「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

1914年の葉書(日付順)

1914年8月2日-チュニジアの音楽隊の出征

 次の葉書は、8月1日にフランスで総動員令が発せられた翌日に、フランス植民地だった北アフリカのチュニジアで音楽隊に所属する差出人が母親に送ったもの。第一次世界大戦では、フランス植民地だったアフリカからも多数の黒人兵士が徴集され、現地の軍服のままフランスにやってきた(特に、この写真に写っているような、だぼっとしたズボンが特徴的)。この葉書は、撮影した写真を直接葉書に現像して作られた「カルト・フォト」と呼ばれるもので、ここに写っているうちの誰かが差出人だと思われる。

1914年8月2日

1914年8月2日

 スース(*1)にて、1914年8月2日
 親愛なるお母さん
 きのうの夕方5時、総動員令が出たことを知りました。すぐに非常呼集がかかり、今朝、ドイツとの戦争が始まったことを知りました。戦争は長くは続かないと思います。こんな時なので、ペトリュスも出征したに違いありません。でもあまり心配しないでください。直接戦火を交えるわけではありませんので。とくに、音楽隊は担架兵になるのですから(*2)。我々は各現地人歩兵連隊の2つの大隊とともに、火曜の夜にアルジェ(*3)に向けて出発しなければなりません。連隊は12あるので、黒人の部隊は結構な人数になります(*4)。ボンナルデルも出征したに違いありません。もし彼の奥さんに会ったら、よろしく伝えてください。モンマルタンにも。彼は除隊しているので出征しませんから。出発したら、続いてリヨン(*5)を通る場合は電報を送りますから、駅に会いにきてください。みなさんによろしく。みなさんのことを心から抱きしめます。お母さんのことを愛する息子より クローデュイ

(*1)スース Sousse は当時フランス植民地だったチュニジアの地中海に面する港町。
(*2)大戦中は、音楽隊は、行進の太鼓をたたいたり突撃のらっぱを吹いたりするだけでなく、ここに書かれているように負傷した兵士の搬送をおこなう担架兵も兼任した。負傷者を運ぶと身軽な動きができなかったので、葉書の文面とは逆に、担架兵はむしろ危険な目にあうことも多かった。
(*3)アルジェは当時フランス植民地だったアルジェリアの地中海に面する港町で、チュニジアのスースから見て西側に位置する。アルジェと南仏マルセイユとの間には古くから航路が確立されていた。
(*4)1つの連隊には3千~4千人の兵がいた。ちなみに、第一次大戦全体では、北アフリカ(アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど)からは合計21万人、西アフリカのセネガル周辺からは13万人、マダガスカルとインドシナからは8万人がフランス軍のために徴集された。
(*5)リヨンは絹織物産業の中心地として知られるフランス南部の都市で、ここに差出人の母親が住んでいたことがわかる。要するに、差出人の部隊は、チュニジアのスース→アルジェリアのアルジェ→おそらくマルセイユ→リヨンという経路で戦地に向かったものと思われる。

なお、開戦前後の出来事は以下のとおり。

  • 7/28(水)オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告
  • 7/30(木)ロシアで総動員令
  • 8/1(土)フランスとイギリスで総動員令、ドイツがロシアに宣戦布告
  • 8/2(日)ドイツがベルギーに自由通過を要求する最後通牒を送る
  • 8/3(月)ドイツがフランスに宣戦布告
  • 8/4(火)イギリスがドイツに宣戦布告



1914年8月5日-総動員令当日の人々の動揺

 次の葉書は、フランスで総動員令が発せられた8月1日(土曜)の4日後に、フランス南西部の村に住む若い女性が親戚または親しい知人の女性に書き送ったもの。
 1914年8月1日の夕方、総動員令を知らせる早鐘がフランス全土の街や村で一斉に鳴り響いた。早鐘の鳴った時刻は、当時の記録を見ると午後4時~5時頃としているものが多く、地域によって差があったようだが、この葉書では「6時頃」となっている。かなり長い間、鳴り続いたらしい。
 この早鐘を聞いて総動員令の知らせを受けたときの人々の激しい動揺が生々しい臨場感をもって描かれている。

1914年8月5日

1914年8月5日

〔本文〕
   14年8月5日夜10時
親愛なるミロへ
こんどは私が自問する番です、この葉書は本当にあなたのもとに届くのでしょうか、と。でも、あなたの昨晩の葉書は今朝10時に同じ郵便配達人が運んできてくれました。だから希望を持ちましょう。日曜はお便りを差しあげませんでした。その前日に葉書を出しても絶対に届かないだろうと確信していたからです。少なくとも私たちの村では、まさに大騒ぎの最中だったからです(*1)。私は1時に無事帰宅しました。ラヴァル村(*2)は陰うつでした! 雲が浮いていましたが、今でもその印象を覚えています。胸が締めつけられる思いでさまよい出て、みなさんに安心してもらうために急いで郵便局に行きました。サン=ジェルマンに戻り、最初の数時間はまだはっきりしたことは何もわからず、とくに悪い知らせもなく、希望を持ちはじめていました……しかしご存知のように、生涯忘れることのない瞬間がやって来ました。6時頃、自動車の音がして、サン=ジェルマンの若い男が青ざめて憔悴しきって私たちに叫びました。「早く、早く、フォルタンさんは村役場へ。戦争が始まったぞ!」それは正確な表現ではありませんでしたが、彼らにとって総動員は戦争と同義語なのです。この言葉がどのような効果と嘆きを生んだか、お察しください。いつもとは違うラヴァル村の早鐘の音が鳴り、それに混じってママも小作女も、うめき声を上げていました。みな、おいおいと泣くものだから、かえって私はまったく泣く気にならず、この時は一粒の涙も流しませんでした。しかしその1分後、2台の自動車が疾風のごとくに立ち去ったのを見て、はじめて怒りと狂気と絶望の感情がこみ上げてきました。男たちが全員呼び集められているというのに、腕をこまねいて見ているしかないとは! ああ、私はどれほど女に生まれたことを呪ったことでしょう!! 完全に気がのぼせているなかで、これが私の唯一の考えでした。空気が重く陰気なものに変わり、よくわからない恐ろしい不安で息づまる思いでした。それ以来、同じ悪夢が何日か続きましたが、やっと少し気を取りなおしました。みな同じだと思いますが、夢を見ている思いです。私も新聞記事を追いかけていますが、「明日の戦争」に圧倒されています。こちらの村は、何とみじめなことでしょう、男は一人もおらず、馬もほとんどいなくなりました。今朝、やっと父から日曜の手紙が届き、出征の命令を待っているところだそうですが、どこへ向かうのでしょう。おそろしいことです。ほかに誰がそうなのか、はっきりしたことは何もわかりません。できたらお便りをください。みなさんにキスを。

〔写真説明〕
「フランスの城」
ヴィズィーユ(イゼール県)(*3)

〔消印〕
14年8月6日
(局名判読難)(*4)

(*1)以下で8月1日(土曜)の総動員令当日のようすが描写されている。
(*2)ラヴァル村 Laval はイタリアとスイスに近いフランス南西部イゼール県グルノーブルの近郊にある人口800人弱(当時)の村。本文の他の箇所に出てくる「サン=ジェルマン」は、この村の小さな区域を示す俗称か。
(*3)ヴィズィーユ Vizille はグルノーブル近郊にある村。差出人の住むラヴァル村に近いので、この葉書が選ばれたのだと思われる。
(*4)この葉書には宛名と住所が書かれていないのに、切手が貼られ消印が捺されている(つまり配達されている)。これは、右上部分に穴のあいた特殊な封筒に入れて葉書が送られたためと推定される。20世紀初頭には、葉書が他人に読まれるのを防ぐために、切手を貼った葉書を、消印を捺すための穴のあいた封筒に入れて送ることがよくあった。この場合、宛名と住所は葉書ではなく封筒に書かれ、葉書に捺された消印は端が切れているのが特徴。封筒は捨てられてしまうことが多い。



