労するのは大歓迎だ。そのほうが休みの日がありがたく感じられるからね。
とはいえ、晴天が戻ってきそうで、みな満足している。やりかけの仕事に取りかかることができるからだ。
おまえたちみんなを強く抱きしめよう。
いつもおまえたちのことを思っているパパより(サイン)

〔縦方向の書き込み〕
私の独房(*2)はこの前よりも快適だ。

(*1)連結壕 boyau とは、塹壕と塹壕、または塹壕と後方の陣地等とを結ぶ、人が通ることだけを目的として掘られた通路のこと。かろうじて人がすれ違える程度の幅しかない。排水のことはあまり考えられていないので、雨が降ると水がいっぱいに溜まることもあった。
(*2)前線の狭い寝床を牢屋にたとえる比喩は、13通目の葉書でも出てきた。



ランスへの移動

 1915年11月、差出人ロンバールの所属する野戦砲兵第19連隊は、ヴェルダン近郊からランス Reims 近郊に移動する。

 有名なランス大聖堂は、開戦直後の1914年9月4日以降、ドイツ軍の砲撃を受けて大きく損壊し、一時はドイツがこの街を占領したが、すぐにフランス軍が奪還し、以後ランス周辺に両軍が陣取ってにらみ合うことになった(1915年2月22日付の葉書を参照)。

 1915年まではランス近辺でしばしば戦闘も行われたが、1916年になると主戦場がヴェルダン近辺に移ったため、逆にランス近辺は比較的平穏となった。

 以下、17通目(1916年2月28日)から31通目(1916年5月25日)までは、この比較的平穏だった時期のランス近郊で書かれたものである。



1916年2月28日(17通目)-お金の貸し借り、陣地の変更

 次の葉書では、差出人はいつもどおり裏面から書き始め、左側の余白に垂直方向に書いたところで、いったん文章を完結させている。しかし、ほかにも書きたいことが出てきたので、表面の住所欄にまで文章を書き込んでいる。当然、宛名は書けないので、封筒に入れて出されたものと思われる。
 前半は知人とのお金の貸し借りの話、垂直方向の余白は陣地の移動の話、表の住所欄にはそれ以外の細かいことが書かれている。

1916年2月28日

1916年2月28日

〔本文〕
  1916年2月28日
  いとしい妻へ
 今日の午後、おまえたちの良い知らせが書かれた今月23日と24日付の手紙を受けとった。こんなに長く待つのに慣れていなかったので、まだかまだかと思っていたところだった。
 たしか、デュランの息子が出発前に金を貸してくれと頼みに来た話は、まだしていなかったね。私自身ちょうど必要なだけしか持ち合わせていなかったので、断らざるをえなかった。ここで私たちが手元にあるお金というのは、ごくわずかなものだ。いろいろな所で借金をこしらえている、あの脳みそが空っぽな奴にいい思いをさせてやるために、私自身が困るいわれはない。デュランの息子には1か月半会っていなかったが、今度は30フラン頼みに来たので、貸してやったよ。あいつは20フランだけ借りたことにしておいてくれと頼んでいった。デュランの家族が10フランおまえに返すはずだ。それについては、あいつが家族に話すだろう。

〔垂直方向の余白〕
 陣地が変わったことは、昨日おまえに書いたかなあ。以前の城塞に移ったんだ。移動は夜のうちに雪の中で行われた。朝、道がガラスのように滑ったので、ビロンに鉄臍(*1)をつけて登った。びしょ濡れになったよ。これに伴い、塹壕の担当区域も変わる。でも、こっちのほうがいいなあ。歩いて移動するのが楽だから(*2)。塹壕には近いうちに行く予定だ。
   おまえたちを強く抱きしめるパパより(サイン)

〔表面の住所欄〕
 フェリックスからの手紙を受けとった。「甘酸っぱく変質した」(*3)区域にいると言っている。どこだろう。甥にはもう2通も葉書を出したが返事がない。悪いが、補強砲兵中隊の区域番号が49のままかどうか、ダルヴェルニの奥さんに聞いてくれないか。叔父からの便りもない。きっと住所が変わったのだろう。

