「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

1915年の葉書(日付順)

1915年1月11日-ガリポリに向けて船に乗り込む憲兵

 次の葉書は、南仏マルセイユに到着し、これから船に乗り込んで地中海を東に進む予定の憲兵が、おそらく恋人に宛てて書いたもの。
 当時、塹壕を挟んでにらみあう西部戦線の膠着状態を打破するため、のちにイギリスの首相となる海軍大臣チャーチルの提唱に基づき、ドイツ側についたオスマン帝国(トルコ)を攻めるために、地中海北東部のダーダネルス海峡からトルコのガリポリ半島に上陸する「ガリポリの戦い」の準備が進められていた。
 この葉書の差出人は、軍隊の治安維持を担う憲兵として、これに従軍したものと推測される。
 この葉書の書かれた翌2月には、英仏軍は海上からオスマン軍への砲撃を開始し、ついでガリポリ半島への上陸を試みていくことになる。
 この葉書は封筒に入れて送られたらしく、のりで封をした跡に沿って「へ」の字型に封筒の紙の一部が貼りついている。

1915年1月11日

1915年1月11日

〔写真説明〕
マルセイユ - ジョリエット港と埠頭 - 大聖堂

〔本文〕
  マルセイユにて、15年1月11日
   愛する人へ
 やっとマルセイユに到着した。ここの港の眺めをおまえに送ろう。ここで我々は東方に向かう船に乗り込まねばならない。我々馬に乗った憲兵はフランス全土で15人しかおらず、それ以外の約400人はすべて徒歩の憲兵だ(*1)。この街はわりと綺麗だが、女たちは押しのけたくなるほど不潔だ。断言するが、とくに土地が美しかったのはオート=ロワール県(*2)だ。戦争から帰ったら、そこに旅行につれていってあげよう。そのために貯金をするよ、本当だ。困ったのは私のかわいそうな馬だ。もうへたばっている。

〔左上余白〕
だから、あまり心配しないでくれ。ただ、おまえを腕の中に抱きしめられたらしあわせなのだが。かわいい子よ。

〔右上余白〕
おまえのことを愛する者より。ちょくちょく手紙を書くようにするから、私のことは心配しないでくれ。(サイン)

(*1)憲兵にもいくつか種類があり、全部合わせればフランス全土で数万人規模になったが、ここでは港湾、海軍工廠、港湾近くの兵舎の治安維持や沿岸警備などを受け持つ「海上憲兵」について言っているのではないかと思われる。1914年当時、海上憲兵は494人おり、そのうち13人が将校だったCochet/Porte, s.v. Gendarmerie maritime)ので、上の数字とほぼ符合する。
(*2)オート=ロワール Haute-Loire 県はマルセイユの北側にある。



1915年1月12日-まだ「人間味」が残されていた戦争

 次の葉書は、軍医が見聞きたことを故郷に住む息子に書き送ったもので、おもしろいエピソードが書かれている。
 これを読むと、第一次世界大戦の戦闘がまだ完全には無機質な「機械」対「機械」の戦いではなく、挑発とそれを受けて立つといった、昔ながらの騎士道精神のような人間的な感情に基づいて武器を操っていた場合もあったことがわかり、興味深い。
 なお、この軍事葉書には書留のラベル(ピンクにRの字)が貼付されている。

1915年1月12日

1915年1月12日

〔差出人〕
郵便区95(*1)
第3野戦病院院長
二等 軍医正
Dr. H. ビエ

〔部隊印〕
主計及び郵便95
15年1月13日

〔本文〕
 1月12日
 愛するピエールへ 手紙をありがとう。お礼に、最近あった話をしてあげよう。ある日、ドイツ野郎の塹壕から一人の兵士が出てきて、将校のサイン入りの手紙をフランス軍のところに持ってきたんだ。そこにはこう書かれていた。「『あなたたちの砲弾はオモチャみたいなもので、痛くもかゆくも何ともありません。我々は笑って馬鹿にしています』とみなさんの砲兵隊にお伝えください」。歩兵がその手紙を砲兵のところに持っていったところ、砲兵はこう言った。「いつまで笑っていられるか、見ているがいい」(*2)。そこで、この伝令がやって来た塹壕に念入りに狙いをつけ、数台の大砲を向け、夜になってから「撃て」という号令とともに20発ほどの砲弾をその塹壕の周辺一帯に打ち込み、木っ端みじんにしてやったんだ。それ以来、ドイツ野郎どもは手紙を持ってきていないそうだ。どうだ、おもしろい話だろう。あいつら、うぬぼれるとどうなるか、思い知ったはずだ。この話が気に入ってくれるといいけれど。お母さんとアネットにも話してあげてくれ。二人には、私の代わりにたっぷりとキスをしておくれ。おまえには無数のキスを送る。おまえのことをとても愛している父より

〔宛名〕
オート=ガロンヌ県
トゥールーズ
アレクサンドル・フルタニエ通り3番地
ピエール・ビエ様

(*1)「郵便区95」はフランス陸軍第3軍団司令部に割り当てられていた。第3軍団は、当時はフランス北東部(大聖堂で有名なランスの北北西数キロ付近)に展開していたからAFGG, t. 10, vol. 1, p635)、このあたりで実際に起きた話だと考えられる。
(*2)この砲兵の言葉は、フランスのことわざ最後に笑う者がよく笑う」を連想させる。



1915年1月31日-飛行機に撃つのを眺めるのは楽しい

 次の葉書は、前線(写真に写されているフランス北東部ナンシーの近郊)にいる兵士が妻に宛てて差し出したもの。飛来したドイツ軍の飛行機にフランス軍の砲兵隊が砲撃を加えるのを見て、おもしろがっている。
 大戦初期は、一般に飛行機は上空からの偵察用に使われることが多かった。

1915年1月31日

1915年1月31日

〔写真説明〕
ナンシー(*1) - スタニスラス広場 - ジャン=ラムールの鉄柵(18世紀)

〔紫の大きな女神座像の印〕
第323予備歩兵連隊
中佐

〔写真面左下の書き込み〕
1915年1月31日
(サイン)

〔本文〕
1 (*2)
  1915年1月31日
  いとしいマドレーヌへ
 今日はとくに変わったことはない。我々はまだ、昨日おまえに知らせておいた後方に戻れという命令は受けていない。たぶん明日になるのだろう。
 あいかわらずとても寒く、ひどく凍りついていて、空はどんよりしている。たった今、ドイツ軍の飛行機が我々の頭上にやってきたので、我々の砲兵隊が1ダースほどの砲弾を放ったが、命中しなかった。
 飛行機に撃つのを眺めるのは本当におもしろいぞ。

〔宛先〕
ラ・ロシェル(*3)
リシュリュー通り
マドレーヌ荘
E. ガンドリオー奥様(*4)