1914年8月5日-開戦直後のようす

 次の葉書は、宛先と住所だけ筆跡の異なる達筆のペンで書かれている。おそらく、戦争に行く息子に親があらかじめ宛先だけ記入しておいた葉書をたくさん持たせ、頻繁に近況を送るように言い含めておいたのだと思われる。
 本来なら、つい2日前に出された1914年8月3日の政令(デクレ)により、兵士が出す手紙(および兵士に宛てた手紙)は郵便料金が無料になっていたので、この兵士は切手を貼らずに出すことができたはずである。おそらく、親が気を利かせて葉書に切手も貼って持たせてやったものと推測することができる(ちなみに、このように両面にまたがるようにして折って貼る切手の貼り方は、二十世紀初頭の葉書に比較的よく見られる)。

1914年8月5日

1914年8月5日

〔本文〕
ロークール(ムーズ県)(*1)
水曜、正午
1914年8月5日
我々は行進中です。
ルクセンブルクまたはベルギーに向かっています。
万事快調です。
敬具
シモン

〔消印〕(裏表同一)
8月6日アルデンヌ県ロークール

〔写真説明〕
ヴォードゥマンジュ(*2)(マルヌ県)- 村役場と学校

〔写真面への書き込み〕
ここで先週の金曜~土曜(*3)に馬を調達しました

〔宛先〕
ノール県リール(*4)
ソルフェリーノ通り
アンリ・ドゥフレンヌ様

(*1)ロークール Raucourt という地名は複数あるので、差出人はムーズ県のロークールだと断り書きのように書き込んでいるが、ムーズ県にはロークールという地名は存在しない。消印が「アルデンヌ県ロークール」となっているので、正しくはムーズ県の隣のアルデンヌ県ロークールだと思われる。アルデンヌ県はフランス北東部にあり、ベルギーと国境を接している。
(*2)ヴォードゥマンジュ Vaudemange はアルデンヌ県の南隣のマルヌ県にある人口200人程度(当時)の村。
(*3)この葉書が書かれた8月5日(水)から見て、「先週の金曜~土曜」とは7月31日~8月1日を指す。フランスで総動員令が発せられたのは8月1日なので、それ以前に差出人の部隊は移動中で、7月31日頃にマルヌ県ヴォードゥマンジュで馬を調達してから北進し、8月5日にはアルデンヌ県ロークールに来ていた(そしてルクセンブルクまたはベルギーに向かっていた)ことがわかる。
(*4)ノール Nord 県はフランス最北端にある県で、やはりベルギーと国境を接している。リールは県庁所在地。



1914年8月17日-前線に赴く兵士のすがすがしい言葉

 次の葉書は、戦争勃発の約2週間後、南仏ニースの隣町にいて、これから前線に赴こうとしている兵士が両親に宛てて書いたもの。
 郵便料金免除で出すこともできたはずだが、そうせずに切手を貼って民間の郵便箱に投函している。
 「私については心配しないでください。善良なるフランス人としての義務を、勇気をもって果たすつもりです」という言葉は、死の危険を前にしながら、恐れや不安を振り払ったような、すがすがしい響きを持つ。

1914年8月17日

1914年8月17日

〔写真説明〕
ニース、マセナ広場と市営カジノ(*1)

〔消印〕
14年8月19日
アルプ=マリティーム県
ヴィルフランシュ=スュール=メール(*2)

〔写真面右上の書き込み〕
ジャン・ガルチエ、アルプス猟兵第64大隊第10中隊、ヴィルフランシュ=スュール=メールにて、軍事郵便

〔本文〕
ヴィルフランシュ=スュール=メールにて、14年8月17日
  親愛なるご両親
 心のこもったお手紙、ありがとうございます。皆さんが全員お元気だと知り、喜んでいます。私も元気です。シャバリエとパリも、うまくやっているという知らせを受け取っています。二人とも、今後もうまく切り抜けていくでしょう。
 お仕事が大変になるでしょうが、しかたありません、「戦争時には戦争時のように」(*3)ですから。
 我々は、まもなくここから出発することになりますが、どこに向かうのかはわかりません(*4)。私については心配しないでください。私は善良なる

〔住所欄の上下の余白〕
フランス人としての義務を、勇気をもって果たすつもりです。すべてがうまくいき、いつか家族全員で幸せに再開できることを希望しましょう。その幸せな日を心待ちにしつつ、皆さんを強く抱きしめます。ジャン・ガルチエ

〔宛先〕
ロゼール県シャトーナフ(*5)近郊ヴィルヌーヴ
アントワーヌ・サペ御夫妻

(*1)この絵葉書に写っているのは、地中海に面する南仏の保養地ニースの中心部マセナ広場にあった市営カジノ。現在では取り壊されている。
(*2)ヴィルフランシュ=スュール=メール Villefranche-sur-Mer はニースに隣接する街。差出人の所属するアルプス猟兵第64大隊はこの街で結成された。
(*3)「戦争時には戦争時のように」À la guerre comme à la guerre. は、「戦争時や非常事態では少々の不便も耐えるしかない」という意味の
(*4)当時、部隊がどこに向かうのかは、軍事機密として、部隊の指揮官とその側近のみが知りうる情報として、将校クラスを含むかなり階級の高い者にも知らされなかった。
(*5)シャトーナフ Châteauneuf は南仏ロゼール Lozère 県にある人口700人程度(当時)の村シャトーナフ=ド=ランドン Châteauneuf-de-Randon を指すと思われる。ヴィルヌーヴ Villeneuve は「新町」を意味する平凡な地名なので、各地に存在する。

 しかし、この文面は、なんとなく遺書のような響きを持っている気がしないだろうか。変な予感がして、フランス国防省の戦死者データベースで調べてみた。それによると、ジャン・ガルチエ Jean Galtier というのはありふれた名前らしく、第一次世界大戦で死亡した同姓同名の「ジャン・ガルチエ」が11人もいる。その中に、「アルプス猟兵第64大隊」所属で「ロゼール県出身」の「ジャン=ジョゼフ・ガルチエ」Jean-Joseph Galtier という人を見つけてしまった。おそらく、この葉書を書いた本人だと思われる。この葉書から約1か月経過した1914年9月20日、北仏エーヌ県ヴァングレで戦死している。上等兵で、26才だった。



1914年8月18日-奪還したアルザスの住民の反応

 次の葉書は、開戦の2週間後、アルザス南部に攻め入り、この地域最大の都市ミュルーズの攻撃を翌日に控えたフランス兵士が両親に書き送ったもの。
 フランスの公式な(プロパガンダ的な)見方によれば、普仏戦争の結果無理やりドイツに併合されていたアルザスをフランス軍が奪還すれば、アルザスの住民はドイツから解放されて喜び、フランス軍に感謝する……はずだった。もちろん、その図式どおりにフランス軍がアルザスの住民に歓迎された場合も多かったが、この葉書の最後の部分を読むと、感謝や歓迎どころか、実際には不信感や敵対心を抱かれていた場合もあったことがわかり、少し衝撃を受ける。
 実際、普仏戦争から40年以上が経過し、アルザスに残った人々はある程度ドイツを受け入れていたらしい。また、あまりフランス軍を歓迎すると、逆に今度ドイツ軍がやって来たときに「裏切者」のレッテルを貼られて処刑されるケースもあったらしいので、あまり熱烈な歓迎の態度を示せなかったという事情も考えられる。いずれにせよ、独仏のはざまで翻弄されたアルザスの人々の感情は、そう一筋縄では捉えられないのかもしれない。

1914年8月18日

1914年8月18日

〔写真説明〕
オーバーエルザス県(*1)マンスバッハ(*2)からご挨拶
王冠食堂
(D.カイザー未亡人)