〔表面の左の斜めの書き込み〕
もう一度みんなに大きなキスを。(サイン)

(*1)鉄臍(てっさい)とは、馬の蹄鉄に取りつける滑り止めのスパイクのこと。「ビロン」とは馬の名だと思われる。なお、当時の砲兵隊は、主に馬に引かせて大砲や弾薬を移動していた(1915年5月16日-戦場のミサの葉書の写真を参照)。
(*2)兵士はずっと塹壕で生活していたわけではなく、戦闘のとき以外は、数日間の塹壕での勤務を終えると、後方にある陣地に戻って寝泊まりしていた(交替勤務)。場所によって、陣地と塹壕との距離が近くて移動が楽な場合と、離れていて移動が大変な場合があった。
(*3)直訳すると「マンニット発酵した」。ワイン醸造の専門用語。醸造桶の中が高温になり、甘酸っぱく変質してだめになることを指す。敵の攻撃などによって、塹壕や陣容が整然とした状態ではなくなっていると言おうとしているらしい。「フェリックス」は平時にはワイン造りに従事していたのかもしれない(差出人の故郷である南仏ガール県はワインの産地)。



1916年3月1日(18通目)-雨あられのように降りそそぐドイツ軍の砲弾

 次の葉書では、晴れ間を利用して町の野戦病院にお見舞いに行ったこと、ドイツ軍の砲弾が雨あられのように降りそそいでいることなどが語られている。

1916年3月1日

1916年3月1日

〔本文〕
 1916年3月1日
  いとしい妻へ
 おまえの手紙はコンスタントに受けとっている。あいかわらず同じ理由(*1)で郵便物が遅れるはずだと聞いていたので、驚いている。
 午後は晴天に恵まれた。この晴れ間を利用して、肺炎で町の野戦病院で治療を受けている昔の炊事係にお見舞いに行った。
 そこから陣地に戻ったが、もう一つの陣地ですごしていた少しの間に、だいぶようすが変わっていた。城塞やその周辺が損害を受け、もっと面白い感じになっている。
 いつも通る道とは違う道で帰ってきた。いつもの道はドイツ野郎の砲弾がほとんどたえまなく降りそそいでいるからね。弾頭が私たちのいる村まで飛んでくることもある。
 晴天が続くといいけれど、きっと明日起きる頃にはまた雨だろう。
 ソルビエとヴァンサンは相変わらず元気で、おまえたちによろしくと言っている。
 おまえたちを強く抱きしめる。(サイン)

〔垂直方向の余白〕
同じ便で、デュランの息子にも書いておく。

〔通信面の到着印〕
ガール県
サン=タンブロワ
16年3月4日

(*1)具体的にどのような理由なのかは、この葉書からはわからない。郵便物が遅れる理由としては、たとえば付近で戦闘があるなどの理由が考えられる。



1916年3月4日(19通目)-頭部を吹き飛ばされた中尉

 次の葉書では、小屋にいた中尉、その従卒、電話兵が砲弾で吹き飛ばされて死に、埋葬された話が語られている。

1916年3月4日

1916年3月4日

〔本文〕
  1916年3月4日
 いとしい妻へ
 あいかわらずコンスタントにおまえたちの良い知らせを受けとっている。
 今朝、雨の中、オドマール中尉の死について正確なところを聞きに行った。残念ながら昨日聞いたことは本当だった。中尉がいた場所に行ったら、教えてくれたんだ。砲弾が小屋を貫通して中で爆発し、中尉の頭が吹き飛ばされたそうだ。従卒と電話兵も同時に死んだ。埋葬の時刻を聞きに行ったんだが、もう葬式は昨晩から町の北側の墓地で行われたそうだ。前途有望ないい男だったから、とても悲しかった。しかし、これも運命だ。もう話すのはやめよう。
 ダルヴェルニの奥さんのところにアルベールから便りが来たそうだ。よかった、よかった。
 明日は以前の担当区域の塹壕に行き、