(*1)ナンシー Nancy は当時のドイツとの国境に近いフランス北東部ロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県の都市。大戦中はドイツ軍による多数の砲撃・爆撃を受けたが、占領はまぬがれ、フランス軍の戦略的に重要な拠点としての役割を果たした。
(*2)よく「通算1通目」という意味で通信欄の隅に数字を書き込むことが多いが、本文には「昨日」も書いたようなことが書かれているので、この葉書の場合は意図が不明。
(*3)ラ・ロシェル La Rochelle はフランス西部、ボルドーの北側にある大西洋に面した人口3万人台(当時)の街。
(*4)写真面のサインと照らし合わせると、「E. ガンドリオー」は差出人の名。その奥様という意味で「E. ガンドリオー奥様」と書かれている(現在ではこうした呼び方・書き方はしないが、昔は一般的だった)。ファーストネームは、本文冒頭で呼びかけられているように、あくまでマドレーヌである。なお、まぎらわしいが、妻の住んでいる建物も「マドレーヌ荘」だったらしい。



1915年2月10日-アルザスから溺愛する娘への葉書

 次の葉書は、フランスからアルザス(アルザスの中でも開戦後にフランス軍が奪還した地域)に抜ける途中にあるビュッサンという村を通った兵士が、アンドレという名の自分の娘に宛てたもの。自分のことを「パパ」ではなく「パー」と呼んでいるが、そのように娘に呼ばせていたらしい。娘を溺愛していた父親の姿が目に浮かぶ。
 荒れた戦場では、こうした幼い娘との葉書のやり取りが心の慰めとなった兵士も多かった。

1915年2月17日

1915年2月17日

〔写真説明〕
ビュッサン
トンネル内から見た眺め(アルザス側)

〔写真内への書き込み〕
おまえのパーは、
1915年2月4日の夕方に、
自動車でこのトンネルを通ったんだよ。

〔本文〕
 ビュッサンにて、1915年2月10日
 かわいいアンドレ、おまえに父としての愛情をそっくり送る。ママの言うことを聞いて、おりこうにするように、励まそうと思ってね。
 学校ではしっかり勉強して、先生に愛され、かわいがられるようにするんだぞ。それこそ、よい生徒が示しうる最大の美徳だ。
 おまえのパーのいちずな愛情を示すことができる日を楽しみに待ちわびながら、それでは、さようなら。
 おまえにはたくさんのキスを。私の代わりにママにキスをしておくれ。二人のおばあちゃんと、それからおじいちゃんにも。この三人には愛情をこめた握手を送ります。

〔右上〕
 おまえのパー、ジャックより



1915年2月17日-アメリカでのドイツへの報復の世論

 次のアメリカの絵葉書は、アメリカに住むフランス人(おそらく女性)が、フランス在住のきょうだい夫妻に宛てて差し出したもの。アメリカの切手が珍しいと思ったのか、切手を剥がした跡がある。
 この葉書の約3か月後の5月7日、ドイツの潜水艦がイギリスの客船ルシタニア号を沈没させて千人以上の死者を出すという「ルシタニア号事件」が起き、この中に128人のアメリカ人が含まれていたことから、アメリカ国内で反ドイツ感情が高まり、のちにアメリカが参戦するきっかけとなったことが知られている。しかし、この葉書を読むと、ルシタニア号事件よりも前からすでに「ドイツへの報復」が話題になっていたことがわかる。

1915年2月17日

1915年2月17日

〔写真説明〕
米艦船オハイオ

〔引受消印〕
オハイオ州コロンバス
1915年2月17日

〔到着印〕
オーブ県ディヤンヴィル
1915年3月3日

〔宛先〕
フランス
オーブ県ディヤンヴィル(*1)
フォルモン・ベルトミー御夫妻

〔本文〕
 お兄様、お姉様 二週間ほど前にお便りを受けとりました。新しい動きがありましたら、さらなるお便りをお待ちしております。あまり戦況のことでお悩みにならないでください。すべてはうまくいくでしょうから、自信を持ってください。すでにドイツは空腹でへたばっています。ドイツは他の国から何も受け取ることができないので、遅かれ早かれ降伏を余儀なくされるでしょう。イギリス沿岸での封鎖(*2)の問題以降、アメリカ人はドイツへの報復を話題にしています。実際、連合国側の国々に対する共感は日ましに高まっています。いまのところ、他につけ加えることはありません。元気をお出しください。私の代わりに父と母にキスしてください。近いうちにお手紙をさしあげます。お二人にキスをします。E. S. ベルトミー

(*1)ディヤンヴィル Dienville はパリの東方シャンパーニュ=アルデンヌ地方オーブ県にある人口800人程度(当時)の村。
(*2)「封鎖」blocus(英 blockade)という言葉は、現在では通常、大戦中に連合国側のイギリスなどが海上を「封鎖」してドイツへの物資や食糧の輸入を阻止したことを指して使われる。しかし、この葉書では、差出人はドイツによるイギリスの船への攻撃・撃沈を指して使っているように思われる(これは19世紀初頭にナポレオンがイギリスを孤立させるために「封鎖」したことが念頭にあるのかもしれない。ちなみに1918年11月25日の葉書では、ドイツによる武力支配のことが「封鎖」と呼ばれている)。



1915年2月22日-ランス砲撃

 次の葉書は、パリの北東にある街ランス Reims 在住の一般市民の女性が書いたもの。有名なランス大聖堂は、第一次世界大戦の開戦直後の1914年9月4日以降、ドイツ軍の砲撃を受けて大きく損壊し、一時はドイツがこの街を占領した。マルヌ会戦(主戦は1914年9月6日~9日)後にフランス軍が奪還したが、以後、ランス周辺に両軍が陣取ってにらみ合うことになる。開戦時には人口11万人台だったランス市民の多くは避難したが、1915年初めの段階でまだ2万5千人の市民が残っていた。この葉書を書いた女性もそのうちの一人である。
 この葉書が書かれた1915年2月21日~22日は、とりわけドイツ軍の砲撃が激しく、この2日間で2,000発の砲弾がランス市街に落下し、市民20人が犠牲になった。葉書は同じマルヌ県内の親戚に宛てられ、小さな字でびっしりと書かれている。

1915年2月22日

1915年2月22日

〔本文〕
1915年2月22日、ランスにて おば様
20日付のお手紙を昨日21日に受けとりました。すばらしく時間ぴったりですが、お葉書の方はまだ届いておりません。いとしいおば様の知らせを得て喜んでおります。昨日の日曜、私たちは散歩に出て、街全体を見渡せる道を歩きました。そこからは、例の要塞が建っている丘も、また……ドイツの塹壕の白っぽい線まで(!)非常にはっきりと見えました。最近父が知りあった収税吏も一緒で、いろいろと興味深い説明をしてくれました。日が暮れると騒がしくなりました。すでに新聞でご存知かと思いますが、昨日の夕方と夜は規則的な砲撃を受けました。わが軍の大砲も怒濤のように応戦し、一風変わった雄大な嵐のようでした。ドイツ兵どもは私たちの成功が高くつくようにしようと考えており、私たちを欠乏させてやろうとしているようです。しかし彼らよりも強力な、私たちを守ってくださる方がいらっしゃいます(*1)。昨日の祈りにお気づきになりましたか? 私たちにとてもふさわしい、選ばれた祈りでした(*2)。自宅は窓ガラス一枚割れませんでしたが、今朝街に行ったら、悲しむべき状態になっていました。今朝はサン=ジャック教会(*3)ではステンドガラスの破片を踏みながら歩きました。昨晩はしばらく前方の地下室におりていました。愛情をこめて マドレーヌ

