フランスの葉書の歴史
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フランスの葉書の初期の歴史
フランスとヨーロッパにおける葉書の初期の歴史を年表風にまとめておきます。葉書に関しては、ドイツ語圏の国(オーストリアとプロイセン)が先進国だったことがわかります。
1840年
5月1日、イギリスで世界初の切手「ペニー・ブラック」が発行される。
同年、イギリスの作家セオドア・フック Theodore Hook は、この切手が貼られた葉書を受け取っており、ギネスブックなどはこれを世界初の葉書と認定しているが、個人の思いつきによる単発的なものであり、例外扱いにすべきだと思われる。
当時は、まだ葉書(むきだしで文面を読むことができる一枚の紙)は一般には存在せず、封書の手紙のみで、第三者に見られないようにしっかりと蜜蠟(みつろう)で封がされていた。
1860年代
フランス各地を結ぶ鉄道網が発達する。これがのちに郵便配達制度の基盤となる。
1865年
ドイツ南西部カールスルーエ Karlsruhe で開かれた第5回郵便会議において、ハインリヒ・フォン・シュテファン Heinrich von Stephan が葉書制度の導入を提唱するが、採用されない。
- ハインリヒ・フォン・シュテファンは、のちにドイツ帝国の郵政大臣となり、万国郵便連合 Union Postale Universelle の設立者となった人物。
1869年
このハインリヒ・フォン・シュテファンの主張を発展させた論文を、オーストリアのヴィーナー=ノイシュタット陸軍アカデミー政治経済学教授エマヌエル・ヘルマン Emmanuel Hermann がウィーンの新聞「ノイエ・フライエ・プレッセ」Neue Freie Presse に寄稿する。これが政治家の関心を惹き、葉書制度が急速に実現に向かうことになる。
10月1日、オーストリアの郵便局から世界初の官製葉書が発売される。葉書の誕生である。
同年末までにオーストリア=ハンガリー帝国内で1,000万枚近い葉書が流通する。
1870年
7月1日、プロイセン王国をはじめとする北ドイツ連邦でも葉書制度が導入される。プロイセンの首都ベルリンでは、この日だけで4万5,000枚の葉書が販売された。
7月19日、プロイセンとフランスの間で普仏戦争が勃発する。
フランス東部ストラスブールを占領したプロイセン軍の司令官アウグスト・フォン・ヴェルダー August von Werder 将軍は、負傷兵救護協会(のちの赤十字の前身)の要請を受け、ストラスブール市民や負傷兵が葉書で家族と連絡を取ることを許可する。
このときに占領下のストラスブールで投函された1870年9月14日付の葉書がフランスで流通した現存最古の葉書である。葉書には赤十字のマークがあしらわれ、プロイセンの切手が貼られていた。
プロイセン軍に占領されたフランスの他の都市でも同様の葉書が投函される。
封筒に入っていなかったため、プロイセン軍による検閲が容易であった。
9月19日、普仏戦争でフランス軍が敗退を重ね、パリがプロイセン軍に包囲される。陸路での行き来が絶たれたため、フランス軍は熱気球を利用するようになる。プロイセン軍による大砲の攻撃にさらされながらも、主に有人の熱気球が合計67回飛ばされ、多くの場合、数百km離れた地に無事着陸した。9月26日のデクレ(政令)により、熱気球で郵便物を発送することが正式に許可されたが、重量を軽くするために封筒の使用は禁じられた。フランス郵政省は特別に熱気球専用の葉書を作成し、外部との通信手段として活用された。これを最初の航空便とみなすことができる。
- このときに気球に乗って送られた現存する葉書は、鑑定書つきで数百万円程度で売られている。ちなみに、当時まだ飛行機は存在しない(ライト兄弟による世界初の飛行機の有人飛行は1903年)。