〔垂直方向の余白〕
そこで夜をすごす。そのほうが面白いからな。
 おまえたちみんなを抱きしめるパパより(サイン)



1916年3月5日(20通目)-昔の仲間との再会

 次の葉書では、昔の仲間と再会した機会に、わが身を振り返り、10年以上の時によっても、また戦争によっても、自分が変わっていないことが書かれている。

1916年3月5日

1916年3月5日

〔本文〕
1916年3月5日、日曜
 いとしい妻へ
 今、24時間の予定で塹壕に詰めている。今回はよい日に恵まれたので、あいかわらずとても静かな担当区域の中を少し歩きまわっている。
 今朝、出発する前に、むかし一緒に小隊を組んだことがある仲間がやって来た。あれから10年以上たつ(*1)が、ひと目でわかった。あいつも私が昔と変わらないと言ったが、たしかに私はほとんど同じ状態だ。戦争によっても取り乱されることはなかった。これからもずっとそうであればいいと思っている。
 塹壕から葉書を手渡すようにしてみよう。そうすれば

〔垂直方向の余白〕
もっと早く届くだろう。出発する前に、おまえの3月1日付の手紙を受けとった。
 おまえたちみんなを強く抱きしめるパパより(サイン)

(*1)「むかし一緒に小隊を組ん」でから「10年以上たつ」という記述から、おそらく差出人は30才以上だったことがわかる(特に志願した場合などを除き、原則としてフランスにおける召集年齢は1913年8月7日の法律以前は21才、それ以降は20才だった)。



1916年3月6日(21通目)-塹壕での務めを終えて

 差出人はなかなか筆まめで、塹壕での務めを終えて疲れた状態でも、ひと言だけだが書き送っている。

1916年3月5日

1916年3月5日

〔本文〕
 1916年3月6日
 いとしい妻へ
 たった今、塹壕から戻ったところだ。すべてはうまくいった。当然、少し疲れているから、明日もっと長く書くことにする。
 おまえたちみんなを強く抱きしめる。
    (サイン)



1916年3月9日(22通目)-写真と服のでき上がるのを待ちながら

 次の葉書は、写真と一緒に封筒に入れて送られたことが本文に書かれている。
 そういえば、この葉書には部隊印が捺されていない。
 また、その他の写真も現像中であることが語られている。
 さらに、まもなく休暇が取れそうだから「服を用意させておいた」ことが書かれている。次の休暇が楽しみで仕方ないような調子が伝わってくる。

1916年3月9日

1916年3月9日

〔本文〕
 1916年3月9日
 いとしい妻へ
 こちらでは良い天気は長続きしない。また雪だ。どれだけ降り続けるのだろう。だからやむをえないときしか外に出ない。
 昨晩、休暇をもらった奴らが陣地からやって来た。そのうちの一人がこの写真を持ってきたので、急いでおまえに送るよ。他の写真は現像中だそうだが、何枚かもらいたいと思っている。特に城塞が写っているやつを頼んでおいた。あの陣地で写した写真は初めてだからね。
 休暇に行くために、ブルーの服(*1)を用意させておいた。今夜には仕上がるだろう。これは、まもなくやって来るはずの晴れの日のために取っておくんだ。
 今朝、レックがやって来た。おまえによろしくと言っていた。
 こちらは相変わらず静かだ。これがまだ長いこと続くことを願っている。
 おまえたちを抱きしめるパパより
(サイン)

(*1)フランス軍の軍服は、大戦が始まった頃は上着は紺色、ズボンは鮮やかな赤(深紅色)だったが、それでは戦場で目立ちすぎるというので、1915年前半にブルー オリゾン(bleu horizon ホライゾンブルー、水平線の青)と呼ばれるグレーがかった地味なブルーの服に順次切り替わった。この軍服のことを指していると思われる。