〔消印〕
マルヌ県ランス中央局
15年2月22日

〔宛名〕
マルヌ県シャロン=スュール=マルヌ(*4)
ティトン通り19番地
ブーランジェ様

(*1)イエス・キリストまたは守護聖人などを念頭に置いているものと思われる。
(*2)教会に行って聖務日課などに出席したら、そこで捧げられた祈りが時宜にかなった内容のものだった、ということだと思われる。
(*3)サン=ジャック教会はランス大聖堂のすぐ近くにある。
(*4)シャロン=スュール=マルヌChâlons-sur-Marne(現シャロン=アン=シャンパーニュChâlons-en-Champagne)はマルヌ県の県庁所在地。



1915年3月28日-陽気にふるまって戦地に赴く兵士

 次の葉書は、ドイツ側についたオスマン帝国(トルコ)と戦うために、南仏マルセイユからダーダネルス海峡に向かうことになった兵士が、おそらく両親または残してきた家族全員に宛てて書いたもの。この兵士は、これから「ガリポリの戦い」に臨むことになる。
 「トルコ人はドイツ人ほど恐れるに足りない」と書かれているが、本当にそう思っていたのだろうか、あるいは両親や家族を心配させないためにこう書いたのだろうか。

1915年3月28日

1915年3月28日

〔写真説明〕
マルセイユ-ベルザンス通り

〔本文〕
  マルセイユにて、1915年3月28日
 4月1日にマルセイユを出発し、ニースの近くのサン=ラファエル(*1)に行くことになりました。いくつの部隊が集結するので、数日そこに留まることになります。
 ダーダネルス海峡に行くよう指令が下り、とてもよかったと感じています。トルコ人はドイツ人ほど恐れるに足りないからです。それに、国境(*2)よりも危険ではありませんから。行き先がはっきり決まったら、住所をお知らせします。くれぐれも、しっかりなさってください。私がマルセイユから出発するからといって、あまり悲しまれないよう。私は陽気に出発するのですから。皆さんにキスを送ります。ジョルジュ

(*1)サン=ラファエル Saint-Raphaël は地中海に面した、マルセイユとニースの間にある人口5千人程度(当時)の街。
(*2)「国境」とは、おもにフランス北東部の独仏国境(独仏とベルギーとの国境を含む)を指す。ちなみに、開戦直後(1914年8月)の約3週間にアルザス、ロレーヌ、ベルギーでおこなわれた複数の戦闘を総称して「国境の戦い」Bataille des Frontières と呼ぶことがあるが、これによりフランス軍は死亡・負傷・行方不明等により約25万人の兵力を失った。

 ガリポリの戦いについては、「1915年5月29日-ガリポリの戦いに赴く兵士への手紙」も参照。



1915年4月23日-戦闘直前の重苦しい雰囲気

 次の葉書は、写真を葉書にそのまま現像して作られた「カルト・フォト」と呼ばれるもので、四人写っているうちの誰かが差出人である。泣いている兵士もいるなど、戦闘に出かける直前の部隊に極度の緊張感が走っているようすがよくわかる。これに先立って、たとえば砲弾が降りそそぐ中に突撃していくような、よほど非人間的なひどい戦闘を経験したのかもしれない。
 葉書の相手は友人らしいが(オクターヴは男の名)、一般に、妻や両親には心配させるようなことはあまり書かず、友人には本音を漏らす傾向がある気がする。

1915年4月23日

1915年4月23日

ボモン(*1)にて、1915年4月23日
 親愛なるオクターヴへ
 ぼくのことを忘れていないことがわかり、うれしく思いつつ、返事を書く。この葉書を送ろう。どれがぼくだかわかると思うけれど、あまり写りがよくない。仲間が写してくれたもので、カメラの調子がよくないから。一緒に写っている三人は、一緒に戦火をくぐった仲間だ。見てのとおり、四人とも楽しくはない。ここに到着してから、まだ何もしていない。かつてないほどぼくは怠け者だ。親愛なるオクターヴよ、君には言うことができるんだが、これから再び戦いに出かけようとしているんだ。上層部の連中は、すっかり留守部隊をからっぽにし、我々を15年徴集兵(*2)と一緒にして出発させようとしている。我々ベルフォール(*3)出身の約8千の兵が戦いに赴く準備が整っている。使える者はどんな者でもかき集め、歩兵連隊を作ろうというわけだ(*4)。まだ戦争は終わっていないからね。8月よりも前には終わりそうにないよ。あっちでもこっちでも、みんな嘆いている。泣いているやつもいる。事が順調に運べば運ぶほど陰うつになる。でも、しかたないじゃないか、勇気を持たないと。きっといつか終わるはずだから。さしあたって、他に特に書くべき新しいことはない。ご両親によろしく。親愛なるオクターヴよ、心からの握手を受けとっておくれ。

(*1)ボモン=スュール=セーヌ Bosmont-sur-Serre(略してボモン)は、フランス北東部ピカルディー地方エーヌ県にある人口300人程度(当時)の村。ランス Reims の北方50 kmほどのところにある。
(*2)15年徴集兵とは、1915年に20才になる(つまり1895年生まれの)兵隊のこと。この葉書が書かれたのが1915年なので、20才になったばかりの新米兵を指す。なお、差出人はおそらく30才台くらいの年季の入った兵士ではないかと思われる。
(*3)ベルフォール Belfort はフランス東部にある、アルザス地方に接する地域。差出人はベルフォールの出身だったと思われる。
(*4)連隊を再編する必要があるということは、戦闘で部隊が壊滅的な被害を受けたことを意味する。なお、このあたりは軍上層部に対して皮肉な調子で書かれている。



1915年5月10日-弟が行方不明になった女性を慰める葉書

 次の葉書は、比較的戦地に近いヴォージュ県に住む女性が、パリに住む女性に宛てて書いたもの。差出人も受取人も、ともに夫や兄弟が兵士となっていて、手紙が来ないので心配しているようすがわかる。
 とくに、受取人は弟(または兄)が戦地で行方不明になったらしく、これに対して差出人は、捕虜になった可能性もあるといって慰めている。

1915年5月10日

1915年5月10日

〔写真説明〕
シャルム(*1)(ヴォージュ県)-市役所広場

〔本文〕
  シャルムにて、1915年5月10日
   親愛なるルイ奥様
 心のこもったお葉書と幸運の鈴蘭を受けとりました(*2)。祈念のお言葉、ありがとうございます。これが実現することを願っています。逆に、私のほうからは、まもなくご主人が無事に戻られることを心から祈っております。信じて、あまり思いつめてお考えになりませんように。弟さんについても、まだ希望をお捨てになりませんよう。私たちのほうも、あなたと同様、いまだに便りがありません。よい知らせをお受け取りになるとよいのですが。もしかして捕虜になったのではないでしょうか。ご主人にどうぞよろしく。あなたに対しては、

