演説草稿
フランスの臨時病院で療養中のベルギー軍人による演説の草稿
ある古書店から、1915年1月10日におこなわれた短い演説(スピーチ)の草稿の原物を入手したので、ここに掲載し、訳をつけておきたい。
葉書ではないが、当時の人の「生の声」であることには変わりない。
草稿は、折りたたんだ大きな紙に2ページにわたって、清書したような綺麗な字で記されている。
残念ながら、演説者の身分や氏名は書かれていないが、内容からベルギー軍に属することは明らかである。完璧な綴りと洗練された言葉から、高い教養が窺われ、ベルギー人のグループを代表するようにして発言しているので、おそらく将校クラスだったとも想像される。
草稿の最後には「ディナンにて、1915年1月10日」と記されている。ディナン Dinan はフランス北西部ブルターニュ地方の海沿いにある街。英仏海峡を挟んで向かい側はイギリスであり、ベルギー軍が戦っていたベルギー最西部の地域から船で移動しやすい場所にある(なお、ベルギーにもディナン Dinant という、若干綴りの異なる同じ発音の街があり、ここでは無関係だが、二つの街は姉妹都市になっている)。
演説の中で、病気のために今すぐ前線に合流できないのが最大の心残りだと書かれている一節がある。ここから、演説者たちは病気のためにベルギーの戦線を離れ、船を使って後送され、フランスの厚意によってディナンの臨時病院に収容されて療養中だったものと推測される。最後の段落には、乾杯の音頭をとるような言葉が記されているので、新年早々の晩餐会の席上だったのかもしれない。
演説全体は、フランス軍の将兵に呼びかける形をとりながら、ベルギーの将兵を温かく迎え入れてくれたことに感謝の意を表する内容となっている。
将校、下士官、兵士の皆様
皆様の心からの歓迎に感謝の意を表するために、私の名において、また私と祖国を同じくする者たちの名において、ひとこと発言することをお許しください。
我々は、フランスが友人であり、我々と同様に裏表がなく、信義に厚いことを存じてはおりましたが、しかし我々両国がどれほど姉妹関係にあるのかを今日ほど実感したことはありませんでした。
容赦ない粗暴なゲルマン人が我々の領土に押し寄せてきたとき、我々は一瞬たりとも躊躇しませんでした。圧制のもとで生きるよりも、自由のもとで死ぬ方がましだと我々には思われました。
もしドイツに屈していたとしたら、我々は横柄で野蛮な支配者を戴いていたことでしょう。ドイツに抵抗したことで、誠実で情け深いフランスという姉妹を得ることができました。
現在、我々がもっとも心残りとしているのは、病気ゆえに、前線に赴いて祖国を同じくする者たちに合流し、連合国軍のためにひと肌脱ぐことができないという点です。しかし、それは時期が先のばしになっただけであり、まもなく復帰し、我らの家の荒廃と我らの街の破壊を許しはしないということを、ドイツ人に見せつけてやることができるでしょう。
まもなく、望むらくは、連合国が力を合わせ、彼らは不正に得たものを返却せざるをえなくなるでしょう。そして我々は各自の家に帰り、住居を建て直し、我らの英雄を顕揚することができるようになるでしょう。
その時にこそ、我々はフランスに対し、我々が抱いた深い感謝の意を存分にあらわすことができるでしょう。
本日は、我々の共通の敵の破滅と、ウィルヘルム2世、フランツ・ヨーゼフ1世、メフメト5世の恥辱、そして連合国軍の成功を祈って乾杯します。フランス万歳、連合国万歳! ドイツ帝国には死を!
ディナンにて、1915年1月10日
関連ページ:ベルギーの葉書
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