〔本文〕
  マンスバッハにて、1914年8月18日
   親愛なるご両親
 現在、私たちはマンスバッハにいます。私はこの葉書に写っている建物に住んでいます。ここはドイツ領で、明日私たちが行く予定のアルトキルシュ(*3)から数km離れたところです。ミュルーズ(*4)がドイツ軍に奪還されました。明日、ドイツ軍に攻撃を加えるつもりです。こちらは地域全体が荒れ果て、建物は焼き払われ、砲撃によってあとかたもなくなっています。きのう私たちがいたブルボット(*5)の近くで戦闘があり、フランス軍は死者150人、ドイツ軍は死者800人を出しました。ここの人々は私たちのことを疑わしそうな目で見ており、ガキどもは通りすがりに握りこぶしを作ってみせます。
 私は元気です。皆さんもお元気だと思います。皆さん全員にキスをします。
  サイン(レオン)

(*1)「オーバーエルザス県」(フランス語では「オー=ラン県」)はアルザス地方の南半分にあたる地域で、1870年の普仏戦争の結果、ドイツに併合されていた。この絵葉書は、戦争が始まる以前に発行された絵葉書なので、このようにドイツ語で書かれている。
(*2)マンスバッハ Mansbach はドイツ語の呼び名で、フランス語ではマンスパッハ Manspach(「バ」ba ではなく「パ」pa)と呼ばれるが、差出人は絵葉書の写真説明につられてドイツ語風に「マンスバッハ」と書いている。マンスパッハはアルザス南部の人口約400人(当時)の村で、この絵葉書に写っているのは、この村で最初の自動車らしい。
(*3)アルトキルシュ Altkirch はマンスパッハの数km東にある人口3千人台(当時)の街。開戦直後の1914年8月7日にフランス軍が攻め入ってきたことを記念し、「8月7日通り」という名の通りが現存する。しかし、8月下旬以降は再びドイツ軍の支配下に置かれた。
(*4)ミュルーズ Mulhouse はアルザス南部随一の規模を誇る人口9万人台(当時)の都市で、ヨーロッパ屈指の産業の中心地として「フランスのマンチェスター」とも呼ばれていた。開戦直後の1914年8月8日にフランス軍が占領したが、2日後の10日にドイツ軍が奪い返していた。8月18日付のこの葉書に「明日、ドイツ軍に攻撃を加えるつもりです」と書かれているとおり、翌19日に再びフランス軍が攻撃を加えてミュルーズを奪還するが、25日には再びドイツ軍に奪い返され、戦争終了までドイツ軍の支配下に置かれた。
(*5)ブルボット Brebotte は、差出人のいるマンスパッハと、フランス軍の前線基地の役割を果たしていたベルフォールとの中間あたりにある村。



1914年8月21日-村役場にはためく三色旗

 次の葉書は、開戦から2週間が経過した頃、ドイツ領だったアルザスのダンヌマリーの村を制圧したフランス軍に混じっていたフランス兵が、この村の西隣のモンベリアールに住む母親に宛てて送ったもの。
 1870年の普仏戦争では、プロイセン軍がアルザスを越えて母親の住むモンベリアールまで攻めてきた。今回の戦争では、その「お返し」をすることに成功した、というようなことが書かれている。ただし、ライン河を渡って本来のドイツ領にまで攻めていかなければ本当に「お返し」をしたことにはならない、ということも書かれている。

1914年8月21日

1914年8月21日

〔写真左上のドイツ語の説明〕
オーバーエルザス県ダンマーキルヒ(*1)からご挨拶

〔宛名〕
モンベリアール(ドゥー県)
グランジュ通り65番地
トゥーロ様方
デュボワ様

〔本文〕
ダンヌマリーにて、1914年8月21日
  お母様
 フランスの国旗(1870年以来ここで保管されていた国旗)が村役場のバルコニーにひるがえっており、通りはフランス軍の部隊であふれかえっています。私も赤いズボン(*2)をはいて、ここにいます。奴らは70年と71年にお母様のいるところにやって来ましたが、私は奴らにそのお返しをしてやったわけです。しかし、本当にお返しをするには、ライン河の向こう側に行く必要があります。
 皆さんに愛情のこもったキスを。(サイン)

〔大きな紫の印〕
ベルフォール軍事病院
院長(*3)

〔到着印〕
ドゥー県
14年8月31?日

(*1)この絵葉書は、戦争が始まる前、まだダンヌマリーがドイツ領だった頃に発行された絵葉書なので、葉書の写真説明にはオー=ラン県の代わりにドイツ語で「オーバーエルザス県」、ダンヌマリーの代わりにドイツ語名で「ダンマーキルヒ」と印刷されている。ダンヌマリー Dannemarie は人口1,100人台(当時)の村。
(*2)大戦初期にはフランス軍の軍服のズボンは赤だった。この後、目立ちすぎるということで、全身くすんだブルーに切り替わることになる。
(*3)こうした病院の印は、通常、臨時病院にいる負傷兵や病兵が差し出す葉書に押される。しかし、この文面には怪我のことなどは書かれていないので、おそらく差出人はこの病院に関係する衛生兵だったのかもしれない。

 さて、この葉書をよく見ると、本文と同じ水色のペンで、村役場のバルコニーのところに旗が描き込まれている。

1914年8月21日



1914年8月25日-フランス軍の敗退で浮足立つ市民

 開戦から2週間以上が経過した8月下旬、ドイツ軍はベルギーの大半を制圧する勢いを見せ、さらにフランス領内に攻め入ろうとしていた。この頃の戦いを総称して「国境の戦い」と呼ぶが、そのうちの一つ「シャルルロワの戦い」が8月21日~23日にベルギー南西部でおこなわれ、フランス軍が敗北、8月24日には司令官が退却命令を出した。次の葉書は、その翌日に書かれている。
 差出人は、戦線からは相当離れたパリの北東70 kmにあるコンピエーニュにいたが、ドイツ軍の進撃の情報に接し、緊迫しているようすがよく伝わってくる。差出人の性別は不明だが、男性と見なして訳した。

1914年8月25日

1914年8月25日

〔写真説明〕
コンピエーニュ - 公園の植物のトンネル

〔本文〕
親愛なるエミールよ、ここに留まっているのは不可能だ。ニュースは安心できるようなものではまったくない。たったいま、北のほうがまずいと聞いた。負傷兵を乗せた列車がたくさんやって来ている。ルーアン(*1)のほうに行こう。シャルルロワからもケノワ(*2)からも人々が避難している。君にキスを送る。それでは。
   サイン(H. ルペンヌ)

〔宛先〕
バス=ピレネー県
ビアリッツ(*3)
局留め
エミール・デマジエール様

〔差出局の消印〕
オワーズ県コンピエーニュ
14年8月25日

〔配達局の消印〕
バス=ピレネー県ビアリッツ
14年8月31日(?)

〔切手の右に貼られたヴィニェット〕
フランス負傷兵救護協会(*4)
パリ マティニョン通り19番地

(*1)ルーアン Rouen はパリから見てセーヌ川の下流。さらに下流の英仏海峡に面するル・アーヴルまで行けば、イギリスに渡ることも、客船で大西洋に出てボルドーやビアリッツなどに逃れることもできた。
(*2)シャルルロワ Charleroi はフランスに近いベルギー南西部の都市。ケノワ Quesnoy という地名は複数あるが、ここはシャルルロワの西約60 km、フランス領内のノール県にあるル・ケノワ Le Quesnoy を指すと思われる。
(*3)ビアリッツ Biarritz はスペイン国境に近いフランス南西部、大西洋に面する海水浴場のある保養地。住所が「局留め」になっているところを見ると、もともとここに住んでいたのではなく、差出人よりも一歩先に避難し、ホテルなどに滞在していたのではないかと推測される。
(*4)フランス赤十字の母体となった団体。