〔上部の書き込み〕
女友人からの感謝と心のこもったキスを贈ります。お母様とお姉さまにもよろしく。
 いまシャルムにおりますが、ランベルに戻ります。
  シャトランより

〔引受消印(右)〕
ヴォージュ県ランベルヴィレ(*3)
15年5月12日

〔到着印(左)〕
主要受入局 配達
15年?月?日

(*1)シャルム Charmes はフランス北東部ヴォージュ県にある人口3千人台(当時)の街。要塞の築かれていたトゥール Toul とエピナル Epinal の中間に位置し、防御が手薄だったことから、大戦初期にドイツ軍がここを通過しようとして攻めてきたが、カステルノー将軍率いるフランス軍が撃退した。
(*2)幸運を呼ぶものとして5月1日に鈴蘭を贈る習慣は、今でも残っているが、当時から存在した。遠方の人に対しては、鈴蘭を押し花にして手紙に同封することもあった。
(*3)ランベルヴィレ Rambervillers はシャルムの30 km西にある人口5千人台(当時)の街。この葉書を投函した場所について、本文の冒頭には「シャルムにて」と書かれているが、末尾に「いまシャルムにおりますが、ランベル(ランベルヴィレの略称)に戻ります」と書かれており、この消印から、実際には本文冒頭の日付の2日後にランベルヴィレから投函されたことがわかる。

 なお、この葉書は宛先が書かれていないのに、切手に消印が捺され、届けられている。これは、穴のあいた封筒に入れて送られたため。



1915年5月10日-駆逐艦エピウーの乗組員からの葉書

 次の葉書は、英仏海峡に面する港街ル・アーヴルに停泊していた駆逐艦「エピウー」の乗組員が、この駆逐艦の写った市販の絵葉書を使って、友人の夫妻に書き送ったもの。
 この葉書が書かれた1915年5月10日は、有名なルシタニア号事件(ドイツの潜水艦によってイギリスの豪華客船ルシタニア号が沈没、多数のアメリカ人乗客を含む千人以上が死亡し、のちのアメリカ参戦の要因の一つとなった事件)が起きた5月7日の3日後にあたる。
 葉書の中で、明日から「潜水艦を駆逐しに出港」することが語られているが、これは英仏海峡の近辺でドイツの潜水艦を駆逐することを指すと思われる。

1915年5月10日

1915年5月10日

〔写真説明〕
駆逐艦「エピウー」(*1)

〔写真面の書き込み〕
若き友人の思い出
(サイン)

〔本文右横の書き込み〕
ル・アーヴル(*2)にて、1915年5月10日

〔本文〕
 レーご夫妻
 さきほどオーレリーからの手紙を読んで、うれしく感じました。ご心配なく。私の状況については動きがあり次第お知らせします。アンドレがどうしているか知らせていただけると有難いのですが。たぶん元気にしていると思いますが。
 我々はシェールブール(*3)に1週間とどまり、小さな修理をしてからこちらに来ました。帰途、ものすごい嵐に襲われました。夜間、70海里(130 km)進むのに、いつもなら4時間のところ13時間もかかりました。そのため、今朝はみなあまり生気がありませんでしたが、時間がたてば元気になるでしょう。明日はまた潜水艦を駆逐しに出港します。
 私のこの艦艇をご覧になって、いかかですか? 小さいでしょう。船に乗るのも、いいことばかりとは限りませんよ。心からの握手を送ります。
 敬具 ジョルジュ・ドゥーラ

(*1)駆逐艦エピウー Épieu は、当時は英仏海峡で活躍しており、1915年9月以降に地中海方面に移動した (Cf. Navires de la Grande Guerre)。左舷に見える EP の文字はエピウーを意味する略号。
(*2)ル・アーヴル Le Havre はフランス北西部ノルマンディー地方のセーヌ河の河口にある港街。英仏海峡に面している。
(*3)シェールブール Cherbourg も英仏海峡に臨むフランス北西部ノルマンディー地方の突端(ル・アーヴルよりも西寄り)にある港街で、海軍の造船所があった。ここからル・アーヴルまでは「70海里」離れている。なお、差出人は「海里」を km 単位に換算するにあたって「120 km」と書いてから「130 km」と書き直している。



1915年5月15日-アルザス奪還

 次の葉書は、アルザス地方の中心的な町の一つ、タン Thann から差し出されている。
 17世紀以来フランス領だったアルザス地方は、1870年の普仏戦争でドイツがフランスに勝利すると、ロレーヌ地方の一部とともにドイツ領に編入され、オー=ラン県はオーバーエルザス県と名称を変えた。アルフォンス・ドーデの有名な短編小説『最後の授業』が書かれたのはこの直後のことで、周知のように、この小説はドイツ領となったアルザスではフランス語を教えることが禁止されたのに伴い、フランス語の「最後の授業」が行われる場面を描いたもの。この普仏戦争を境にして、フランスでは反ドイツ感情が生まれ、この地域の奪還がフランスにとってドイツとの戦いの大きな動機の一つとなっていた。
 第一次世界大戦では、戦略的にはアルザスよりもその北のロレーヌ地方やベルギーに近い地域の方が重要だったが、以上のような象徴的な意味合いもあって、開戦後すぐにフランス軍はアルザスのなかでもフランス寄りに位置するタンの町を奪還し、ここがフランス領アルザスの中心地となった。フランス軍の最高司令官ジョッフル将軍もたびたびタンに足を運んでいる。このアルザス奪還を祝い(とはいえ決してアルザス全域がフランス軍の支配下になったわけではなかったが)、次の葉書のように、記念としてフランス兵たちがタン町役場の新旧二つの印を捺した葉書が多数残されている(参考:コンプレザンス印 2 のページ)。

1915年5月15日

1915年5月15日

〔写真説明〕
オート=アルザス - タン全景(*1)

〔左上の大きな紫の印〕
オー=ラン県 タン町役場(フランス語)

〔その右の大きな紫の印〕
オーバーエルザス県 タン町役場(ドイツ語)

〔右上の部隊印〕
主計及び郵便85
15年5月15日

〔宛先〕
オート=ガロンヌ県トゥールーズ
メス通り23番地
リオン・バダン様(*2)

〔本文〕
親愛なるリオンへ
このタンの町の葉書を送ります。この葉書には、1870年以前の町役場の古い印と、それ以降にドイツ人たちが使っていた印が捺してあります。いまや我々がタンの町を所有することになりましたので、古い印が再び有効となりました。このすばらしい土地で、元気でやっています。最近、うまくいっているとおわかりになると思います。皆さん全員にキスを送ります。弟より(サイン)
今日1915年5月15日

