「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

第一次世界大戦と郵便の用語解説

用語解説

⇒ 葉書関連の用語
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葉書関連の用語

 本ホームページで使用した、第一次世界大戦当時の葉書用語についての解説。

F.M., S.M., C.M.

 F.M. は Franchise Militaire「軍事(郵便につき)郵便料金免除」の略。
 S.M. は Service Militaire「軍事(郵便)業務」の略。
 C.M. は Correspondance Militaire「軍事郵便物」の略。
 実際にはどれも同じ意味で使われ、とくに軍事葉書以外の葉書や封筒を使用する場合に、差出人が切手を貼っていないことの理由として手書きで書き込むことが多かった。
 ただし、郵便料金が免除されるためには、これを書き込むことが必須だったわけではなく、こうした文字を書き込まなくても、所定の手続きを踏めば(たとえば、前線の兵士が所属する部隊の印を葉書に捺してもらい、郵便物担当下士官に手渡せば)すべて郵便料金は免除された。
 逆に、この文字を書き込んだからといって、郵便料金が免除されるとは限らず、免除されるかどうかはあくまで郵便局によって判断され、免除の対象外と判断された場合は、届け先で不足料金が徴収された(具体例は「特殊使用」のページを参照)。
 つまり、これらの文字は、郵便料金免除の適用の有無にはまったく影響を与えることがなく、実質的には意味のない書き込みだったといえる。
 なお、柘植 p.157に「上部に手書きされた "F.M." は...」という一節があるが、同書に掲載された写真を見ると、正しくはフランス語の筆記体で S.M. と書かれている(筆記体のページを参照)。名著であるだけに、敬意を払いつつ、あえて指摘しておきたい。

 以上とは別に、「種まく女」の切手(いわゆる「種まき切手」)に F. M. と加刷されたものも知られている。例として、1912年11月22日の消印のあるものを掲げておく。

種まき切手

 この F. M. 加刷切手は、1900年以降、毎月限られた枚数が下士官と兵に配られたが、第一次世界大戦中は使用されることはなかった。大戦中は、1914年8月3日のデクレに基づき、兵士からの手紙と兵士への手紙(葉書および20g以下の封書)は基本的に郵便料金がすべて免除され、そもそも切手を貼る必要がなかったからである。

郵便区 secteur postal

 「郵便区」とは、第一次大戦中に軍の各部隊に割り当てられていた一種の郵便番号のこと。潜入したスパイによって機密情報が盗まれたり、郵便配達車が敵に襲撃されて郵便物が奪われた場合に部隊の動向(所在地)がつつ抜けになるのを防ぐため、戦地から差し出す郵便物には地名を記載してはならない決まりになっており、その代わりに一種の暗号として、おおむね1師団(約1万2千の兵)につき1つの郵便区が割り当てられていた。郵便区はあくまで部隊に対応したものなので、地理的な場所には対応していない。部隊の改変などによって郵便区の割り当てが変更になることもあった。兵士と家族との(または兵士間での)手紙のやり取りでは、住所の代わりに郵便区が明記された。
 この制度は、大戦初期、前例のない規模での兵士の移動に伴い、郵便の配達が混乱し、移動する軍隊に郵便物が円滑に届かなくなっていた(ドイツ軍を恐れてフランス政府がパリからフランス南西部ボルドーに移転したことも混乱に拍車をかけた)ことを受け、戦時中の郵便制度改革の一環として、1914年12月11日に制定され、同月15日に施行された。いわゆる西部戦線だけで見ると(ギリシアなどフランス国外に派遣された部隊を除く)、当初は郵便区は 1 から 154 までだったが、その後追加され、終戦時には 241 まで存在した (Cf. Strowski, pp.9-10, 120-136 ; Cochet/Porte, s.v. POSTE AUX ARMÉES)

主計及び郵便 TRESOR ET POSTES

 第一次大戦中の兵士の手紙は、基本的には郵便料金が無料となったため、切手を貼る必要がなく、代わりに所属する部隊を示す印が捺された。部隊印には「この郵便物は軍事郵便であるがゆえに郵便料金は免除する」という認可印としての意味あいが込められている。そのなかでも代表的なのが、「郵便区」(前項参照)の番号とともに TRESOR ET POSTES という文字が記された印である。
 TRÉSOR は「国庫」、「税務」、「財務」、「出納」などの意味もあるが、「主計」と訳した(「会計」と訳すことも可能)。POSTES(郵便)という語と並んで、この金銭の出し入れを意味する言葉が使われているのは、当時は「郵便料金」が「郵税(郵便税)」と呼ばれていたことに加え、当時の兵士と家族の間では、郵便為替のやり取りも行われており、前線で郵便物を取集・配達する「郵便物担当下士官」Vaguemestre は、為替の送付に伴う金銭の授受も担当したからだと思われる(ちなみに trésorerie は「会計隊」と訳される)。