1916年3月11日(23通目)-蓄音機とステンドガラスの指輪

 次の葉書では、一日中、蓄音機で音楽を聴いてすごしていることが語られている。
 また、大聖堂のステンドガラスの指輪を作ってもらったことが書かれている。

1916年3月11日

1916年3月11日

〔本文〕
 1916年3月11日
 いとしい妻へ
 こちらは相変わらずの雪で、ずっと閉じ込められている。誰かが蓄音機を持ってきたので、昼も夜も音楽を聴いてすごしている。
 昨日、3か月前に注文しておいた指輪が2つ届いた。よくできていて、どちらも本物の大聖堂のステンドガラスが使われている(*1)。
喜んでくれるといいけれど。
 おまえたちみんなを強く抱きしめるパパより
(サイン)

(*1)妻に贈るために、大聖堂のステンドガラスのかけらを使って指輪を作ってもらったらしい。1916年3月当時、ロンバールが所属する砲兵第19連隊はランス Reims 大聖堂の近くに陣取っていた。この大聖堂はドイツ軍の砲撃を受けて大きく破壊され、正面のステンドガラスも粉々になっていたので、たまたま大聖堂のステンドガラスの破片が手に入り、このアイデアを思いついたのではないかと想像される(ただし、これ以外にも多くの教会がドイツ軍によって破壊された)。当時は、塹壕での徒然(つれづれ)に、アルミの破片を使って指輪を作ったり、砲弾に巻く弾帯(回転運動を与えるために砲弾の基部などに巻きつけた、斜めにギザギザが刻まれた銅などでできた帯)を伸ばしてペーパーナイフを作ることが兵隊の間で流行していた。おそらく、手先の器用な仲間に指輪を作るように頼んでおいたのではないかと思われる。なお、指輪の話は1915年9月18日-自転車兵と落下してくる「大鍋」の手紙でも出てくる。



1916年3月12日(24通目)-蓄音機と慰問コンサート

 前日に続いて書かれた次の葉書では、日曜日の午後に「とどろく大砲の伴奏として」蓄音機で音楽を聴いてすごしたことや、夜にはコンサートが開かれることが書かれている。
 調べてみると、この葉書が書かれた3月12日がまさに日曜日にあたるので、日曜の夕方あたりに書かれたものと思われる。
 また、近いうちに2回目の休暇が取れそうなことも書かれている。

1916年3月12日

1916年3月12日

〔本文〕
 1916年3月12日
 いとしい妻へ
 日曜としてはなかなかよい日に恵まれたので、上官のお伴をして、しばらく前におまえに話した家族に挨拶に行った。蓄音機を持っていったので、午後は音楽を聴いてすごした。ときどき街の上でとどろく大砲の伴奏として。
 今夜はこの村でコンサートがある。フーク(*1)が舞台に立つ予定だ。できるだけ行きたいと思っている。少し気晴らしになるからね。
 おまえたちからのよい知らせは、あいかわらずコンスタントに受けとっている。近いうちに今度は私のよい知らせを伝えられたらいいと思っている。というのも、休暇の1巡目がまもなく終了するからだ。
 リヴィエールはいま塹壕に行っている。出発する前に、あいつに会っておきたいと思っている。

〔垂直方向の余白〕
 おまえたちを抱きしめるのが待ち遠しいパパより
(サイン)

(*1)「フーク」は前線に慰問に来た歌手または演奏家の名前だと思われるが、詳細不明。



1916年3月14日(25通目)-機関銃を撃ちあう飛行機の祭典

 次の葉書では、久しぶりに晴れたおかげで、雲の上では飛行機が派手に機関銃を撃ちあっていることが書かれている。

1916年3月14日

1916年3月14日

〔本文〕
 1916年3月14日
 いとしい妻へ
 やっと晴天が続くようになった。長らく姿を消していたこの太陽で、生き返るようだ。
 同時に、これは雲の上で機関銃を撃ちあう飛行機の祭典でもある。
 今日、カリエールの息子がやってきて一緒に昼食をとった。ついさっき私たちの車の一台で出発し、町の野戦病院に向かっていった。あいつは今月末に休暇が取れると思っているが、私もそれまでには休暇が取れるといいなあ。
 おまえたちを強く抱きしめるパパより(サイン)