(*1)オート=アルザスはアルザスの南半分(標高の高い側、つまりスイス寄り)を指す。県でいうとほぼオー=ラン Haut-Rhin(直訳すると「ライン河上流」)県に相当する。このオー=ラン県のなかでもフランス寄りに位置するタンThannは、人口7,000人台(当時)の町。
(*2)受取人にはDr.(博士)の敬称がついている。



1915年5月16日-戦場のミサ

 次の葉書は、前線にいる父が子供に送ったもの。戦場でのミサのようすが語られている。5月16日は日曜だった。

1915年5月16日

1915年5月16日

〔写真説明〕
1914~15年の大戦 - 前線にて、陣地を変更する我らが75 mm砲の砲兵中隊

〔写真上部の書き込み〕
こうした砲弾車は、通常、6頭から8頭の馬で牽引される(*1)。

〔本文〕
 1915年5月16日午前6時
 あいかわらず森の中にいるが、今日は日曜で、ズワーヴ兵(*2)が大きな樫の木のもとに祭壇をしつらえ、これから司祭がミサを執り行おうというところだ(*3)。この祭壇はテーブルの役割を果たす単なる板でできていて、葉の茂みに囲まれている。司祭みずから若干の装飾具と儀式に必要なものを持参している。天気もよく、とりわけ1,200 m先にはドイツ野郎どもがいて、大砲の音が時々しかやむことがないのだから、なかなかの壮観だ。私の代わりにママとパンフェにキスしておくれ。それでは。
 父より サイン

(*1)大砲と弾薬を運ぶために、砲兵隊には人間の数とほぼ同数の馬がいた。
(*2)ズワーヴ兵とは、もとはフランス植民地だった北アフリカのアルジェリアで結成されたアフリカ人部隊の歩兵のことだが、その後、原住民が狙撃兵部隊に編入されるようになったのに伴い、ズワーヴ連隊はフランス人で構成されるようになっていた。
(*3)従軍司祭は、戦場に同行してミサなどを執り行い、兵士たちの精神状態を安定させる役割を果たした。フランスでは約2万5千人の聖職者が動員されたが、「汝殺すなかれ」という聖書の教えに反することがないよう、従軍司祭の他、武器を取らないですむように衛生兵・担架兵などとして活躍した。



1915年5月17日-塹壕でのベットの作り方

 次の葉書は、フランス北東部ロレーヌ地方ヴォージュ県にいたと思われる兵士が塹壕の中から妻に宛てて書いたもの。塹壕でベットを作った方法などが書かれている。
 また、故郷の祭りのことを思い出し、戦争はいつ終わるのかと自問している。故郷に関連して、この葉書には「ビュセ村」と「サン=ルイ」という地名が出てくるが、どちらもフランス国内に複数存在する地名なので、どれを指すのかはわからない。
 終わりの方には妻への愛がつづられているが、戦争以前には妻に対してとくに愛の言葉を口にしなかった者が、戦場から手紙を出すようになってそうした言葉を書くようになったというケースも多かったらしい。
 差出人は、まず通信面に文字を書き、書ききれずに写真面に続きを書いている。そして一度文面を締めくくってから、ふたたび追伸のように書き足している。

1915年5月17日

1915年5月17日

〔本文〕
   1915年5月17日
  いとしいかわいい妻へ
 今日、月曜はどしゃ降りの雨で、仲間のシュスと塹壕にいる。このために我々は地下に避難場所を作らせた。上に丸太が1メートル積んであり、砲兵隊のあらゆる砲撃から守られている。ただ、ひとつ不便なのは、正午だというのに、この時間でもろうそくをつけていなければならないことだ。ここは約2平方メートルで、かろうじて片側にベットを1台置き、もう1つを吊るすことができる。「ベット」と言ったのは、鉄線を編んで2本の棒を渡し、ハンモックを作ったからだ。その上で寝ているんだ。
 いとしいかわいい妻よ、昨晩はおまえからの手紙はなかった。たぶん、おまえはビュセ村から書いていて、手紙は今日の夜につくのだろう。今か今かと待ち遠しい。
 こちらは特に変わったことはない。いつ終わるのだろう。おそらく半年後だろう。この終わりを待つのに、どれほど勇気のいることか。いとしいかわいい妻よ、きのうはビュセ村でお祭りがあったはずだね。悲しいが、終わってしまった。

〔写真面の続き〕
こんど祭が再開されるのは、いつだろう。たぶん数年後だろう。我々がそこにいると仮定しての話だけれど。それが肝心だ。
 愛するいかわいい妻よ、手紙の最後に、おまえを抱きしめる。どれほど心の奥底からおまえを愛していることか。
 おまえのためだけに生きており、まもなく会えると思っている夫より (サイン)

 もしサン=ルイで再会できたらうれしいのだが。おまえのお母さんによろしく。熱烈なキスを送る。私の命をおまえに捧げる。 アンリ

〔写真上の赤字の説明〕
ヴォージュの峠

〔写真右下の赤字の説明〕
スノンヌの町(ヴォージュ県)
採石場から見た全景



1915年5月25日-イタリア参戦

 次の葉書からは、兵士となった息子を気遣いながら応援している父親の姿が目に浮かぶ。5月23日のイタリア参戦のことも書かれている。
 まず通信面に文字を書き、続きを写真面に書いている。この葉書は、紙幣と一緒に封書に入れて送られたことが文面からわかる。

1915年5月25日

1915年5月25日

〔写真説明〕
ルーレー(*1) ‐ 大通り

〔通信表面〕
親愛なる息子へ
 おととい送った葉書で、週に一度の食糧の小包を今日送るつもりだと書いたが、明日に延期せざるをえなくなった。というのも、蒸留酒を入れようと思ったのだが、今夜にならないと入手できず、郵便局が閉まってしまうからだ。ニオール(*2)の街から蒸留酒を持ってきてくれるヴァントルーさんは、今夜7時の電車でやっと帰るんだ。明日、小包に何を入れたか、マルトが手紙を書いて送ることにする。さしあり、ここに5フラン札2枚を同封しておく。
 昨日、19日付のおまえの手紙を受けとったが、その中で、20日に塹壕に戻ったと書いてあったね。とすると、塹壕から出てくるのは24日、つまり昨日だ。その4日間のうちに何も変わったことが起きず、無事に宿営地に戻れたと願っている。しかし、早くおまえからの手紙によってそのことを確認したいと思っている。
 今朝、払込みのためにサン=ジャン(*3)に行ったが、そこでたまたま勲章の授与式に立ち会った。戦場で勇敢な働きをして負傷した二人の兵士に対するものだった。授与式はこのうえなく感動的なもので、列席した人々はみな心を動かされていた。まっ先に私がね。
 今日はすばらしい日だ。イタリアの参戦を確認できたからだ。

〔写真面上〕
 昨日、イタリアがオーストリアに宣戦布告をした(*4)。目下、我々の側に立って、正義と自由の勝利を確保するために戦っている。これは平和の時を早め、我々の勝利にとって有利となるような出来事だ。こちらの土地では誰もがそのことを意識しており、この知らせを大喜びで歓迎した。
 ベルトは昨日2時に出発した。しばらくしたら戻ってくるはずだ。