郵便区 130

主計及び郵便
1915年7月26日
郵便区 130
(直径 22 mm の印)

郵便区 16

主計及び郵便
1915年2月13日
郵便区 16
(直径 27 mm の印)


女神座像 déesse assise

 フランス共和国そのものを図像化した「女神座像」(別名「共和国座像」République assise)の図柄は、大戦中はフランス軍のさまざまな印に広く用いられた。
 この図柄は、もともとフランス最初の普通切手「セレス」をデザインしたことでも知られる彫刻家ジャック=ジャン・バール Jacques-Jean Barre が第二共和制(1848~1852年)発足時の1848年にデザインした国璽(こくじ)にさかのぼる。「共和国」を表現したものなので、第二帝政(1852~1870年)では使われず、第三共和制(1870~1940年)になって再び使われるようになった。

フランス国璽
フランス国璽出典:Wikipédia

 この女神像には、さまざまな寓意が込められている。まず、頭部から後光のように放射状に七本突き出ているのは七条の太陽光線を表している。この頭部は、のちにフランス人オーギュスト・バルトルディ Auguste Bartholdi がアメリカの自由の女神像(1886年完成)をデザインしたときに借用し、今ではアメリカの自由の女神の方が有名になっているが、このフランスの国璽が本家本元である。
 座せる女神が右手で押さえているのは、ラテン語でファスケス fasces、フランス語ではフェッソー faisceau(x)、日本語では束桿(そっかん)または権標(けんぴょう)と訳されるもの。「斧」の柄のまわりに枝の「鞭」を巻いたものでできており、古代ローマでは「斬首刑」と「鞭打ち刑」を執行する権利を意味し、しばしば「正義」の象徴とされてきた(Cf. ホール「権標」の項)
 女神の腰の下あたりには壺が置かれているが、ここには小さく S.U.と書かれている。これはフランス語で「普通選挙」を意味する Suffrage Universel の頭文字である(ちなみにフランスは普通選挙を実施した世界で最初の国だった)。
 女神が左腕を掛けている椅子の下部には、フランスの象徴「ゴール(ガリア)の雄鶏」が彫り込まれている。
 その他、女神の足元には農民が畑を耕すために牛に牽かせる犂(すき)や、芸術の象徴として画家のパレットなどが配されている(Cf. アギュロン p.103)
 さて、この国璽の図柄を用いた印は、第一次世界大戦中はフランス軍のさまざまな部隊や機関、臨時病院などの印として広く用いられた。細かく見ると、女神の顔の傾き具合など、部隊や病院によって多少のバリエーションがある。色はさまざまだが、紫色が多い。手持ちの中で鮮明なものを、少し拡大して掲載しておく(もともと大きめの印なので、葉書からはみ出て端が切れていることも多い)。

女神座像
★ 第364歩兵連隊 ★ 大佐

女神座像
☆ 第84補足病院 ☆ 院長

 このように、左右の星印をはさんで上側に組織名、下側に組織のトップの名が記されることが多い(例外もある)。こうした印が捺されると、郵便料金が免除になった。
 その他、この「女神座像」の印が捺された本ホームページで取り上げ済みの葉書:

 柘植 p.130 には「野戦病院の承認印は、大半が中央に自由の女神の座像を配したものだった」と書かれているが、このように野戦病院に限らず多くの部隊や軍の機関、役所などでこの印が用いられた。
 また、この印に描かれている女神を「自由の女神」と呼ぶべきかどうかは若干疑問の余地がある。この時期の郵便印についての定評ある研究書では、「女神座像」déesse assise(直訳すると「座せる女神像」、Strowski, p.208 ; Deloste, p.41)または「共和国座像」 République assise(直訳すると「座せる共和国」、Strowski, p.212, 309 ; Bourguignat, p.371)と呼ばれている。

コンプレザンス印 oblitération de complaisance

 「コンプレザンス印」(オブリテラシオン・ド・コンプレザンス)とは、フランスの切手や葉書のコレクターの間で使われる一種の専門用語で、厳密な定義がなく、人によって指すものが異なる場合もある。しかしここでは、次のように定義してみたい。