1916年3月15日(26通目)-休暇の前日になったら電報を打つ

 次の葉書では、休暇に出発する日が確定したら、その前日に電報を打つつもりであることが書かれている。

1916年3月15日

1916年3月15日

〔本文〕
  1916年3月15日
 いとしい妻へ
 毎日そうしているように、今日も、あいかわらず元気だというおまえの手紙を受けとった。近いうちに休暇の出発の日にちを伝えられると思う。そうしたら家賃(*1)の話をしよう。
 何日になるかは前日にならないとわからない可能性があるので、正確な出発日を知らせる電報をサン=タンブロワのおまえの所に送るつもりだ。その翌日の午後にはニームに着くだろう。
 もしそうしたほうがよいと思うなら、いとこの家で待っていてもいい。夕方になったら一緒にサン=タンブロワに向かおう。
 その幸せな日がくるのを待ちながら、おまえたち

〔垂直方向の余白〕
みんなを強く抱きしめる。
   おまえたちの父より(サイン)

(*1)差出人夫婦が家賃を払う側なのか受け取る側なのかは不明。しかし、1915年夏に妻が子供をつれて実家またはその近所に引っ越したと思われる(4通目の葉書を参照)ことを考えると、支払う家賃のことを言っているのかもしれない。いずれにせよ、大戦中でインフレが進行しつつあったことと関係があるとも想像される。



1916年3月16日(27通目)-2回目の休暇の段取り

 次の葉書では、間近に迫った2回目の休暇の段取りを妻と相談している。妻は故郷のサン=タンブロワから50 kmくらいのところにある大都市ニームの駅まで迎えに来たいと言ってよこしたらしいが、差出人は直接サン=タンブロワ駅まで行ったほうがいいと述べている。

1916年3月16日

1916年3月16日

〔本文〕
 1916年3月16日
 いとしい妻へ
 ついに来週から休暇の2巡目が始まることになったので、喜んで知らせたい。私はリストの最初のほうに載っているから、来週中に出発できるだろう。出発の日がわかり次第、一筆書くつもりだ。しかし、ニームに迎えに来てくれる必要はないのではないか。私が直接サン=タンブロワに行った方がいい気がする。近頃は列車が遅れるから、行き違いになるといけないからね。
 リヴィエールがいつ塹壕から戻るのか尋ねておこう。あいつらの部隊は私のいる隣の村で休止するだろうから、なるべく出発前に会うようにしよう。あいつも、近いうちに休暇がもらえるはずだ。
 おまえたちに会いたくてしかたがないパパより
(サイン)



1916年3月18日(28通目)-「地獄の真っただ中」で

 次の葉書では、親戚や知人の消息がとりとめもなく語られているが、最初の甥からの知らせに関して、ふと何げなく戦場を「地獄」にたとえているのが注意を惹く。

1916年3月18日

1916年3月18日

〔本文〕
 1916年3月18日
 いとしい妻へ
 きのう、甥から知らせを受けとった。本人は元気だが、部隊はかなり深刻な損害を受けたと書かれていた。こんな地獄の真っただ中にいるのだから、容易に想像できることだ。アルベールが自分の運命に満足していると知って喜んでいる。
 今日、ルーからも知らせを受けとった。ルーは私のいるところからあまり遠くないところにいるようだと書いてきた。あいつの部隊のいる村の名前を地図で探してみよう。
 リヴィエールが塹壕から戻ってきたから、明日の朝、天気がよければ会いに行くつもりだ。
 あいかわらず私の休暇については何の知らせもない。

〔垂直方向の余白〕
 おまえたちを強く抱きしめるパパより
(サイン)



 この後、1916年3月下旬にロンバールは2回目の休暇をとる。1回目の休暇は1915年7月末~8月初め(2通目~4通目)だったから、8か月ぶりの休暇だったことになる。