〔写真面下〕
 おまえからの次の手紙を待ちつつ、みなで愛情をこめておまえにキスを送る。
 父より
 (サイン)

ルーレーにて、1915年5月25日

(*1)ルーレー Loulay は大西洋に近いフランス西部シャラント=マリティーム県にある人口600人台(当時)の村。差出人はこの村に住んでいたことが葉書の末尾からわかる。なお、文面からは、文法の規則が完璧に守られていることから差出人は教養があり、また毎週食糧の小包を送っているくらいだから、相当裕福な家庭だったことが察せられる。
(*2)ニオール Niort はフランス西部ドゥ=セーヴル Deux-Sèvres 県の県庁所在地。ルーレーの35 km北にある。
(*3)サン=ジャン Saint-Jean はサン=ジャン=ダンジェリ Saint-Jean-d'Angély の略だと思われる。ルーレーから約12 km離れた、人口7,000人程度(当時)の大きな街。
(*4)それまで中立を守っていたイタリアは1915年5月23日に宣戦布告した。この葉書が書かれたのは25日なので、正確には「おととい」ということになる。なお、実際にはイタリアが加わっても戦争の終結が早まることはなく、まだこれから3年以上も戦争が続く。



1915年5月25日-赤十字と修道女

 次の葉書は、負傷した兵士がフランス西部の病院から出したもの。
 一般に、前線の兵士が負傷すると、まず前線の近くの野戦病院に運び込まれ、さらに長期療養が必要な者は列車を使って前線から遠く離れたフランス南部、西部、北部の臨時病院に後送された。学校などの公共の施設だけでなく、修道院や、ホテルなどの民間の大型施設も接収されて臨時病院となった。

1915年5月25日

1915年5月25日

〔写真説明〕
ニオール - 全景(*1)

〔本文〕
 1915年5月25日
 皆様
 現在、病院にいることをお知らせするためにこの葉書を送ります。私は首に砲弾の破片を受け、負傷しました。18日の朝に手術を受け、たくさん流血しました。今日の夕方、初めて起きあがり、三十分ほど立っていましたが、それ以上は頭がくらくらして無理でした。軍医二人も一緒でした。私は赤十字の女性と修道女に世話されており、衛生兵による世話よりもはるかに快適です。病院には600人の負傷者がいます。

〔上部~右上余白〕
皆様もお元気で、それでは失礼します。
  シャルル・ゴドー
  ドゥ=セーヴル県ニオール
  サン・ジョルジュ奉仕
  混合病院(*2) 病床69

(*1)ニオールはフランス西部のドゥ=セーヴルDeux-Sèvres県の県庁所在地。
(*2)「混合病院」とは、一般市民と兵士の両方を受け入れた病院のこと。



1915年5月27日-瓦礫と化したアラス市役所

 次の絵葉書は、切手と消印がないので、封筒に入れて送られたと思われるが、誰にも出さずに自分で記念に書き記した可能性も考えられる。

1915年5月27日

1915年5月27日

〔写真説明〕
砲撃されたアラス(*1)- 1914~15年(*2)
市役所 - 正面

〔本文〕
  5月27日
アラスの最も美しい建築物の一つだったこの市役所は、傑作であった。広大な平野と街全体を見下ろす鐘塔も備えていた。しかし、今となっては積み重なった石の山が残っているだけだ。

(*1)アラス Arras はベルギーに近い北仏パ=ド=カレー県の県庁所在地。アラス市役所および併設の鐘塔は16世紀に建築された(近代になって鐘塔に時計が設置されたので、時計台のようにも見える)。開戦から2か月後の1914年10月、ドイツ軍の砲撃によって市役所と鐘塔が破壊された(大戦後に再建され、元通りの状態に復元されている)。
(*2)この書き方は、この葉書が1915年に発行・印刷されたことを示している。本文には書かれた「年」の記載がないが、ここから、この葉書が書かれたのは1915年の「5月27日」だったと推定される。

 参考までに、次の絵葉書は、破壊される前のアラス市役所と鐘塔を写したもの。1904年の消印が捺されている。

アラス市役所と鐘塔



1915年5月31日-新聞雑誌は都合のいい情報ばかり流す

 次の葉書は、フランス北東部ロレーヌ地方の前線にいる兵士が友人の「レネール夫妻」に宛てて書いたもの。
 新聞雑誌は、読者の「脳みそに詰め込む」ようにして都合のいい情報ばかりを誇張して書きたてているが、実情はもっと悲惨なものなのだということを、現場の兵士である差出人が少し憤慨しながら記している。
 綴り間違いが多数ある上に、かなり癖のある字なので、読むのに苦労する。

1915年5月31日

1915年5月31日

〔写真上の説明〕
     1914~1915年の戦争(*1)
    バドンヴィレール - 大通り
 (1914年8月12日、十字印をつけた建物において、81才のシュパッツ氏が
   殺された。占領中にバイエルン軍が通りに面した窓に向けて
    発砲した弾痕が建物に残っている)(*2)

〔本文〕
シャモア農場にて、1915年5月31日
 親愛なるご友人たちへ
 友人エドワールからは何度も便りをもらいました。お二人が一緒にいて元気でおられるのを知り、喜んでいます。お二人の境遇がうらやましい限りです。
 この呪われた戦争(*3)はだいぶ続くと私は思っています。イタリアの参戦で戦闘は激化するでしょう(*4)。
 私はあいかわらず塹壕に12日間いて、4日間休んでいます。ときどき、前線の兵隊はいい暮らしぶりをしていると、さんざん書きたてている新聞雑誌を見かけますが、そうした記事を書いているやつらに何週間か一緒に生活させてやりたいものです。そうしたら、あんなふうに脳みそに詰め込む(*5)権利があるのかどうか、わかるだろうというものです。一般市民が思っている以上に、ここには快適さと、とりわけ衛生が欠けています。
 しかし友人たちよ、あまり愚痴をこぼすのはやめましょう。我々が掲げている大義は、悲惨さをすべて埋め合わせてくれるでしょうから。
 ご家族のことは忘れたわけではありません。どうぞよろしくお伝えください。そしてお二人、レネールご夫妻には、心からの握手をお送りします。近いうちにお手紙を拝読できることを楽しみにしつつ
 老兵ボーミエルより