  • コンプレザンス印とは、印の本来の目的(消印であれば郵便物に貼られた切手を再使用できなくするという目的)とは異なる意図をもって捺された印のことである。

 もともとフランス語の「コンプレザンス」complaisance という単語は、「喜ばせること」「喜ぶこと」という意味だが、「愛想」「媚びへつらい」「ご機嫌取り」「お世辞」「自己満足」「うぬぼれ」などの意味もあり、いずれも実体とはかけ離れて(あるいは実体を伴わずに、実情に目をそむけて)必要以上に人を喜ばせる(あるいは喜ぶ)というニュアンスがある。さらに、「コンプレザンスの」de complaisance というと「本当は違うけれども(内実は伴わずに)義理で付与する」といった意味もある。ここから、語源的には「コレクターを喜ばせるために捺した印」、「本来は捺すべきではないが(本来の機能を伴わずに)捺した印」などの意味が出てくる。一義的に訳すのは難しいので、とりあえずカタカナのままにした。日本語では、おそらく「コンプレザンス印」に対応する概念は存在しない。
 フランスの切手コレクターの間では、「コンプレザンス印」という言葉は、いわゆる「オーダーキャンセル」(発展途上国などで外貨獲得のために郵便当局が未使用の切手にわざと消印を捺して商品として流出させた、のりがついたままの切手のこと)や「初日カバー」(新しい切手を発行した当日に、お揃いのデザインの封筒などに消印を捺したもの)に捺された印のことを指すことが多い。これを踏まえ、フランス郵趣アカデミーの『郵趣・郵便事典』の「コンプレザンス印」の項にはこう書かれている。

  • コンプレザンス印 OBLITÉRATION DE COMPLAISANCE
    切手、封筒、またはコレクター向けに発行された記念用ドキュメントの上に、指示を受けて捺されたものの、郵便ルートには乗らなかった消印のこと。こうした消印は、封筒に貼られた切手または貼られていない切手の上に、コレクターの依頼によって捺される場合もあれば、未使用の切手を安値で収集家の取引に放出することを嫌って、切手を発行した政府自身が捺す場合もある。なかには、印刷所において、印刷機を使ってドキュメント上に直接こうした消印が捺されることもある。コンプレザンス印はコレクターからは低く評価され、嫌われることも多い。Dictionnaire philatélique et postal, p.152)

 ただし、「オーダーキャンセル」や「初日カバー」は、比較的最近になってから行われるようになった慣行であり、本ホームページで取り上げているような約百年前の葉書とはあまり関係がない。したがって、昔の葉書に関して「コンプレザンス印」という言葉を使う場合は、上の事典の定義と説明は、少しずれてくる可能性がある。
 一つ実例を挙げてみたい。たとえば、次の葉書は、明治期に日本に来ていたフランス人によるもので、「愛情をこめて挨拶します」Bonjour affectueux と書かれている。神奈川県江ノ島の絵葉書に、当時の最低額の切手である1/2銭の菊切手が貼られ、この上に「満月」になるように明治40年(1907年)7月21日の横浜の消印が捺されている。

コンプレザンス印

コンプレザンス印

 裏には一応住所(南仏ニース)が書かれているが、国際便なら他に消印が入るはずだし、そもそも当時の日本からフランスへの葉書の郵便料金は4銭(印刷物扱いだと2銭)だったので、このままで届くはずはなく、封筒に入れて送られたと思われる。つまり、この消印は、郵便サービスの対価として購入された切手を再使用できなくするという本来の目的とは異なり、単にこの日、この場所に来ていたことを記録し、記念する役割、あるいは収集家を喜ばせる役割しか果たしていない。すなわち「コンプレザンス印」である。
 このように、昔はフランスでは、たとえば旅先などで、訪れた土地の風景を写した絵葉書に最低料金の切手を貼り、郵便局の窓口できれいに日付入りの消印を捺してもらうことが少なくなかった。実際には誰にも差し出さずに、記念として自分で取っておいたり、家族や知人に送る場合は封筒に入れて送ったわけである。現代のカメラで、写真を撮ると自動的に下の隅に日付がプリントされる機能がついたものがあるが、それに似たような役割を果たしたともいえる。日付入りの消印を捺してもらうことで、実際にその瞬間・その場所にいた記録が残るからである。
 さらに、第一次世界大戦中の郵便物に限ってみると、消印以外にも、さまざまな印が本来の目的とは異なる意図をもって捺された。そのため、前記の事典の「... 郵便ルートには乗らなかった消印のこと」という定義は必ずしも完全とはいえない。そもそも、大戦中は多くの郵便物が軍事郵便扱いで郵便料金が免除となったので、大戦以外の時期と比較して切手が使われる割合が低く、むしろ「消印」以外の印(部隊印、軍の機関の印、野戦病院の印など)の方が多く使われた。そうした消印以外の印も「コンプレザンス」の対象となったし、それが葉書に捺され、郵便ルートに載って届けられた例もある(1915年5月15日-アルザス奪還を参照)。
 第一次世界大戦中の実例については、コンプレザンス印 1コンプレザンス印 2 のページを参照。