1914年9月6~8日-マルヌ会戦と同時期に破壊された城

 開戦から1か月が経過した1914年9月6日~9日、すでにベルギーを通過してフランスに攻め込んでいたドイツ軍と連合国軍との間で「マルヌ会戦」がおこなわれた。その名のもとになったマルヌ川は、フランス北東部シャンパーニュ地方に水源をもち、北西方向に流れてから、大聖堂で有名なランスの南方で西に向きを変え、パリ付近でセーヌ川に合流している。マルヌ川の周囲には湿地帯もあり、パリに攻めてくるドイツ軍に対する自然の要塞となっていた。
 次の葉書は、このマルヌ会戦がおこなわれたのと同じ時期、主戦場からは離れたナンシー近郊の村で、昔からあった城がドイツ軍の砲撃によって破壊されたようすを、差出人みずから(またはその同僚や友人などが)写真に撮影し、この葉書用紙に直接現像して、文章を書き込んだもの(カルト・フォト)。封筒に入れて送られている。

1914年9月6~8日

1914年9月6~8日

〔写真面の余白〕
1914年9月6、7、8日のドイツ軍による砲撃後の
ナンシー近郊アロクール(*1)の城の正面壁の残骸

〔通信欄〕
この封建時代の古い城は、ケスレール氏が所有しているものですが、ヴァンダル族(*2)どもがひっかき回した結果が、ご覧のありさまです。
壁の基部は厚さが2メートルもあります。
   サイン

〔宛名〕
ソ=ネ=ロワール県
シャロン=スュール=ソーヌ
ヴァランタン奥様

(*1)アロクール Haraucourt という地名は数か所にあるが、ここではロレーヌ地方ムール=テ=モゼル Meurthe-et-Moselle 県の県庁所在地ナンシー Nancy の東隣にある人口700人台(当時)の村を指す。マルヌ会戦の主戦場からは100 kmほど東に位置する。このときのドイツ軍の砲撃により、写真の城だけでなく、教会を含むアロクール村の大多数の建物が瓦礫の山と化した。
(*2)ヴァンダル族は、古代末期(5世紀)にゲルマニア(ドイツ)方面からガリア(フランス)やローマに侵入した民族。破壊や略奪をして荒らしまわる野蛮な者というイメージが定着している。

 さいわい、マルヌ会戦は連合国側の勝利に終わり、ドイツ軍は退却した。上の写真が撮影された地域を含むナンシー付近も、戦争終結までフランス軍の支配下に置かれ続けた(もしドイツ軍に占領されていたとしたら、このように自由に写真を撮影して郵便でフランスの知人や家族に送ったりはできなかったはずである)。



1914年9月11日-ドイツ軍がパリに攻めてくる恐怖

 第一次大戦の開戦直後はドイツ軍が進撃を続け、このままではパリに到達する可能性があったため、9月2日、フランス政府はパリから避難することを決定、フランス南西部ボルドーに移った。主に上流階級に属する50万人近いパリ市民もパリを脱出した。幸い、9月6日~9日を中心に行われた「マルヌ会戦」によってフランス軍がドイツ軍を押し戻し、パリが占領されることはなかった。
 次の葉書は、マルヌ会戦によってドイツ軍が退却した直後に、パリ郊外に住んでいた女性がイギリスに住む妹(または姉)に宛てて差し出したもの。ドイツ軍がパリに攻めてくるのではないかという恐怖について書かれている。

1914年9月11日

1914年9月11日

〔本文〕
親愛なるネネットへ あなたとマリアおばさんが元気で、そちらで落ち着いて生活していると知ってうれしく思っています。ここ数日、私たちはドイツ軍がパリにやってくるのではないかと、とても恐れていました。幸い、やってきていませんが、ドイツ軍が近づこうとした場合に備え、どれほどの準備をしていることか。そうならないことを願いましょう。私たちは仕事もなく、もう十分に不幸なのですから。こんなことが続いたら、どうなるかわかりません。ウィリーと私は両親の家にいますが、時間がとても長く感じられます。イギリスには仕事はありますか? こんな時期なので、何でもしようと思っているのですが。アルジェに着いたジョルジュから葉書をもらいました。とても美しいところだそうです。
最後に、親愛なるネネット、家にいるみながあなたを強く抱きしめるとともに、マリアおばさんによろしくと言っています。現在のところ、こちらは同じ状況が続いていますので、まずまずといったところです。希望を持ちましょう。あなたのことを愛する姉〔妹〕より ジャンヌ

〔宛先〕
イギリス
ホーヴ(*1)
ウェストボーン通り5番地
ベル様方
マルセル様

〔消印〕
アニエール=シュール=セーヌ
14年9月11日(*2)

(*1)ホーヴHoveはイギリスの南端にある、英仏海峡に面した港町。
(*2)アニエール=シュール=セーヌAsnières-sur-Seineはパリの北西に広がる地区。
 なお、もともと葉書の右上の隅に切手が(一部裏面にまたがるように折って)貼られていて、切手好きの人によって剥がされたと思われる。

 関連する電報:
 1914年9月4日-疎開先から打たれた電報



1914年9月14日-降りそそぐ砲弾のもとでの奇跡

 次の葉書は、第一次世界大戦のその後の方向性を決定づけた「マルヌ会戦」の直後の時期に、おそらく担架兵または衛生兵だった兵士が記したもの。写真の左脇に「大切に保存すること」と書き込まれているので、家族に宛てて封筒に入れて送られたものと想像される。
 教会に負傷兵を運び入れて救護にあたり、たえまなく砲弾の降りそそぐ中、無傷でいられたのは神の御加護があったからだと感じたらしく、これを「奇跡」と呼び、「わが従軍のもっとも美しい思い出」と呼んでいる。
 美しい思い出にふさわしい、美しい字体で書かれている。

1914年9月14日

1914年9月14日

〔写真の左側〕
大切に保存すること

〔写真の右側〕
わが従軍のもっとも美しい思い出
1914年9月14日のドイツ軍による砲撃
クローデュイ

〔本文〕
 1914年9月13日、この教会は救護所となった。13日から14日にかけての夜を通じて、我々は負傷兵を運ぶ。14日朝、献身的に負傷兵の世話をしている間も、たえまなくドイツ軍の砲弾が降りそそぐ。奇跡。一つの砲弾も貫通しなかった。我々は救われた。日が暮れてから負傷兵の後送が可能になった。(*1)

(*1)この葉書は、撮影した写真を葉書に直接焼き付けた「カルト・フォト」と呼ばれるものなので、写真説明がなく、地名や教会名が書かれていない。しかし、たまたまこれと同じ写真を引き伸ばして市販向けの絵葉書が作られたことから、パリの北東80 km程度(ソワソンの近く)にあるピカルディー地方エーヌ県のフォントノワ村 Fontenoy のサン=レミ Saint-Rémi 教会を写したものであることがわかる。フォントノワ村は、9月1日からドイツ軍に占領されていたが、9月6日~9日を中心におこなわれたマルヌ会戦の直後、まさにこの葉書に日付が記されている9月13日にフランス軍が奪還した(Cf. Cochet/Porte, s.v. Fontenoy)。このサン=レミ教会は、その後の戦いによってさらに完全に破壊され、文字どおり瓦礫の山と化し、戦後になってから再建された。



1914年9月18 / 23日-戦闘を挟んで書かれた葉書

 次の葉書は、ある兵士が黒い万年筆で戦友に出す文章を数行書きかけた時点で、号令が下って戦闘を行い、その間に右腕を負傷し、5日後に戦闘が終わってから、紫の鉛筆で続きを書いている。

1914年9月18 / 23日

1914年9月18 / 23日

〔本文〕
1914年9月18日
 親愛なるエドモンへ
 たったいま、大喜びで君の8月27日の手紙を受けとった。すぐ近くにいるのに、宛先に届くまでの時間は無線(トン・ツー・トン・トン)には及ばないね。そうであってほしいと言ってくれていたとおり、ぼくの健康はまったく問題ない。〔ここから紫の字に変わる〕1914年9月23日 手紙を続けることができなかった。あれからただちに出発したから。5日間、戦ってきたところだ。まあ、なんとかなっている。とても大変だった。ひどい天気だったからね。48時間、雨に濡れっぱなしだった。ひとつ知らせたいことがあるんだが、誰にも言わないでくれよ。じつは、9月21日に負傷したんだ。右腕の上腕部に弾が当たった。本当にたいしたことはないが、トゥールのバウツェン(*1)の病院に運びこまれている。特にパリには何も書かないでくれ。何も言いたくないんだ、ジェルメーヌが心配するから(*2)。たいした怪我ではないだけに、なおさらね。右手はかなり使えて字も書ける。君はあい変わらず元気であることを願っている。いまのところ、ぼくは心配していない。ぼくは〔判読不能〕のように世話してもらっていて、ベッドもわら束より快適だ。〔判読不能〕握手を送る。サイン