(*1)「1914~1915年の戦争」という書き方は、この葉書が1915年に作られたことを示している。当時は、戦争が1918年まで続くとは、誰も思っていなかった。
(*2)バドンヴィレール Badonviller はフランス北東部ロレーヌ地方ムルト=エ=モゼル県の人口2千人程度(当時)の街。大戦初期の1914年8月12日~9月25日の間、断続的にドイツ軍に占領された。とりわけ占領初日の8月12日には12人の一般市民が処刑され、多くの家に火が放たれるなど、ドイツ軍の暴虐ぶりが目立った。この写真でも、建物の窓の周囲に弾痕が集中しているところを写し、そのことを伝えようとしている。差出人がこの葉書を差し出した「シャモア農場」は、バドンヴィレール近郊にあった。
(*3)「呪われた戦争」maudite guerre という表現は、当時の私信にはたくさん出てくる。
(*4)それまで中立を守っていたイタリアは、この葉書の書かれた約2か月後の1915年5月23日になって、ようやくフランスの側に立って参戦することになる。
(*5)「脳みそに詰め込む」bourrer le mou (= bourrer le crâne) は当時のキーワードの一つで、要するに「洗脳する」、「プロパガンダを行う」などの意味。軍当局やマスコミなどが、軍や自国にとって不利な内容には触れずに、国民に戦争を支持させるような、都合のいい情報ばかりを誇張して流すことを指す。



1915年6月16日-戦争が終わったらまた釣をしよう

 次の葉書は、前線にいる南仏出身の兵士が、故郷に住む釣仲間に書き送ったもの。今年は一緒に釣をすることができないが、いずれまた釣ができるようになると慰めている。相手の男性は、組織名ではなく自宅の住所が書かれているので、おそらく召集年齢を超えた年配の人だったのではないかとも想像される。
 南仏トゥールーズはピレネ山脈のふもとにあり、海からは遠いので、トゥールーズを流れるガロンヌ川またはその支流での川釣りだと思われる。

1915年6月16日

1915年6月16日

〔宛名〕
オート=ガロンヌ県
トゥールーズ
サン=テランベール通り8番地
ウージェンヌ・マルセル様

〔差出人〕
A. ファヴァレル
補給部隊
郵便区5

〔青い女神座像の印(裏表同一)〕
サン=ドニ
補給部隊

〔黒い消印〕
1915年6月16日
主計及び郵便 5

〔本文〕
 少し遅くなりましたが、私のようすをお知らせすると言いましたので、約束を守ります。私は相変わらずとても元気で、家からの手紙で、あなたも元気であると聞いて安心しています。ルネに一言書いて、どんなようすか聞きたいので、彼の住所を教えてくれませんか。
 残念ながら今年は釣の解禁日に立ち会うことはできませんが、これはまたの機会に延期されただけであり(*1)、まもなくまたみんなで合流し、一緒に楽しく釣ができることを期待しましょう。そのときがくるのを待ちながら、親愛なる友人よ、私の大きな愛情と心からの握手をお受けとりください。(*2)
 (サイン)

(*1)「またの機会に延期されただけだ」Ce n'est que partie remise. という表現は、チャンスを逃して少しがっかりした相手をなぐさめるために、今でもよく使われる。
(*2)当時、男性が男性に手紙を送る場合は、「キスを送ります」ではなく「心からの握手をお受けとりください」という結語の挨拶がよく使われた。
 なお、サインは葉書末尾に書くスペースがないので、葉書の左上(本文冒頭)に斜めに書き込まれている。



1915年7月5日-塹壕での隠れんぼ

 次の葉書は、軍事郵便葉書に書かれたもの。葉書の右上には、フランスをはじめとする連合国側の国旗が印刷されており、日本の旭日旗も見える。
 左半分には、縦方向に氏名と所属を書くようになっているが、この差出人は郵便区しか書いていない。

1915年7月5日

1915年7月5日

〔差出人〕
郵便区168

〔部隊印〕
主計及び郵便168
15年7月8日

〔宛先〕
パリ
サンマルタン街99番地
ラヴェルデ様

〔本文〕
塹壕より(*1) 1915年7月5日
親愛なるいとこへ 私は健康です。少し疲れているけれど。でも少し休めるので、このときを利用して一筆お便りを差し上げます。
みなさんが元気でいることを願っています。みなさん三人を心から抱きしめます。
シャルル

〔右下の小さい字の書き込み〕
ドイツ野郎どもが約60 m先にいる。
隠れんぼだ。

(*1)差出人のいる具体的な地名は機密扱いで郵便物に書いてはならない決まりになっていたので、このような書き方になっている。



1915年7月6日-35人中、27人が戦死または負傷

 次の葉書は、フランス東部アルザス地方で戦闘に参加して負傷し、後送されてリヨンの近くの街トレヴーの病院に収容されていた兵士が両親に送ったもの。
 「小隊で35人いたうち」死亡も負傷もせずに「残ったのは8人」だけで、連隊も壊滅状態になって「再編」中というのだから、激しい戦闘だったことがうかがわれる。
 通常、写真の絵葉書を送る場合は、自分が滞在している街や村を写した絵葉書を送るものだが、ここではトレヴー近郊の村アルスの絵葉書で代用されている。

1915年7月6日

1915年7月6日

〔写真説明〕
アルス(*1)の大聖堂と旧教会(アン県)

〔本文〕
トレヴー(*2)にて、1915年7月6日
 親愛なる両親へ
 元気でいることをお伝えするために、一筆おたよりします。この病院に着いてすぐに、前線にいる仲間に手紙を書き、私のちょっとしたできごとのあとでどうなったか、またどれくらい死者が出たのかを尋ねました。その仲間が知らせてくれたところによると、小隊で35人いたうち、残ったのは8人で、多くは戦死したそうです。私はこんな形でも切りぬけられてよかったと思う必要があります。私といちばん仲がよい仲間二人は、私がいなくなったあとも攻撃したのに、かすり傷ひとつ負わずにすんだそうです。連隊は現在はサン=タマラン(*3)で再編のために休養しているそうですが、たしかにその必要があります。それでは、また。心からのキスを送りつつ。パリジヤンさんたちからお便りをもらいました。
 息子ジョルジュより

(*1)アルス Ars(現アルス=スュル=フォルマン Ars-sur-Formans)は、この葉書が書かれたトレヴーの近くにある村。この村で19世紀に教区司祭を務め、聖人に列せられたジャン=マリー・ヴィアンネー Jean-Marie Vianney が有名。
(*2)トレヴー Trévoux はフランス南東部の大都市リヨンの北20 km程度にある人口3千人程度(当時)の街。18世紀に「トレヴーの辞典」が刊行されたことで有名。第一次世界大戦中は「補助病院」が存在した (Altarovici, 2524)
(*3)サン=タマラン Saint-Amarin はアルザス地方オー=ラン県にある村で、大戦が始まってからフランス軍が奪還した地域にある。



1915年7月20日-毒ガスの砲弾を撃ち込む予定

 次の葉書は、フランス東部ロレーヌ地方で戦っている兵士が、フランス南西部ドルドーニュ県ペリグーに住む家族・親戚または親しい知人に宛てたもの。これから「窒息ガス」入りの砲弾を撃ち込む予定であることが書かれている。
 毒ガスが史上初めて大規模に使用されたのは、1915年4月22日、ベルギーのイープル(イーペル)でドイツ軍によってであった。ただちにパリの化学実験室の所長が呼ばれ、翌23日にはイープルに到着して毒ガスの成分が調べられた(この「イープル」という地名から、毒ガスは「イポリット」ガスとも呼ばれることになる)。以後、薬学学校、ソルボンヌ、コレージュ・ド・フランス、パスツール研究所など、あらゆるフランスの研究施設で毒ガス研究が進められ、さまざまな毒ガスと防護具が開発された。次の葉書は、イープルでの攻撃の3か月後に書かれたもの。
 毒ガスは、下手に使うと、風向きによっては使った側の兵士がやられてしまう。そのため、大砲の砲弾に混ぜて、なるべく遠く離れた敵陣に撃ち込んだ。