カルト・フォト carte-photo

 「カルト・フォト」とは、直訳すると「写真葉書」。当時、いたるところで売られていた、印刷会社で印刷された風景などの写真の絵葉書とは異なり、個人または町の写真屋が撮影した写真を、葉書と同サイズの厚紙に直接現像して作られたものを指す。カルト・フォトは一枚または数枚しか現像されないので、ほぼ一点物ということになり、希少性が高い。また、通常の絵葉書では「モデル」を使って撮影することも多かったが、「カルト・フォト」の場合は実際の人物であり、歴史的価値も高い。
 第一次大戦当時は、カメラと現像用具が普及していたので、個人でも気軽に写真を撮って葉書に現像することができた。自分の姿を撮影して、離れたところに住む家族に近況を知らせる目的で送ることが多かったので、人物を写したカルト・フォトの場合は、通常は差出人が写っており、複数の人物が写っている場合はそのうちの誰かが差出人であることが多い。
 量産される市販の絵葉書の場合は、写真を説明する語句(地名など)とともに、隅に小さな活字で印刷会社の名称が印刷されているが、カルト・フォトの場合は写真説明や印刷会社の記載がない(正確にいうと、写真が焼き付けられていない無地の紙に「ハガキ」などの文字を印刷した会社の名が入っていることはある)。また、市販の絵葉書と違って、写真面がつるつるして光沢があるのが特徴で、水平ではなく少し反っている(写真面が凹んでいる)場合が多い。これは、光沢のある写真面よりも通信面の方が紙質が粗く、水分を吸いやすいためである。
 本ホームページに掲載したカルト・フォトの例:

カルト・レットル carte-lettre

 カルト・レットル(直訳すると「封書葉書」)とは、いわば封筒の内側が便箋になっていて、広げた封筒の内側に通信文を書くようになっているものを指す。日本でも「郵便書簡」と呼ばれる似たようなものが存在する(旧名「簡易てがみ」、戦前は「封緘はがき」と呼ばれた)。
 第一次世界大戦当時、一番多かったのは、広げると葉書 2 枚を並べた程度またはそれよりも小さめの、折り目のついた一枚の紙でできたもの。外周に沿って点線状の穴があいており、文面を記した側を内側にして二つ折りにし、周囲(点線の外側)にのりづけしてから投函した。受け取った人は、点線のところで周囲を破り捨てて広げて読んだ。
 次の画像は、当時の未使用の二つ折りタイプのカルト・レットル。

カルト・レットル

 一番下にイタリック体で「カルト・レットルを開封するには、点線に沿って破ること」と書かれている。
 二つ折りタイプのカルト・レットルの例:

 その他、電報と同じような形の「カルト・レットル」も使われた。
 電報タイプのカルト・レットルの例:

 その他

穴あき封筒 enveloppe à trou

 当時の絵葉書で、宛先の住所が書かれていないのに、切手が貼られて消印が捺され、先方に届けられているものを時々見かける。これは、穴のあいた封筒に絵葉書を入れて出すことがあったことによる。
 当時、都市部のアパルトマンに住んでいる場合、典型的には1階の入口の横の管理人室にいるおばさんが郵便物をまとめて受け取り、各戸に届けた。また、裕福なブルジョワ階級の場合は使用人を抱えていた。そのため、管理人や使用人に盗み読みされないよう、葉書を封筒に入れて送ることも多かった。通常の(穴のあいていない)封筒の場合は、もちろん切手は封筒に貼り、葉書には貼らない。
 しかし、葉書(とくに絵葉書)が隆盛をきわめていた当時、やはりメインとなるのは葉書であり、封筒は単なる目隠しであるという気持ちから、あくまで葉書に切手を貼った上で、プライバシー保護のために文面は読めないように封筒で覆い、消印だけは封筒の上から捺せるよう、封筒に穴をあけるという仕掛けも考案された。葉書を入れる場合、封筒は破り捨てられてしまうことが多かったので、切手がついた状態で葉書を手元に残したいという心理も働いたのかもしれない。ちなみに、絵葉書は写真だけを見ても楽しく、当時からコレクションの対象となっていた。当時の封筒は薄いぺらぺらの紙で作られていたことも考慮に入れる必要がある。
 穴はちょうど消印と同じくらいの大きさで、丸いことが多い。受け取った時点で、封筒は捨てられることが多く、現存する使用済みの穴あき封筒は非常に少ない。
 こうして、宛先が書かれていないのに、切手が貼られ、消印が捺されている葉書だけが残されることになる。

穴あき封筒

 切手の貼り方は二通りある。一つは、ちょうど封筒に入れたときに穴のところに切手がくるような位置にあらかじめ葉書に切手を貼ってから、葉書を封筒に入れる方法。この場合、郵便局では封筒の穴の上から消印を捺すので、よほどうまく捺さない限り、葉書に貼られた切手上では消印の一部が欠けてしまう。そのために局員が念を押して消印を二度捺すことも多かった。もう一つは、葉書を封筒に入れたあとで、穴の上から、封筒に一部またがるようにして葉書に切手を貼る方法。この場合は、破り捨てた封筒の紙の一部が挟まれるように残っていることが多い。
 なお、郵便料金は封書の料金が適用された。
 穴あき封筒を使って葉書が送られた例:

「年賀状」

 フランスでは、葉書全般の衰退とともに、今では年賀状を送る習慣はすたれてしまったが、昔は12月の終わりまたは1月の初めに年賀状をやり取りした。実際、Bonne Année (「よい年を」「新年おめでとう」の意)と書かれた図柄の絵葉書も多数残されている。
 ただし、日本とはいくつかの点で違いがあった。

  • 日本のように「年が明ける」こと自体が「めでたい」という意識はない。フランスでの年賀状の目的は、新年にあたって「~しますように」という「祈念」vœux を送ることである。ありふれているのは「よい年になりますように」だが、戦争中の葉書では「(フランスが勝って)早く戦争が終わりますように」というものが多い。祈願文なので、文法的には基本的には接続法を使って書かれる。こうした祈念を送るという伝統は今でも健在で、現代のEメールでも、1月にやりとりするときは、ほとんど時候の挨拶のようにして「祈念」の言葉を添えることが多い。
  • 葉書には元旦の日付ではなく、実際に葉書を書いた日付を記入した。なるべく元旦に届けようという意識はあまりなく、郵便局の側でも年賀状を特別扱いにして元旦まで配達を保留にしたりせずに、通常の郵便として扱った。
  • 日頃疎遠な人に毎年年賀状だけは義理で書くということもあまりなかった。

 そのため、ことさら「年賀状」という言葉で呼ぶべきではないかもしれない。単に、その頃に出す葉書には「よい年になりますように」という意味の言葉を述べることが多く、そのためだけに一筆書くことも多かった、というべきかもしれない。
 本ホームページで取り上げた「年賀状」:

駅軍事行政官、駅軍事委員会

 「駅軍事委員会」のトップである「駅軍事行政官」とは、前線からは離れた鉄道の駅(および小さな駅の場合は町全体)の治安維持などにあたった将校のこと。
 休暇のため単独で移動している兵士が手紙を出す場合は、「駅軍事行政官」の配下の郵便物取集担当の兵に手紙を渡し、「駅軍事行政官」COMMISSAIRE MILITAIRE DE GARE や「駅軍事委員会」COMMISSION MILITAIRE DE GARE と記された印を捺してもらうことで、郵便料金が免除扱いとなった(たとえば1916年1月25日に発せられた軍の通達を参照。Cf. Bourguignat, p.151)。休暇中の兵士だけでなく、特定の任務を帯びて移動している部隊に属する兵士や憲兵、あるいは駅の警備を担当する兵士などが手紙を出す場合も同様にした。
 「駅軍事行政官」または「駅軍事委員会」の印のデザインは統一されておらず、駅によってさまざまなものが用いられた。
 関連する本ホームページで取り上げ済みの葉書:

郵便局員の数字の字体

 次の表は、郵便局員が郵便物に不足料金を手書きで書き込むときの字体の見本を示した1832年の通達(複数の郵便関係の本に収録)をもとに作成したもの。1882年以降、不足料金は手書きに代わって専用の「不足料切手」が使われるようになるが、20世紀前半の第一次世界大戦の頃でも、郵便局員が郵便物に数字を書き込むときは、この字体が使われることがあった(たとえば1914年9月6日-許可なく自動車の通行を禁止する電報を参照)。

郵便局員の数字の字体

 フランス人による通常の数字の書き方(「筆記体」の「数字」のページを参照)とはだいぶ異なるので、知識がないと読み間違える可能性がある。

郵便配達人の個人印

 大戦中の葉書で、認印のような小さな楕円形または円形の印が捺されているのを見かけることがある。上側がローマ数字、下側がアラビア数字になっている。

郵便配達人の個人印

郵便配達人の個人印

 この印は、各郵便配達人が持つ個人印で、配達している途中に、切手に消印が捺し忘れられていることに気づいた場合に、消印の代わりに切手に捺すために使われたらしい(Cf. Marques postales (a) ; (b)
 しかし、第一次世界大戦中は、パリの郵便配達人が郵便物に転居先などを書き込んだときに、サイン代わりに捺したらしく、そうした例が複数確認される。上側のローマ数字はパリの区を示し、たとえば「XI」なら「パリ11区」を意味する。下側は、たとえば「17」ならおそらく「No. 17の配達人」を意味する。
 この郵便配達人の個人印が捺された本ホームページで取り上げ済みのもの:

第一次世界大戦関連の用語

 本ホームページで使用した、葉書の文面によく出てくる第一次大戦に関する用語についての解説。

ドイツ野郎 boche

 「ドイツ野郎」(ボッシュ)という言葉は、大戦中にはドイツ兵を指す蔑称として盛んに使われた。ちなみに、第二次世界大戦を描いた有名な映画『カサブランカ』でも、ドイツ占領下のフランス領モロッコでフランス人がドイツ人に対してこの「ボッシュ」という言葉を口にして、殴り合いになるシーンがあったと記憶している。

休暇 permission

 「休暇」(直訳すると「許可」)とは、前線に赴任した兵士が一時的に家族のもとに帰ることが許された一時休暇のこと。戦争の長期化に伴い、士気を高めるために1915年6月に開始された。一度に多くの兵士が休暇を取ると軍務に支障が出るので、ローテーションでおおむね数か月~1年ごとに順番に許可が下り、家族のもとでの滞在期間は1週間程度。兵士とその家族にとって、待ちに待った貴重な瞬間だった。ただし、前線の「非日常」と銃後の「日常」とを行き来する体験となるため、落差が激しく、精神的に大きなストレスがかかり、前線への復帰後は鬱っぽくなることも多かった。いずれにせよ、「休暇」という言葉が兵士にとって特別な響きを持ち、戦争体験において一つのクライマックスを形成したことは、たとえば小説『西部戦線異状なし』の1シーンを読んでも想像がつく。本ホームページの多くの葉書でも「休暇」について語られている。
 1917年のフランス兵士による大規模な反乱後は、兵士の待遇改善のため、4か月ごとに1週間の休暇を取ることが兵隊の「権利」として認められるようになり、休暇の予定表まで掲示されるようになった。
 なお、アフリカなどのフランス植民地から召集された兵隊は、長い船旅で祖国に戻るわけにもいかないので、家族のもとには戻らず、前線から離れた後方で休息をとることが多かった。
 これとは別に、農家の場合は、農作物やワイン用のぶどうを育てるために「農業休暇」が与えられた。農作物やぶどうの生産量が落ちれば、軍事的にも重要な食糧の確保に支障をきたすからである。1914年秋、留守部隊の兵に2週間の農業休暇が許可されたが、それだけでは足りず、ぶどう栽培を含む農家出身の兵隊には、主要な農作業(種まき、収穫、剪定、耕作)のために20日間の「農業休暇」が与えられるようになった (Cochet/Porte, s.v. PERMISSIONS)。