1916年4月1日(29通目)-幸福の余韻と戦争の現実

 次の葉書では、久しぶりに妻や家族と再会できた幸福の余韻が覚めやらぬ中、にわかに忙しくなって戦争の現実に引き戻されているようすが語られている。

1916年4月1日

1916年4月1日

〔本文〕
 1916年4月1日 20時
 いとしい妻へ
 おまえとおしゃべりができて幸せだった7日間が過ぎ、また以前のように手紙でのやり取りが始まった。だが、名残惜しんでばかりいるのはやめよう。むしろ、おまえたちみんなをこの腕に抱きしめることができた私は、非常に幸せ者だと言いたい。この喜びがもっと長く与えられる日が、おそらくやって来ることだろう。
 私の砲兵中隊は、あいかわらず同じ場所にいた。いずれ旅のことをもっと詳しく話してあげよう。
 今日は一日中忙しかった。朝に点検を済ませてから、中隊の大尉や下士官全員のところに行った。明日はまた陣地に行き、ますます複雑になった塹壕での任務の注意を受けなければならない。月曜には担当区域を見にいく必要がある。中隊はまた陣地を変え、再び数kmの区域になったのだ。

〔垂直方向の余白〕
 サン=タンブロワに戻ったあのモーリスが母親に言った(*1)
   おまえたちを強く抱きしめるパパより
(サイン)

(*1)この一行は唐突で、文が完結していない。差出人がうっかり直前の行を葉書からはみ出して書いたと想像するほうが自然なように思われる。



1916年4月3日(30通目)-静かな村で

 次の葉書は、手元に残された一連のロンバールの葉書のなかでは、妻に宛てたものとしては最後の葉書となる。

1916年4月3日

1916年4月3日

〔本文〕
  1916年4月3日 20時
 いとしい妻へ
 塹壕での一日が終わり、あい変わらず元気だとおまえに伝えることが可能になった。
 今回は理想的な日に恵まれて、うまくいった。この時期にしては暑すぎるほどだ。徒歩で歩いたことよりも、暑さでばててしまった。陣地で夕食も済ませ、17時に村に戻ったんだ。
 明日、おまえに手紙を書くつもりだ。少し気晴らしをするために、首尾よく終わった移動の細かいことについて話してあげよう。
 ここの村に来て、静かな田舎の生活を取り戻した。第一線の砲弾の爆発音とは大違いだ。
 みんなに大きなキスを。
 おまえたちのパパより
(サイン)



1916年5月25日(31通目)-軍曹から曹長に昇進

 以下の 3 通は、義理の両親、つまり妻の両親に宛てて書かれている。
 差出人欄を見ると「曹長」と書かれている。直前の葉書から2か月近くが経過した間に、ロンバールは軍曹から昇進していたことがわかる。
 宛名欄が空欄になっているが、これは本文を読むとわかるように、写真と一緒に封筒に入れて送られたため。

1916年5月25日

1916年5月25日

〔差出人〕
名:ロンバール
階級:曹長
連隊:砲兵第19連隊
中隊:第3大隊
郵便区:130

〔本文〕
  1916年5月25日
 親愛なる義理のご両親へ
 ルイーズからお聞きになったと思いますが、私たちは少し前に場所を移動しました。区域は同じです(*1)。以前よりも 6 km 後方の小ざっぱりとした村にいます。そのため、砲撃の轟音もはっきりとは聞こえません。
 先週いた城塞で写した写真をお送りします。私がこの参謀部(*2)の真ん中に写っているのがおわかりになると思います。
 ソルビエが休暇でそちらに伺うと思います。ソルビエとはしばらく会っていませんが、私のいる場所などを説明してくれるでしょう。
 お二人を強く抱きしめます。

(*1)1916年4月下旬頃、ロンバールの所属する野戦砲兵第19連隊は、大聖堂のあるランス Reims 戦区から、その近郊のテシー Taissy 戦区に移動していた。「区域は同じです」というのは郵便区が同じということらしい。
(*2)ここでは大隊の指揮官を補佐する「参謀部」を指すと思われる。