〔消印〕
...23日
ムール=テ=モゼル県

〔宛名〕
上等兵エドモン・ヘルベット様
野戦病院第7棟
第20軍団(*3)

(*1)トゥール Toul はドイツとの国境に近いロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県にある人口1万5千人前後の都市。トゥールには「バウツェン兵舎」があり、ここを臨時病院に転用していたと思われる。
(*2)おそらくジェルメーヌは妻の名前ではないかと想像される。パリにいたらしい。負傷後、心配するから妻には言わないでくれと書かれた手紙は、他にも見かける。
(*3)第20軍団も当時は同じムール=テ=モゼル県に展開していた。なお、「軍団」は約4万人で構成される大きな単位。



1914年9月27日-ドイツ軍に意図的に放火された家々

 次の葉書の写真は、パリの北40 kmにあるオワーズ県サンリス Senlis の街の破壊されたようすを撮影したもの。サンリスの街は、開戦の1か月後の9月2日、ドイツ軍が侵入して占領した。このとき、抵抗を試みたとしてサンリス市長以下数名の人質が見せしめに銃殺され、街の建物も徹底的に破壊さた(占領下の「告示」が実行される形となった)。しかし、わずか数日後におこなわれたマルヌ会戦によって、フランス軍が取り戻し、以後はドイツ軍が攻めてくることはなかった。この写真は、ドイツ軍が退却して一段落した頃に撮影されたもので、写真が葉書用紙に直接現像された、いわゆるカルト・フォトである。
 差出人の名は不明だが、文面と字体から、教養のある女性だと思われる。おそらく結婚してサンリスの近くに住んでいて、実家の両親・きょうだいに送ったのだろう。
 通信文の末尾には、あるべき名前またはサインが記されておらず、文面も途中で終わっている印象を受ける。おそらく2枚またはそれ以上のセットで封筒に入れて送られたうちの1枚目ではないかと思われる。

1914年9月27日

1914年9月27日

〔本文〕
 親愛なるご両親、きょうだいの皆さん
 私たちがサンリスに見に行ったら、ご覧のようなありさまでした。目抜き通りのレピュブリック通りは、距離が1 km近くありますが、まだ崩れていない建物は数えるほどしかありません。壁だけが残っています。瓦礫に囲まれて、もう天井もなく、床もなく、すべて崩れ落ちています。この原因となった火事は、砲弾によるものではなく、意図的に建物の中に投げこまれた手榴弾によるものです。あちらこちらで、黒こげになった遺体が残されたままになっています。傾いた建材の間から、曲がった針金やミシンなどが見えます。駅舎は4つの壁しか残っていません。でも、こうした廃墟の眺め以上に動揺させられたのは、ひっきりなしに遠くから聞こえていた大砲のたえまないうなり声でした。また、街の一番外れにある近くの畑では、フランス人の墓とドイツ人の墓をいくつか見ました。フランス人の墓は花で覆われていました。

〔宛先〕
サルト県
ラ・シャペル=ユオン
デエ様

〔日付印〕
オワーズ県サンリス
14年9月27日(*1)

(*1)この葉書は、一般市民どうしのやり取りだから、郵便料金免除の対象ではない。それなのに切手が貼っていないということは、封筒に入れて送られたはずである。封筒に入れられた葉書に、なぜ、どのような経緯で日付印が捺されたのかは不明だが、一つの可能性としては、封筒に入れる前に、郵便局の窓口で一種のコンプレザンス印として特別に捺してもらったとも考えられる。そういえば、この印は非常に珍しいもので、日付を示す「27 9」の上に、本来なら記されるべき取集時刻が円弧状に黒く塗りつぶされている。これは、ドイツ軍の再度の侵略を想定し、わざと情報量を少なくするためにサンリスの郵便局が細工した、この時期だけに見られる臨時印らしい(Cf. Strowski, p.250)



1914年10月2日-マルヌ会戦後に見かけた負傷兵の集団

 次の葉書では、マルヌ会戦で負傷して後方の病院に列車で後送されるフランス兵の集団を、オルレアンのオーブレ駅で目撃したことが書かれている。
 差出人ジョゼフ(愛称ピュジョ)はある程度年配の男性で、残されている他の葉書から、後方勤務をしていたことがわかる。

1914年10月2日

1914年10月2日

〔写真説明〕
オルレアン-ロワイヤル橋-全景

〔写真面の書き込み〕
1914年10月2日 ジョゼフ
ドイツ野郎どもがランスのようにすることができなくてよかった(*1)

〔本文〕
   オルレアンにて、1914年10月2日(金曜)
  親愛なる皆さん
 私はいとしいフォンズィーヌが皆さんにコンスタントに私のようすを知らせていることを知っていますが、私自身からも少しばかり皆さんにお話しする必要があると感じています。皆さんが全員元気だということも知っています。私はというと、今日までのところ、それほど戦争で苦しんではいません。しかし、多くの人はそうではありません。二週間前の日曜(*2)、マルヌの戦いから戻ってきた8千人の負傷兵が通りすぎていきました。私はオーブレ駅に居あわせたのですが、心がかきむしられる思いでした。幸い、このとてつもない犠牲が実を結ぼうとしており、あの汚いドイツ野郎はたっぷり痛めつけられて数を減らし、(もしまだ可能なら)あいつらの国に引き上げようとしています。このピュジョ親爺は、

〔左上の斜めの書き込み〕
フランスが1870年以前の状態に戻るのを見れたらうれしいと思っています(*3)。
 心の底から皆さん全員にキスをします。ジョゼフ

(*1)オルレアン Orléans はパリから100kmほど南のロワール川沿いにある街。写真右上の書き込みの末尾には、十字の印がつけられているが、これは同じ十字がつけられたオルレアン大聖堂についての書き込みであることを示している。パリの東方にあったランス大聖堂は、1914年9月4日以降、ドイツ軍の砲撃によって大きく破壊されたが、9月6日~9日を中心におこなわれたマルヌ会戦によってドイツ軍が敗北し、パリ方面まで攻めてくることなく退却した結果、オルレアン大聖堂はランス大聖堂と同じ目にあわないで済んだことを指している。
(*2)「二週間前の日曜」とは9月20日(日曜)を指すと思われる。
(*3)1870年の普仏戦争でフランスはプロイセン(ドイツ)に敗れ、アルザスとロレーヌの一部を奪われた。これを取り戻すことがフランスにとってこの大戦の目標の一つとなっていた。



1914年9月~10月-戦争中のバカンス

 次の葉書は1915年2月15日に差し出されているが、写真は1914年9月~10月に撮影されたと書かれているので、ここで取り上げておきたい。上流階級の人々は、戦争中でも、前線で戦っている父親を気にかけながら、父親を除く家族でバカンスに出かけた。
 この葉書は、カメラで撮った写真を葉書とまったく同じサイズの厚紙に現像した、いわゆる「カルト・フォト」(carte-photo、写真葉書)と呼ばれるもの。次のように写真屋に依頼せずに自分で現像することも多かった。

1914年9月~10月

1914年9月~10月

〔表面〕
いとしい父上へ(*1)
父上なしですごした悲しいバカンスの思い出
1914年9月4日~10月13日

〔本文〕
1915年2月15日
いとしい父上へ
この写真は、この夏、サン=タマン(*2)の公園の奥のぶらんこの近くでアルマンに撮ってもらいました。ぼく一人で、父上の袋の中に見つけたこの厚紙に現像しました。父上に喜んでもらうために送ろうと考えて、自分で調色し、水洗いし、艶出しをしました(*3)。父上のことを強く抱きしめます。ジャン

