コンプレザンス印
コンプレザンス印 1
このページでは、いわゆる「コンプレザンス印」、すなわち本来の目的とは異なる意図をもって捺された印(たとえば消印であれば、郵便物に貼られた切手を再使用できなくするという本来の目的とは異なる意図のもとで捺された消印)が捺された第一次世界大戦中の葉書を取り上げてみたい。
そして、どのような意図のもとで、そうした消印が捺されたのかを考えてみたい。
ただし、以下で取り上げる葉書には、文面はまったく記されていない。
日付印の場合
次の絵葉書は、第一次世界大戦で主戦場となった場所に近い、フランス北東部ロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県の街、リュネヴィル Lunéville(当時人口2万人台)の破壊された街並みを写したもの。
写真説明には「1914年の戦争 リュネヴィル 火災後のアンヴィル街」と書かれている。右奥で歩道を歩いている人影は、背広と長いスカートを身につけた一般市民の夫婦だと思われる。
消印は「ムール=テ=モゼル県リュネヴィル 15年2月17日」。
裏面には、「ナンシー主要受入局 ギヨンお嬢様」とのみ書かれている(RP は Recette Principale「主要受入局」の略で、中央郵便局のようなもの)。
ナンシーは当時人口12万人の都市。番地が記載されておらず、住所が不完全なので、もちろんこのまま差し出しても届くわけがない(こうした書き方で、郵便局内に勤務している人に差し出す場合もあったが、その場合は通常は肩書きを記した)。
郵便料金という点でも、当時の葉書の料金は通常は10サンチーム、5文字以内なら5サンチームだったから、いずれにせよここに貼られている1サンチームの切手では届かない。
そもそも、差出人の名もサインも書かずに葉書を出すということ自体、考えにくい。
おそらく、リュネヴィル近辺にいた一般市民または兵士が、確実にその瞬間、その場所にいたことを記録に残すために、わざと当時の最低額の1サンチームの切手を貼り、きれいに消印を捺してもらったのだと推測される。
このように、本来の目的(切手を再使用できなくするという目的)とは異なる意図で消印が捺されているので、これは「コンプレザンス印」だということができる。
同一の消印が捺された同様の葉書が手元に多数あるので、以下に掲載しておく。
先に葉書の写真説明の部分を訳し、場合によっては写真についてのコメントを加えた。
裏面はすべて同じなので、省略する。
1914年の戦争
リュネヴィル カスタラ通りとシナゴーグ(ユダヤ教会堂)(※)
(※)立派なひげを蓄えているのはユダヤ人だろうか。十字の腕章をしているので、赤十字または病院関係者ではないかと思われる。
1914年の戦争
リュネヴィル 爆破されたヴィレール橋(※)
(※)当時は、ドイツ軍の進撃を遅らせるために、ドイツとの国境に近い地域にある橋の多くがフランス軍の工兵隊によって爆破された。その後、新たに橋を渡す必要が生じた場合は、釣舟を一列につないで固定し、板を渡して人馬が通れるようにした。
1914年の戦争
リュネヴィル 爆破された大水車橋(※)
(※)橋の左側には一般市民の姿が見える。
1914年の戦争
リュネヴィル近郊 戦場フレスカティ近辺の廃墟
1914~1915年の戦争
リュネヴィル近郊 砲撃後のレオモン(※)
(※)手前に立っている二人は兵士で、右側は十字の腕章をしているので衛生兵だと思われる。
1914~1915年の戦争
砲撃後のヴィトリモン(※)
(※)よく見ると、この家に住んでいたらしい女性たちが立っている。
1914~1915年の戦争
砲撃後のヴィトリモン(※)
(※)砲弾によって地面が大きく窪んでいる。
1914~1915年の戦争
ヴィトリモンの廃墟
1914~1915年の戦争
破壊されたヴィトリモンの村(※)
(※)よく見ると、廃墟を前にして茫然としているような人々が写っている。
この一連の絵葉書に15年2月17日の日付入りの消印(「コンプレザンス印」)を捺してもらった人は、戦争という未曽有の出来事に自分が居合わせたことを永遠の記録として残しておきたいと思ったのではないだろうか。
裏面の「ギヨンお嬢様」というのは、おそらく自分の娘ではないかとも想像される。当時は、子供でも絵葉書をコレクションすることが行われたからである。
いずれにせよ、これらの絵葉書は、「記録」や「記念」の意味をこめて、まとめて封筒に入れて送られた(または直接手渡された)のだと思われる。
前線での部隊印の場合
兵士が差し出す手紙は、郵便料金が免除されたが、免除されるためには軍当局(自分が所属する部隊など)の印をもらう必要があった。前線の部隊であれば、郵便物の取集をおこなう「郵便物担当下士官」によって「主計及び郵便」TRESOR ET POSTES と書かれた印が捺された。
次の葉書は、宛名も文面も記されていないが、この印だけが捺されている。
この葉書の印については、二通りの解釈が可能だと思われる。
一つは、通常なら宛名や文面が記された葉書を受け取ったあとに印を捺すべきところ、気のいい郵便物担当下士官が事前に印を捺して兵士に配った可能性。
もう一つは、最初から誰かに差し出すつもりはなく、単に郵便物担当下士官が従軍の記念とするために捺して自分で取っておいた可能性(すなわち「コンプレザンス印」)である。
しかし、次の例はどうだろうか。
何も書かれていない葉書に「主計及び郵便」TRESOR ET POSTES と書かれた4種類の印が捺されており、郵便区も56と121で異なっている。
この場合は、最初から葉書を文通に使うつもりはなく、記念のために、またはおもしろがって捺した「コンプレザンス印」であることは明らかである。
右下の TUÉ À L'ENNEMI(直訳すると「敵に殺された」つまり「戦死」の意味)という印は、ほとんど見かけることがない希少なものなので、やや不謹慎ではあるが、おもしろがって捺したくなる気持ちもわかる気がする。
もともと、大戦中は、多くの郵便物が軍事郵便扱いで郵便料金が免除となったので、郵便物に切手が貼られている割合が低く、その代わりに非常にさまざまな印が使われ、その種類は多種多様を極めた。
いわば「切手」よりも「印」のほうが主役だったともいえる。
そのため、それまでとくに消印というものに興味などなかった者でも、いろいろな消印を目にして興味をそそられ、意味もなくぺたぺたと消印を捺すこともあった。
以上で取り上げた前線の部隊印は、「郵便物担当下士官」が捺すことが多かったらしい。郵便物担当下士官は、こうした印を自由に捺すことができる立場にあったからである。
その他、本ホームページで取り上げた中で、「コンプレザンス印」といえるものとしては、次のものがある。
- 1915年8月5日-「ラ・ブラバンソンヌ」
ドイツ占領下のベルギーで、ドイツの切手を使わず、あえてベルギーの切手を貼り、消印を捺してもらった、反骨精神あふれる葉書。
関連ページ
コンプレザンス印 2
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