ヴェルダンへの移動

 1916年6月、ロンバールの所属する野戦砲兵第19連隊は、ランス近郊を離れ、再びヴェルダン近郊に移動する。『野戦砲兵第19連隊史』には、同連隊がしばらく離れていた間にヴェルダン周辺が大きく様変わりしていたことが記されている。

  • 「この連隊が一年ほど離れていた地を偵察した結果、激しい戦闘で生じる激変によって、どれほど土地が様変わりしうるのかということが明らかとなった。もはや森はなく、植物もなかった。鐘塔の尖塔が誇らしくそびえる村のあった場所では、瓦礫の山が残す白っぽい色しか風景の中に残っていなかった。」(p.16)

 森や植物が消えていたというのだから、砲撃の凄まじさがしのばれる。

 こうして、同連隊は第一次世界大戦最大の激戦として記憶されるヴェルダンの戦いに参加することになる。両陣営で壮絶な大砲の撃ちあいが行われ、砲兵隊はほとんど休む暇もなかったはずである。



1916年7月21日(32通目)-少尉に昇進

 直前の葉書から2か月経ったこの葉書では、少し前に曹長に昇進していたロンバールが今度は少尉に昇進したことが書かれている。曹長は「下士官」だが、少尉は「将校」に属する。

 通常、昇進が行われるのは前任者が戦死した場合、または負傷して野戦病院に後送された場合に、欠員を埋めるために行われる。昇進したということは、死傷者が出て部隊の構成が変化したということであり、それだけ戦闘が激しかったことを物語っているともいえる。

 次の葉書からは、ある程度死を覚悟したような感じも伝わってくる。

1916年7月21日

1916年7月21日

〔差出人〕
名:ロンバール
階級:少尉
連隊:砲兵第19連隊
中隊:第3大隊
郵便区:130

〔本文〕
  1916年7月21日
 親愛なる義理のご両親へ
 ご無沙汰しておりますが、これ以上お便りを差し上げないでいるわけには参りません。私の健康がまったく問題ないことをお伝えするために。そしてまた、私が将校の肩章をつけることになったことをお知らせするために。
 このたび私は連隊の少尉を拝命し、第3大隊の誘導将校(*1)の職務も受け持つことになりました。
 私がどれほどうれしいか、容易にご想像いただけると思います。とくに子供たちとルイーズにとっては、これで未来が保証されたも同然ですから。たとえ私に万が一の不幸があっても(*2)。でも、そんなことを考えるのはやめましょう。
 エヴェック家、モーラン家、ウズビー家、

〔垂直方向の余白〕
ダルヴェルニ家、デュラン家、リヴィエール家など、要するに私の知っているすべての人々によろしくお伝えください。
 お二人のことを強く抱きしめます。
(サイン)

(*1)「誘導将校」と訳した officier orienteur は定訳がない(orienteur は「方向づける、誘導(嚮導)する」などの意味)。砲兵隊の陣地の選択、観測兵の配置、観測兵の間での連絡確保、砲兵隊への敵の奇襲を防ぐための斥候の派遣など、砲撃を効果的に行うための幅広い任務の指揮にあたった。
(*2)将校になると、戦闘で死亡した場合、より多額の遺族年金が給付されたらしい。



1916年8月1日(33通目)-地面が揺れる名誉ある区域で

 差出人の所属する野戦砲兵第19連隊のいたヴェルダンでは、両陣営の間で壮絶な砲撃が続いていた。差出人は、これを「地面がたえまなく揺れている名誉ある区域」と呼んでいる。

1916年8月1日

1916年8月1日

〔本文〕
  1916年8月1日
 親愛なる義理のご両親へ
 ご両親の良い知らせについて、ルイーズから伺いました。これ以上お便りを差し上げないでいるわけにはいきません。繰り返しになりますが、あいかわらず私は非常に元気だとお伝えするために。
 最近まで雨が降り続いたのち、こんどは厳しい暑さに見舞われています(とはいえ、南仏出身の者にとっては、それほどでもありません)。戦うにはこちらの天気の方がはるかにましです(*1)。あいかわらず私たちは地面がたえまなく揺れている名誉ある区域にいるのですから。
 スュルさんやリヴィエールの奥さんなど、要するに私のことを気にかけてくれているすべての人々に、私からの感謝の気持ちをお伝えいただければ幸いです。エドモンには数日前、書いておきました。近いうちに返事をくれるはずです。彼の家族には私からの友情を、そしてシロル夫妻には敬意をお伝えください。夫妻のご子息のいる場所は知っているのですが、現在のところ会えないままでいます。