〔宛先〕
キュスティーヌ(*4)
砲廠長
砲兵少佐
ルイ・ボエ様

(*1)通常、フランス語では親しくない相手には vous(あなた)、親しい相手には tu(君)を使って話しかけるが、ここでは父親に対して vous(あなた)を使っている。当時は貴族や上流意識のあるブルジョワ階級の人々は、両親や配偶者に対しても、敬意や礼儀正しさを感じさせる vous(あなた)を使って話しかけていた。この父親は少佐であり、軍隊の序列でかなり上の階級にあたる。それを踏まえ、「父上」と訳した。
(*2)サン=タマン=スー Saint-Amans-Soult は、南仏ミディ=ピレネ地方のタルン県にある人口1,500人程度(当時)の村(略称サン=タマン)。ここに父を除いて一家で避暑に来ていたわけである。なお、アルマンは差出人ジャンの兄弟であことが、残されている他の葉書からわかる。
(*3)当時の写真の現像手順が書かれている。
(*4)キュスティーヌ Custines は、ドイツとの国境に近いロレーヌ地方のムール=テ=モゼル県ナンシー郡にある人口1,100人程度(当時)の村。なお、この葉書は封筒に入れて送られたと思われ、宛先も簡略化されている。



1914年10月5日-重宝される往復葉書

 次の葉書は、往復葉書を受け取った兵士が差し出した、返信用の葉書である。今までは紙や葉書を入手できなかったので、返事を書けなかったが、今回は往復葉書をもらったので、やっと返事が書けようになったという事情が語られている。たしかに、兵士は切手を貼らずに郵便物を出す権利が認められていたが、肝心の紙や葉書が手に入らなければ、書くことができない。こうしてみると、戦地では家族や友人からもらう往復葉書というものが大いに役に立ったことがわかる。
 相手への敬称が「お嬢様」で、本文冒頭で相手を「猫ちゃん」と呼び、自分のことを「坊や」と呼んでいるので、仲のよい婚約者同士だったと思われる。
 先に、この返信用葉書の表面上部に小さな文字で印刷されている部分を訳しておく。

反対側の葉書に対する返信用葉書
この葉書で返事を書き、親戚や友人を喜ばせよう郵便 葉書軍事郵便につき
郵便料金免除
軍人諸君はこの葉書の裏面には家庭的な通信文しか書いてはならない
軍事作戦に関することには一切言及しないこと

1914年10月5日

1914年10月5日

〔宛名〕
マルセイユ
トロワ・マージュ通り14番地
コーヴァン奥様方
マルグリット・バリーお嬢様

〔本文〕
                1914年10月5日 月曜
猫ちゃんへ
 2週間ほど前からコンスタントに君からの手紙を受けとっている。返事をしたいとは思っていたのだが、いままでは紙や葉書がなく、それがまったくできなかった。ついさっき、ちょうど書くものを探していたら、君から往復葉書を受けとったんだ。これでやっと返事を書くことができる。また、セシーからも葉書を受けとった。セシーは親切に私のことを気づかってくれた。私が返事を書かないのは、書けないからだと伝えておくれ。目下、私はまったく元気だ。君もそうだと思う。ずっとそうだといいね。君たちがフェルナンに会うことができ、あいつの傷がそれほど悪くないと知って、とても安心した。これは喜ばないといけない。あのいまいましい砲弾の破片によって、ほんとうに大勢の兵が死んでいるんだから。どっちにしろ、あいつが完全に治ったら、再会できる喜びが得られるはずだ。セシーも幸せだったにちがいない。私はといえば、あいかわらず無傷だ。まあ、あまり長話しをするのはやめよう。みんなにキスと愛撫を。それでは。坊やより

〔左の縦の書き込み〕
必ず往復葉書を使って書いてくれ。そうしないと返事ができないから。

 なお、戦地で葉書を入手することの大変さについては「1916年7月23日-葉書を入手するのも簡単ではない」でも触れられている。



1914年10月26日-浮気しようにも男がいない

 次の葉書は、未婚の女性が婚約者の男性に送った手紙。他人に見られるのを避け、封筒に入れて送ったと思われる。大戦中は夫婦や恋人が離れ離れになったため、このように相手の浮気を心配する文面がときどき見られる。

1914年10月26日

1914年10月26日

〔写真説明〕
レヴルー(*1)-教会

〔本文〕
 レヴルーにて、1914年10月26日
 親愛なるルネへ
あなたから便りをいただいてうれしく思っています。魅力的な手紙を本当にありがとう。浮気はするなと言っていたわね。浮気はできないのよ。男たちはみんな戦争に行ってしまったから。いつもあなたのことを考えているわ、特にベットにもぐり込むときはね。最後になりましたが、何度もあなたにキスをします愛されているあなたのかわいいアンリエットより

〔右上の書き込み〕
ブルー(*2)に戻りたいわ。だって恋しくて死にそうなんですもの。

〔左上の書き込み〕
未来の義父によろしくお伝えください

〔宛名〕
ウール=エ=ロワール県
ブルー
教会広場
ルネ・ルフェーヴル様

(*1)レヴルー Levroux は、パリの南南西約200 kmにあるアンドル県の街。
(*2)ブルー Brou は、パリの南西約100 kmにあるウール=エ=ロワール県の街。



1914年11月1日-戦艦ジュスティスの乗組員からの葉書

 次の葉書に写っているのは、当時アドリア海(イタリアの東側)に展開していたフランス海軍の戦艦ジュスティス(ジュスティス Justice はフランス語で「正義」の意味)の甲板上で、大砲を前にポーズを取って写真に収まる水兵たちである。撮影された写真が直接葉書用紙に現像されている(いわゆるカルト・フォト)。左上には、切手に似た「ヴィニェット」と呼ばれるものが貼られている(後述)。
 葉書は「いとこ」の女性に書き送られている。

1914年11月1日

1914年11月1日

〔本文〕
1914年11月1日
親愛なるいとこへ
 いただいた親切なお手紙に返事をします。みなさんがお元気だと知り、喜んでいます。私のほうは、健康はとても良好で、ずっとそうであってほしいと思っています。
 この差し上げる葉書には私が写っています。どこにいるか探してみてください。そして、こんど葉書か手紙をいただくときに、答えを教えてください。
 あいかわらず我々は同じ場所にいます。今日はカッターロ(*1)方面に北上しています。マルタ(*2)には、もう1か月も寄っていません。艦隊が寄港すると食糧が高騰すると、住民が不平を言うからです。今後は、修理の必要が生じたらビゼルト(*3)に行くことになります。

〔上部の余白〕
 今では、商船が食糧と石炭を運んでくれることになりました。
 それでは、近いうちにお便りをいただけることを期待しつつ。
 ご家族のみなさんによろしくお伝えください。

(*1)カッターロ Cattaro はイタリアの東(アドリア海を挟んでイタリアの反対側)にあるモンテネグロの港町コトルのこと。オーストリア=ハンガリー帝国の軍港となっていたため、1914年9月以降、フランス海軍が砲撃を加えていた。戦艦ジュスティスもアドリア海に展開していた (Cf. Navires de la Grande Guerre)
(*2)マルタはイタリアの南端、シチリア島の南にある島。大戦当時はイギリスの支配下にあったため、イギリス海軍やフランス海軍の補給基地となっていた。
(*3)ビゼルト Bizerte は地中海に面するチュニジア北端にある港町で、イタリアの南端からも近い。当時はチュニジアはフランスの保護下に置かれており、ビゼルト港はフランス本国とオリエント(サロニカ等)との中継基地となっていた。