憂鬱の虫 cafard

 「憂鬱の虫」を意味する「カファール」cafard とは、もともと「ゴキブリ」という意味。ゴキブリに取りつかれると、憂鬱の感情や、ふさぎがちな暗い気持ちに支配されると考えられていた。大戦中は、とくに休暇を得て一時的に故郷に戻り、再び戦場に赴くときにこの「憂鬱の虫」に襲われることが多かった。そのため、全般的に士気が低下していた大戦後期の兵士の心情をあらわすキーワードの一つとなっている。
 本ホームページで取り上げ済みの「憂鬱の虫」が出てくる葉書:

戦争代母 marraine de guerre

 戦争代母(戦時代母)とは、大戦中、いわば養子縁組のような形で、おもに身寄りのない独身の兵士の精神的・物質的な支えとなった女性のことを指す。
 「代母」marraine とは、本来はキリスト教の教会で幼児が洗礼を受けるときに「名づけ親」となる女性を指す。その配偶者である男性は「代父」parrain と呼ばれ、この二人の名づけ親から見て幼児のほうは「名づけ子」と呼ばれる。名づけ親は、幼児の両親が早死にした場合などに、両親の「代わり」となる役割も果たした。親戚のおじさん・おばさん夫妻が名づけ親になることが多かったが、村の教区司祭が代父となることもあった。
 第一次世界大戦中は、家族と文通ができない孤独な兵士を慰めるために「戦争代母」の制度が作られた。新聞に掲載された「戦争代母」募集の広告に女性が応募するなどして、兵士と組み合わされ、兵士の文通相手となり、手紙や小包(日本の太平洋戦争中の「慰問袋」に相当)などを送った。多少なりとも経済的に余裕のあるブルジョワ階級の女性が複数の兵士の「戦争代母」となることも多かった。「母」とはいっても、年齢制限がなかったので、若い未婚の女性のことも多く、兵士が「休暇」を利用して実際に会いにいってカップルになることもあった。
 手紙を書く場合、本来の「代母」であれば通常は親称 tu で呼びかけるが、「戦争代母」であれば相手との距離を置く vous(あなた)で呼びかけることが多く、また故郷や共通の知人などの具体的な話題は出さずに、当たりさわりのないことしか書かない場合が多いので、文面だけを見ても、本来の「代母」なのか「戦争代母」なのか、見当をつけることができる場合が多い。

 本ホームページで取り上げ済みの戦争代母のものと思われる手紙:

兵士の家 foyer du soldat

 兵士に休憩や遊戯(ビリヤードなど)の場を提供する「兵士の家」と呼ばれる施設は、大戦前から存在したが、第一次世界大戦中は、アメリカのプロテスタント系の YMCA(キリスト教青年会)の活動の一環としてフランス各地に「兵士の家」が作られた。1914年末~1915年1月、YMCA は前線に近いフランス北東部を中心に数か所に初めて「兵士の家」を開設した。プロテスタントの布教を警戒されながらも、疲れた兵士に健全な娯楽を提供する努力と、兵士に与えるプラスの効果がフランス軍や戦争省に認められ、その数は徐々に増えていった。とくに、1917年のアメリカの参戦とフランス兵士の「反乱」後の兵士の待遇改善の必要性を受け、時の総司令官フィリップ・ペタンと YMCA の間で合意が交わされ、最終的には合計1,534か所に「兵士の家」が開設された(Cf. Cochet, p.76-78)。おもにバラック小屋のような建物で、図書室の本を読んだり、芝居やスポーツの催しを楽しむことができ、兵士たちの安らぎと憩いの場となった。YMCA の逆三角形のマークの入った便箋を使って書かれた手紙も多く残されている。
 なお、アメリカのバスケットボールは、この「兵士の家」を通じてフランスに広まったことも知られている。
 「兵士の家」が出てくる葉書:

サロニカ Salonique

 サロニカ(別名テッサロニキ)はギリシア北東部にある港町。フランス軍の大半は、ドイツ軍と戦うためにフランス北東部(ドイツから見れば「西部戦線」)に投入され、ここが主戦場となったが、両軍の拮抗する膠着状態を側面から打破する狙いもあって、南方のエーゲ海(ギリシアとトルコに挟まれた湾状の海域、南側で地中海に合わさる)周辺にも相当な部隊が派遣された。
 1915年、ダーダネルス海峡(エーゲ海の北東部、トルコ北西部の沿岸)でおこなわれたガリポリの戦いでオスマン帝国に敗北した英仏軍は、同年秋にここから撤退し、セルビアを助けるという名目のもとでサロニカ(エーゲ海の北西部、ギリシア北東部の港町)に軍を結集させた。
 当初は、フランス軍は6千人(イギリス軍は1万2千人)程度だったが、多数のフランス兵が「東洋軍」(オリエント軍)として送り込まれた結果、1917年5月にはフランス軍は21万3千人(イギリス軍は21万6千人)程度まで増強されたCochet/Porte, s.v. Armée d'Orient)
 そのため、1917年頃の葉書には、しばしばサロニカが登場する。サロニカへは、南仏から船に乗り込み、地中海を東に進んで渡った。サロニカは衛生状態が悪く、伝染病が流行したため、負傷よりもむしろ病気によって多数の兵が病院に収容された。
 なお、フランス語では「テッサロニキ」に相当する Thessalonique(テッサロニック)という言葉は通常は使われず、とくに第一次世界大戦当時の文章または大戦について扱った現代の文章では、もっぱら「サロニカ」に対応する Salonique(サロニック)という言葉が使われる。
 サロニカが出てくる葉書:

上等兵・伍長・軍曹・曹長の訳語について

 日本とアメリカとフランスでは軍隊の組織が多少異なり、また時代によっても変化しているため、軍の階級の訳し方は辞書や訳書によってばらつきがある。ここでは、特にばらつきの多い下士官あたりの訳語について、第一次世界大戦当時に的を絞って考察した結果をまとめておきたい。

 caporal 上等兵
 caporal は「伍長」と訳されることが多い。これは英語の corporal にあわせたことによると思われる。しかし、日本の「伍長」や英語の「corporal」は下士官の一番下の階級だが、フランスの「caporal」は下士官ではなく、その下の「兵」に分類されるので、位置づけがずれる。フランスの「caporal」はむしろ日本の「上等兵」に相当するのではないか。事実、『ロワイヤル仏和中辞典』では「(陸軍・空軍の)伍長」と訳されているが、『小学館ロベール仏和大辞典』では「上等兵;(昔の)伍長」と訳されている。この「昔」とは1821年以前を指すと思われる。実際、1821年以前(たとえばナポレオンの頃)には、フランスでも caporal は下士官と位置づけられていたので、これ以前のものについては「伍長」と訳して正解だが、1821年以後については「上等兵」とすべきだと思われる。

 sergent 伍長
 sergent は『ロワイヤル仏和中辞典』では「軍曹」と訳されているが、『小学館ロベール仏和大辞典』では「(陸・空軍の)伍長」と訳されている。次の項目の説明を参照。

 adjudant 軍曹
 『ロワイヤル仏和中辞典』でも『小学館ロベール仏和大辞典』でも、adjudant は「曹長」と訳されている。しかし、日本の「曹長」は下士官の中の一番上の階級だが、フランスの「adjudant」は下士官の中で上から2番目(新設された major を含めれば上から3番目)の階級であり、位置づけがずれる。
 現在のフランス陸軍の下士官 sous-officiers は下から順に sergent, sergent-chef, adjudant, adjudant-chef, major の5つで構成されるが、このうち sergent-chef は 1928年、major は 1972年に新設された階級なので、この2つを除外すると、下から順に sergent, adjudant, adjudant-chef となる。日本の下士官は、伝統的には下から順に伍長、軍曹、曹長で構成されるので、sergent=伍長、adjudant=軍曹、adjudant-chef=曹長という対応関係になる。
 なお、現在のフランス語の adjudant には比喩的に「威張った人、高圧的な人」という意味が残っているが、昔の軍隊関係のユーモラスなイラストを見ると、adjudant は最も身近な直属の上官で、おっかないものの少し親しみをもって描かれることが多く、日本語の「鬼軍曹」のイメージにぴったりである。

 adjudant-chef 曹長
 adjudant を曹長と訳すと、その上の階級の訳語を当てざるをえず、『ロワイヤル仏和中辞典』では「主任曹長」、『小学館ロベール仏和大辞典』では「上級曹長」という一般にはなじみの薄い訳語が当てられている。しかし、上のように adjudant=軍曹とするならば、adjudant-chef こそ「曹長」と訳すのにふさわしい。「-chef」には「長」という語感があり、ぴったりである。

ロワイヤル
仏和中辞典
小学館ロベール
仏和大辞典
採用した訳
adjudant-chef主任曹長上級曹長曹長
adjudant曹長曹長軍曹
sergent軍曹伍長伍長
caporal伍長上等兵、伍長上等兵

 参考
 フランス国防省 HP(陸軍の階級についてのページ)






(追加予定)




















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