- 普仏戦争中に、パリの西にあるサルト Sarthe 県コンリ Conlie 近郊の町スィエ=ル=ギヨーム Sillé-le-Guillaume で書店を営むレオン・ベナルドー Léon Besnardeau が「ブルターニュ軍」向けにイラスト入りの葉書を印刷し、これが絵葉書の始まりとなったという伝説が絵葉書愛好家の間では広く知られてきた。しかし、1902年以降に発行された複製しか残っておらず、この話自体、まことしやかに作り上げられた虚構らしい。ある愛好家の話によると、今でもベナルドーが発明したと思っているのは彼の地元の人だけで、あとの人はそうではないと知っている、とのこと。ちなみに Besnardeau は通常は Bénardeau と同様に発音する。
10月1日、イギリスで葉書制度が導入される。
1871年
1月1日、スイス、ベルギー、オランダで葉書制度が導入される。
4月1日、デンマークで葉書制度が導入される。
1872年
ロシア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、カナダで葉書制度が導入される。
12月20日、他のヨーロッパ諸国に遅れて、フランスでも葉書制度の導入が正式に法律により決定される。
1873年
1月15日、フランスで実際に葉書が流通し始める。発売開始から1週間で741万2,700枚の葉書が販売された。
12月1日、日本でも葉書制度が導入される(明治6年)。
1875年
秋、ドイツ北西部オルデンブルク Oldenburg の書店兼印刷業者アウグスト・シュヴァルツ August Schwartz が木版画を用いた絵葉書(25枚セットの2シリーズ)を発行し、好評を博す。これが本格的な絵葉書の始まりとなる。
- これ以前にも、絵入りの葉書は単発では見られ、また企業の宣伝広告用の絵入りのカード(いわゆる「クロモ」)で郵便として流通したケースもあるが、carte postale(はがき)という文字が入った、葉書専用のもので絵入りのものとしては、このドイツのアウグスト・シュヴァルツのものが最初らしい。
1882年
フランスで初めて義務教育が制定され、初等教育(6~13才)が義務づけられる。これが識字率の向上につながり、葉書程度であれば誰でも書き、読めるようになる。
封書の手紙と違って、葉書では面倒な挨拶文などの作法が必要なく、好きなことを好きな順序で気軽に書けた(つまり「しきい」が低かった)ことも、葉書が多用される要因となったと思われる。
1889年
5月6日、パリ万国博覧会が開幕する。目玉となったのは、パリ万博にあわせて建設されたエッフェル塔であった。
万博の開幕から3か月後の8月3日、レオン=シャルル・リボニ Léon-Charles Libonis が描いたエッフェル塔の絵葉書の販売が開始され、合計30万枚販売される。これが絵葉書というものが一般に広く認知されるきっかけとなる。
- 万博の開幕当初にエッフェル塔に来た観光客から、記念となる葉書が販売されていないという苦情が寄せられ、急遽エッフェル塔を描いた絵葉書が作られることになったという伝説があるが、これは絵葉書が万博開幕に間に合わなかったことから生まれた作り話の可能性が高い。
このエッフェル塔の絵葉書のことを、イラストレーターの名前を取って la Libonis(ラ リボニ)と呼ぶ。
ちなみに、エッフェル塔は絵葉書で最も好まれる題材となり、これ以後、世界で累計50億枚以上のエッフェル塔の絵葉書が販売されることになる。
1891年
南仏マルセイユのドミニク・ピアッツァ Dominique Piazza が初めて写真を使った絵葉書を作る。マルセイユの名所を写真に収め、装飾を施したもので、Souvenir de Marseille(マルセイユの思い出)と書かれていた。
1890年台後半
写真および印刷技術の発達に伴い、写真を使った絵葉書が多く出まわるようになる。
なかでも、写真家のヌルダン兄弟 les frères Neurdein(エチエンヌ・ヌルダン Étienne Neurdein とルイ=アントワヌ・ヌルダン Louis-Antonin Neurdein)は、フランス各地の風景を写した膨大な数の絵葉書を発行した。Neurdein を略した ND または ND Phot という文字が記された彼らの絵葉書は、1914年時点で6万種類に達した。
1900年頃
徒歩ではなく自転車で郵便を配達することが一般的になる。