 なお、写真面の左上には、切手に似た「ヴィニェット」と呼ばれるものが貼られている。

戦艦パトリー

 「ヴィニェット」vignette とは、もともと葡萄(ぶどう)の蔓(つる)や葉を意味し、典型的には書物の冒頭や章の末尾などに描かれた小さな装飾を指す言葉。転じて、小さな装飾やラベル、とくに切手とほぼ同じ外観のラベルのことも指すようになったが、切手と違って額面の記載がなく、文字どおり「装飾」程度の意味しかない。
 上のヴィニェットは戦艦パトリー(パトリー Patrie は「祖国」の意味)を描いたもので、手前中央に描かれているのは、フランスそのものを寓意的に表現した「マリアンヌ」と呼ばれる女性。よく見ると、このヴィニェットの右上には FM(「軍事郵便につき郵便料金免除」)という楕円形の印が、葉書にかかるようにして捺されている。
 もし戦艦ジュスティスのヴィニェットがあればそれを貼ったのだろうが、なかったので戦艦パトリーのものを貼ったのだと思われる。

 さて、この葉書は封筒に入れて送られたらしく、差出人の名前や所属は書かれていない。
 それで、なぜ差出人が戦艦ジュスティスの乗組員だとわかるのかというと……。

 実は、当時の水兵の帽子の前面には、自分の乗る艦艇の名が記されていた。実物をルーペで拡大すると JUSTICE と書かれているのが確認できる。スキャナーで取り込むと解像度が不十分でぼやけてしまうのだが……

戦艦ジュスティス

戦艦ジュスティス




1914年12月2日-「タウベ」の見張りと満杯の背嚢

 次の葉書は、フランス北部ドゥーラン付近にいた兵士が故郷の妻に送ったもの。
 写真面には、ドゥーラン市役所の庁舎に矢印が書き込まれ、この塔の上から1914年10月に差出人がドイツの軍用機「タウベ」の見張り役をしていたことが記されている。
 本文には、小包で色々と送ってくれるのは有難いが、背嚢(はいのう、リュック)に入りきらないので、もう送らないでくれと書かれている。実際、兵隊は自分の身のまわりの荷物はまとめて背嚢に入れて背負ったので、相当な重量になった。
 妻が白髪が増えてきたと書いて寄こしたらしく、末尾の書き込みで、自分も白髪が増えていると書き込んでいるのは、哀愁を誘う。

1914年12月2日

1914年12月2日

〔写真書き込み〕
ここから私は何日か「タウベ」(*1)を見張った。
1914年10月

〔写真下の説明〕
ドゥーラン(*2) - 市役所と学校

〔宛先〕
コート=ドール県
イス=スュール=ティーユ近郊
シェニェ
デタン様

〔本文〕
 1914年12月2日
  いとしい人へ
 今日、おまえの手紙を2通受けとった。23日付と26日付のやつだ。同時に、26日の手紙に書かれていた小包も受けとった。全部入っていた。ありがとう。現在、私の背嚢はいっぱいだ、それどころか超満杯だ。今後は必要なものがあったら知らせよう。でも、さしあたってもう下着は送らないでくれ。どうしていいかわからなくなってしまうから。
 今日はとくに書くことがない。私は元気だし、おまえたちも元気であることを願っている。
 おまえを愛する夫より J. デタン

〔本文左下の書き込み〕
パパのためにエミリアにキスしておくれ

〔本文右下の斜めの書き込み〕
うまいフランスの煙草を入れてくれて、どうもありがとう

〔本文上の斜めの書き込み〕
 みんなで写真をとってもらったんだが、まだ受けとっていないんだ。代わりに、これを送るよ。
 私は変わっていない。でも、いとしい人よ、おまえと同じで、どんどん髪が白くなっている。

(*1)「タウベ」は大戦初期にドイツ軍が使用した飛行機。ドイツ語で「鳩」を意味する「タウベ」は、まさに鳥の翼を模したような形をしていた。
(*2)ドゥーラン Doullens はフランス北部、パリの北方約130 kmのところにあるソンム県の人口6千人程度(当時)の街。1914年10月当時、フランス軍の将軍フォッシュはここに司令部を置いていた。ちなみに、大戦末期、ルーデンドルフ率いるドイツ軍の最後の攻勢によって連合国側が危機的な状況に陥ったのを受け、1918年3月26日、それまでフランス軍とイギリス軍で別々だった指揮系統を一元化して将軍フォッシュに一任する取り決めがおこなわれたのは、まさにこの写真に写っているドゥーラン市役所においてだった。



1914年12月6日-とても奇妙な戦争

 次の葉書は、おそらく二十才そこそこで戦場に赴いた青年が祖母に宛てたもの。宛名に「未亡人」Vve という敬称がついているので、祖父は他界していることがわかる。
 青年はおそらく祖母の住むフランス南西部ボルドー近辺の出身で、写真に写っているフランス北東部マルヌ県の村からこの葉書を出したと考えられる。
 本文には、ありきたりな「お元気ですか、私は元気でいます」のような言葉がなく、単刀直入に戦争に対する感想が述べられている。激しい戦闘の瞬間と、塹壕や陣地での停滞した時間との対比を「とても奇妙」だと書いているのは本質をついたもので、この第一次世界大戦の特徴をよく表している。差出人の鋭い感性がうかがわれる。
 字は癖があり、簡単そうでいて読みにくい。

1914年12月6日

1914年12月6日

〔宛先〕
ボルドー
フォーセ通り16番地
ノジエール様

〔本文〕
 おばあ様
 この戦争はとても奇妙で、恐るべき殺りくに立ち会ったのち、いま僕は比較的平穏な中で「足止め」をくらっています。たしかに、慣れてしまえば 420 mm 砲(*1)の脇でも目を覚まさずに眠れそうです。

〔写真面への書き込み〕
キスを送ります
サイン(アンリ)
  1914年12月6日

〔写真説明〕
1914年 マルヌ会戦(9月6~12日)
パルニー=スュール=ソー(*2) -大通り

(*1)420 mm砲はドイツ軍が使用した巨大な大砲。
(*2)パルニー=スュール=ソー Pargny-sur-Saulx はフランス北東部マルヌ県の村。1914年9月上旬のマルヌ会戦では激しい攻防の舞台となり、ドイツ軍による占領とフランス軍による奪還が繰り返され、マルヌ会戦後にフランスの支配下となった。差出人のいう「恐るべき殺りく」とは、マルヌ会戦を指すのかもしれない。



1914年12月18日-戦闘中にサッカーをするイギリス兵

 次の葉書は、フランス最北部(ベルギーのすぐ近く)でおこなわれた1914年12月17日の総攻撃に参加した差出人が、その翌日に書き送ったもの。
 イギリス軍の砲兵隊が激しい砲撃を浴びせている真っ最中に、その後ろで手のあいている砲兵がサッカーをしているようすを、信じられない光景として伝えている。最前線の歩兵と違って、砲兵隊は少し後方に陣取って撃つので、ありえない話ではない。ちなみに、この一週間後の1914年のクリスマスには、イギリス兵とドイツ兵が戦闘をやめてサッカーをして遊んだという実話がある(この「クリスマス休戦」の話は、最近映画になってよく知られるようになった)。
 なお、この葉書を送った相手の「ジュヌヴィエーヴ」は、結語などの書き方からして、婚約者だと思われる(妻に対してこんな丁寧な書き方をすることはない)。