〔垂直方向の余白〕
 お二人のことを強く抱きしめます。
(サイン)

(*1)雨に濡れて泥だらけになるよりも、酷暑のほうがましだと言っているわけである。とくに砲兵隊は、雨が降ると大砲を移動させる場合に車輪がぬかるみにはまって難渋したらしい。



1916年10月24日(34通目)-母に宛てた最後の葉書 

 手元に残された34通のロンバールの葉書は、次の母に宛てた葉書で終わっている。

 偶然にも、最初の1通目と最後の34通目だけが母に宛てたものである。

 葉書の前半から、母親はロンバールからの手紙がなかなか届かずに気をもみ、自分のことを忘れてしまったのではないかと嘆くような手紙をロンバールに送っていたらしいことがわかる。

1916年10月24日

1916年10月24日

〔本文〕
 1916年10月24日
 愛するお母さんへ
 私の想像とは異なり、お母さんは苦しみ続けていたんですね。こんなに配達が遅れるとは、本当に驚いています。最初のほうに出した数通の手紙がここを出る時点で差し押さえられて開封されていなければよいのですが。中に入っている写真のせいで、非常に面倒なことになるでしょうから。
 それにしても理解できないのは、私がお母さんのことを忘れているのではないかと推測されていることです。そんなはずがありません。一週間お母さんたちと一緒にすごし、残念ながらあまりにも短い期間でしたが、休暇をとった他のどの兵士もしてくれないほどの歓待を受けたばかりだというのに(*1)。
 お母さんはオリーブの実を拾いに行くと言っていましたね。そう聞くと、食べたくなります。小さな箱に入れて送ってくれませんか(*2)。
 この葉書を書くのは遅い時間になりました。

〔垂直方向の余白〕
今夜、人が訪ねて来て、夜遅くまで夕食をしていたからです。来てくれた大尉は、これから墨を流したような真っ暗な夜の中を8 kmも進まなければならないから大変です。

〔上部の逆向きの書き込み〕
私の便りが届いたことを知らせる手紙を今か今かと待っています。
みんなを抱きしめるパパより
(サイン)

〔宛先〕
ガール県ソミエール郡
ヴィルヴィエイユ(*3)
L. ロンバール様

〔宛先の上の書き込み〕
写真に注意(*4)

(*1)前回の休暇は1916年3月下旬であったから、この「...したばかり」という書き方からして、この葉書の直前(9月あたり)に3回目の休暇を取ったものと推測される。
(*2)オリーブはイタリアやスペインが有名だが、フランスでも地中海に面した南仏では植えられている。
(*3)1通目では、母の住所は「ガール県ベルニ」改め「ガール県ニーム ジャカール通り4番地」となっていたが、そこからまた引っ越したらしい。ヴィルヴィエイユ Villevieille はニームの西30 kmほどにある小村。
(*4)この鉛筆による書き込みは、断定はできないが、ロンバール自身の筆跡に似ている。葉書と一緒に封筒に入れて送られた写真について書いたものなのか、よくわからない。





 ロンバールの34枚の葉書は、この1916年10月24日付の葉書で終わっている。

 差出人のその後の足取りは、この最後の葉書の末尾で触れられている「墨を流したような真っ暗な夜の中」に消えたまま、杳として知れない。

 ただ、ロンバールのファーストネームが不明なのでフランス国防省の戦死者データベースで調べることはできないが、『野戦砲兵第19連隊史』に掲載されている同連隊の戦死者リストには「ロンバール」という姓は見当たらないので、おそらく生きのびたのではないだろうか。





















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