郵便ポストからの郵便物の取集は少なくとも1日1回、大都市では1日6回おこなわれ、配達もほぼ同じ回数おこなわれた。
当時は電話が普及していなかったので、今なら電話で済ませるようなことまで葉書を使ってやり取りされていたことが、多くの葉書の文面から読み取られる。たとえば、同じ市内の知人に宛てて「明日の待ち合わせには行けなくなった」とか、「何時何分の汽車で帰るから」と書かれた葉書など、ささいな用件を記した葉書がたくさん残されている。当時の葉書は、現代のEメールと同じような役割さえ担っていたと考えられる。
葉書の郵便料金は、同じ郵便局の管轄区域内であれば10サンチームであった。
ただし、所定の5文字以内の挨拶の語句(Amitiés や A bientôt など)だけを書く場合は5サンチームであった(1フラン=100サンチーム)。
大きな町の郵便局では、インク壺と下敷き・吸い取り紙を備えつけた専用のテーブルが置かれ、人々はゆっくりと椅子にすわって手紙や葉書を書いたり読んだりすることができた。
絵葉書は街中いたるところで売られていた(特に本屋、文具屋、雑貨屋、煙草屋、食料品店、菓子屋、洋服屋、帽子屋、床屋・美容院、喫茶店など)。
現在日本でも本屋の入口付近などでよく見かける回転式の絵葉書スタンドも、まったく同じものがこの頃にはすでに存在し、店先などに置かれていた。
路上でも、わずかな元手で始められる商売として、絵葉書を売る露店や行商人がいた。
海水浴場などの観光地や巡礼地の売店・土産店や、鉄道の駅の構内などでも多数売られていた。
(以上ような様子を写した写真の絵葉書が多数残されている。)
1900年に絵葉書の全盛期、すなわち「絵葉書の黄金時代」l'âge d'or de la carte postale が始まる。
- この「絵葉書の黄金時代」が終わるのは、第一次世界大戦が終わる1918年とする説、区切りよく1920年とする説、1925年とする説があるが、始まりを1900年とすることでは一致している。
これには、1900年に再びパリ万博が大々的に開催されたことも大きく関係していると言われており、実際、万博の各会場や建物を写した写真の絵葉書が実に多くの種類残されている。
1904年
1904年以前は、葉書の表面には住所と名前しか書いてはならない規則だった。そのため、裏面を全面イラストや写真にすることはできず、文字を書き込めるように余白を取る必要があった(特に写真の場合は、輪郭をぼかして余白をつくることが多く、こうした写真の輪郭の「ぼかし」のことを nuage(雲)と呼ぶ)。
1904年、葉書の表面を2分割して半分に住所と宛名、半分に文章を書くことが認められる。これにより、裏面は全面イラストや写真にすることが可能になり、絵葉書の発展に拍車がかかる。
- コレクターの間では、1904年以前の表面が住所と宛名専用になっている葉書のことを dos uni(直訳すると「つながった裏」)と呼び、1904年以降の表面が2分割された葉書のことを dos divisé(直訳すると「分割された裏」)と呼ぶ。
1905年
フランス東部ナンシーに拠点を置く葉書印刷会社ベルジュレ Bergeret 社の葉書の生産枚数が約1億枚に達する。この年、ベルジュレ社は他社と合同でナンシー合同印刷所 les Imprimeries Réunies de Nancy を設立した。
この年のフランス全体での葉書の合計発行枚数は約7億5,000万枚であった。
1914年
大戦前夜、パリ市内での郵便物の取集は1日11回、配達は1日7回おこなわれ、日曜・祝日も1日2回配達されていた (Almanach 1914, p.211)。
主要参考文献:
Daniel Bénard et Bruno Guignard, La carte postale - Des origines aux années 1920, Editions Alan Sutton, 2010
(発行枚数の数字は同書による)
関連ページ:
フランス語の筆記体
フランスの諺の絵葉書
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