1914年12月18日

1914年12月18日

〔写真右上の説明〕
ベチューヌ(*1)
公園 - 全景

〔本文〕
   親愛なるジュヌヴィエーヴ様
12月18日(*2)朝10時 葉書一枚だけお送りします。きのうの夜は非常に動きがありました。前線全体でそうだったように、正面の敵への攻撃命令が下りました。第……歩兵連隊も前進し、150メートル~200メートル獲得しましたが、60名の兵を失いました。死者15名、負傷者45名です。こうした塹壕への攻撃はおそろしいものです。無防備に進む連隊を、塹壕の中にいる部隊が迎えうつからです。北海からヴォージュ(*3)にいたるまで、総攻撃があったことを新聞でお読みになることでしょう。イギリス軍はものすごい勢いで砲撃し、ほとんど砲弾を惜しむことがありません。一晩中、リールやアルマンチエール(*4)のほうから、にぶい轟音がたえまなく聞こえていました。彼らはドイツ軍の大砲と同じ大音量のする大きな大砲を放ちます。(そして、砲兵隊の背後では、手のあいている大砲操作係がサッカーをしているんです! たしかにこの目で見たのです)。こちらでは、何というめまぐるしい動きでしょう。自動車、飛行機、あらゆる軍のあらゆる服装の兵士、アルジェリア原住民騎兵、イギリス兵、インド兵など。開戦当初よりも、すべきことがたくさんありそうです。夜は冷えこみます!まあ、これが戦争です!親愛なるジュヌヴィエーヴ、私のこともお考えください、そうではありませんか…… 去年のまさに同じ日、私はディジョンにあなたのお母様に会いに行きました。本当に私はたえずあなたのことを考えています。あなたとお母様には長い手紙を書くべきだったかもしれません。
 偽りのない愛情と心からの献身の気持ちを込めて。(サイン)

(*1)ベチューヌ Béthune はフランス最北端に近い街で、ベルギー国境の 30 km ほど手前にある。同じ差出人の前日付の葉書には「私たちのいる場所からはベチューヌのサンヴァースト教会の塔が見えます」と書かれているので、差出人はベチューヌ近辺にいたことがわかる。
(*2)この葉書は日付が「12月18日」とあるのみで、年が書かれていないが、1914年だとほぼ断定できる。その理由は、第一に、1914年のこの日、フォッシュ将軍の指揮のもとでアルトワ作戦の一環として大規模な攻撃がおこなわれた歴史的事実があり、葉書の内容と符合するため。第二に、同じ差出人によって同じペンを使って同じ相手に対して書かれた、似た構図の絵葉書が手元にあり、そこに「1914年12月17日」と書き込まれているからである。
(*3)北海は北仏やベルギーの北に広がる海。ヴォージュ Vosges はフランス北東部ロレーヌ地方にある。この時期には、いわゆる「海に向かう競争」の一環として、スイス国境からロレーヌ地方を通って北海まで伸びる塹壕が両軍の間に掘られていた。
(*4)リール Lille はベルギーと国境を接する街。アルマンチエール Armentières はリールの10 kmほど西にあるフランスの街。どちらも、差出人のいたベチューヌ近辺から見て東側(ベルギー寄り)に位置する。



1914年12月19日-子供と兵隊の意外な共通点

 第一次世界大戦における戦場での食べ物としては、保存食となる缶詰が発達したことが知られているが、次の葉書を読むと、日持ちすると同時にエネルギーへの変換も速い甘いものもよく食べられたことがわかる。
 差出人は、上で取り上げた「1914年12月6日-とても奇妙な戦争」と同一人物。この差出人特有の鋭い観察眼から、アフォリズムのような文になっている。

1914年12月19日

1914年12月19日

〔宛先〕
ボルドー
フォーセ通り16番地
ノジエール様

〔本文〕
 おばあ様
ジャム、栗、干しプラム、いちじく。こんなにたくさんのお菓子を食べるためには、子供か兵隊でなければなりません。現代の戦争がこうした甘いものを許容するようになるとは、夢にも思っていませんでした。
   無数のキスを。
      アンリ

〔写真面への書き込み〕
1914年12月19日
  サイン(アンリ)

〔写真説明〕
1914年 マルヌ会戦(9月6~12日)
砲撃後のエトルピ(*1)城の細部

〔部隊印〕
14年12月19日
郵便区(*2)14

(*1)エトルピ Étrepy はフランス北東部マルヌ県にある人口200人台(当時)の村。「1914年12月6日-とても奇妙な戦争」の葉書に出てきたパルニー=スュール=ソーの隣にある。
(*2)「郵便区」の制度が施行されたのは1914年12月15日だったから、この印はその4日後という初期の使用例ということになる。



1914年12月23日-クリスマス前

 次の葉書は、フランス北東部を転戦している前線の兵士がクリスマス前に未婚の女性に宛てたもの。小さい字だが、丁寧に書かれているので読みやすい(一般に、男性が未婚の女性に宛てた手紙は、きれいな字で書かれていることが多い)。
 付近で大規模な戦闘があると郵便物の配達が遅れるというのは、考えてみれば当然のことだが、なかなか思い及ばないところ。

1914年12月23日

1914年12月23日

〔写真説明(活字)〕
1914年の戦争
火災後のバドンヴィリエ(*1)の教会

〔写真上部への書き込み〕
8月16日にこの土地を通過しましたが、今では完全に破壊されています

〔本文〕
 ベルネクール(*2)にて、1914年12月23日
 親愛なるローズお嬢様
12月13日付のお葉書は受けとったところですが、お手紙のほうは受けとっておりません。この遅れは、ムール=テ=モゼル県とムーズ県のすべての郵便物がこの地域で行われた大がかりな攻撃のために数日間ストップしたことが原因だと思います。数日前から我々は多くの作業を抱えていますが、幸いなことに塹壕の中にいるよりは快適です。今回の攻撃では期待していたほどの成果を挙げられず、我が軍は多くの負傷者を出し、とりわけル・ピュイの286連隊(*3)は1,200人の兵を死亡または負傷によって失いました。恐ろしいことです。私はあい変わらずとても元気で、あなたもそうであることを願っています。カルタル夫人の病気の原因は寒さにあるにちがいありません。気候がよくなることを希望しましょう。暖かくなれば夫人も快復されるでしょう。こちらはひどい寒さです。私は戦争がこれほど長引くとは思ってもいませんでした。あれほど話題になっていた例のテュルパン式の砲弾(*4)を信じていたからですが、どうやらこれは使われていないようです。しかし勇気を出しましょう、徐々にやつらを国境の外に追い出すに至るでしょう。クリスマスのお祝いは楽しいものとはならないでしょう。真夜中のミサがないのはたいへん残念です。こちらでは教会は完全に破壊されていますから。私の両親からはもう二週間も手紙を受けとっていません。アントナン(*5)がどこに行くのか心配していましたが、幸いあなたの葉書で自動車でグルノーブルに行くと知りました。私は歩兵になるかと心配していました。今年は歩兵ばかり募っていましたから。彼がいなくなると私の両親はさびしがるでしょう、ぽっかりと穴があいたように感じるでしょう。すべてがなるべく早く終わることを希望しましょう。私が鉛筆で書いているのは、我々のところにあった唯一のインク壺をひっくり返してしまったからです。乱筆をお許しください。この地下室は暗く、照明がとても不足していますので。またお便りをいただけることを期待しつつ、親愛なるローズお嬢様、心からの友情の気持ちをお受けとりください。サイン

〔上部余白右上の逆向きの書き込み〕
コンタル夫人によろしくお伝えください。

(*1)バドンヴィリエBadonvillerはドイツとの国境に近いロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県にある人口2,000人前後(当時)の村。
(*2)ベルネクールBernécourtは同県にある人口300人前後(当時)の村。
(*3)ル・ピュイLe Puyはフランス南部オーヴェルニュ地方オート=ロワール県の人口2万人程度(当時)の街(現在の正式名称はル・ピュイ=アン=ヴレLe Puy-en-Velay)。第286歩兵連隊はこの街を本拠地として結成された。おそらく差出人もこの近辺の出身で、この連隊に所属していたと思われる。なお、戦後にル・ピュイで出た小冊子『第286歩兵連隊史』にも、1914年12月12日のムール=テ=モゼル県での攻撃で同連隊は千人以上の犠牲者を出したことが記載されている。
(*4)ウージェンヌ・テュルパンEugène Turpin(1848-1927)はフランスの化学者。1885年にピクリン酸を含む強力な爆薬メリニットを発明した(日本の下瀬火薬の原型となった)。おそらく「フランス軍にはテュルパン式の砲弾があるから、すぐにドイツに勝つはずだ」といったような噂が流れ、少なからぬ人がそう信じていたのではないかと思われる。
(*5)文面から、アントナンは差出人の弟か。



(追加予定)



⇒ 1915年






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