1915年7月20日

1915年7月20日

〔本文〕
戦地にて、1915年7月20日
  親愛なるマルクへ
 17日付の親切な葉書をありがとう。困ったことに、出発する日にちを正確に言うことができませんが(*1)、必要なときまでにはお伝えします。
 あいかわらず静かな戦区です。でも、まちがいなく数日中に新しい動きがあるでしょう。こちらには第20軍団がいて、今夜攻撃をしかけます。砲兵隊は窒息ガスの砲弾を使う予定です。
 それでは、親愛なるマルク、またロレーヌ地方の作戦について新しいことがあったらお伝えします。
 お元気で。無数のキスを。君の便りをもらえれば幸いです。
 ペリグーのいとこたちによろしく。(サイン)

〔写真左上の書き込み〕
ロレーヌ地方の思い出

〔写真上の説明〕
1914~1915年の戦争
フレスカティ(*2) - マオン農場

(*1)どこに「出発」するのかは書かれていないが、おそらく「休暇」によって差出人の故郷である(マルクのいる)「ペリグー」に戻ることを指しているのではないかと想像される。
(*2)フレスカティ Frescati はフランス東部ロレーヌ地方ムルト=エ=モゼル県の都市リュネヴィル Lunéville 近郊にあった集落の名。実際、1915年7月当時、第20軍団はリュネヴィル付近に展開していた(「軍団」は約4万人からなる軍の単位)。



1915年7月27日-デフォルメされたエッフェル塔

 次の葉書は、ある兵士がやはり兵士である兄に宛てたもので、それほど特別なことが書かれているわけではない。
 むしろ、エッフェル塔の写真をデフォルメさせた表面の図柄に着目してみたい。
 写真下の説明から、これはドイツの飛行船ツェッペリンによるパリ爆撃を受けて作られた絵葉書であることがわかる。ツェッペリンによる最初のパリ爆撃がおこなわれたのは1915年3月20日で、この葉書が実際に使われたのは1915年7月だから、この葉書は1915年3月~7月に作成・印刷されたと推定できる。
 通常は「複製を禁ず」と書かれるべきところ、機知をきかせた文句が書かれている。

1915年7月27日

1915年7月27日

〔写真下の説明〕
ツェッペリンの訪問にびっくり仰天し
エッフェル塔が揺らいでいる

〔右下の禁複製の注記〕
ドイツ野郎どもおよびその徒党の国々については複製を許可する

〔本文〕
  ヴィルフランシュ(*1)にて、1915年7月27日
    お兄様
 いただいたお葉書に返事を書きます。知らせを受けとり、喜んでおります。とくに、現在の状況からすれば、まずまずよい知らせでしたので。私と一緒にいた国土防衛部隊の兵士もヴェルダンの方の前線に行きました。いずれにせよ、お兄さんには何も厄介なことが起こらないことを希望しましょう。また、無事に家に帰れることを。そして、それがまもなくであることを。というのも、あの汚い豚のようなドイツ野郎どもは、おそらく今となってはあまり長くは持ちこたえられないと思うからです。私のほうはあいかわらずで、あまりひどい状況にはなく、あいかわらず元気です。お兄さんも元気でおられることを願っています。最後に、心からの握手を送ります。ご武運とご健康をお祈りします。敬具 弟ダニエルより

(*1)ヴィルフランシュVillefrancheという地名はフランスに10か所以上あり、どれを指すのかは不明。

 さて、このシュールレアリスムの絵画に見られるようなデフォルメされた図柄を見ると、有名なアポリネールのエッフェル塔のカリグラムを連想してしまう。
 アポリネールのエッフェル塔が男性らしく足を踏ん張るようにして力強く立っているのに対し、この絵葉書のエッフェル塔は女性らしく身をくねらせている点は対照的だが、片方は詩、他方は写真という媒体を用いつつ、どちらもいわば「シュールな芸術的冒険」となっている点は共通している。

⇒ アポリネールのエッフェル塔のカリグラム

 アポリネールのエッフェル塔の詩はスイスのチューリッヒで発行された雑誌『ミストラル』Der Mistral 創刊号(1915年3月3日号)に初めて発表されたので、アポリネールの詩のほうが早く作られたことになる。ただし、上のデフォルメされたエッフェル塔の写真の絵葉書を作成した人がアポリネールの詩を真似したのかどうかはわからない。
 おそらく、両者に直接の影響関係はなく、偶然エッフェル塔を題材として別々にできたのではないかとも思われる。



1915年8月19日-アミアン大聖堂に積まれた土嚢

 ゴシック建築を代表するアミアン大聖堂(北仏ピカルディ地方ソンム県)では、1915年、ドイツ軍の砲撃による被害を小さくするために、精巧な彫刻が彫られたファサード(正面)の3つのポルタイユ(大扉)の前に土嚢(どのう)が積み上げられた。
 次の葉書は、そのときの大聖堂のようすを写真に撮り、直接葉書に現像してできた「カルト・フォト」で、アミアンに来ていた人が友人である神父に宛てたもの。

1915年8月19日

1915年8月19日

〔宛先〕
シェール県
サン=タマン(*1)
ヴィルプレ神父様

〔本文〕
アミアンにて、8月19日
親愛なる友人へ
我らが美しき大聖堂を保護するために人々がどうしたのかを知っていただくことができる葉書をやっと入手しました。このようなわけで、司教はお入りになるときにポルタイユ(大扉)からはお入りにならず、建物の外ではお祭(*2)はそれほど豪華絢爛ではありませんでした。しかし、内部ではとても美しいものでした。私はまだここに12日ほど留まり、それからイシー(*3)に帰ります。思いと祈りによって、私はつねにあなたと一体です。 J.ド・ケプトポット
アミアン、コンスタンティヌ通り13番地

〔切手上の消印〕
15年8月19日
ソンム県アミアン駅(?)

〔右下の消印〕
15年8月21日
シェール県サン=タマン=モントロン

(*1)サン=タマン=モントロン Saint-Amand-Montrond(略してサン=タマン)はフランス中央部シェールCher県にある人口8千人台(当時)の街。
(*2)おそらく毎年8月15日に祝われる聖母被昇天祭だと思われる。
(*3)イシーは宛先のシェール県サン=タマンに近いソー=ネ=ロワールSaône-et-Loire県にある村。ここに差出人が住んでいたと思われる。

 ちなみに、アミアンよりも東寄りにあるランス大聖堂のファサード(正面)は、開戦の翌月の1914年9月の砲撃により、次のような無惨な状態になった。ポルタイユ(大扉)に彫られた聖人たちの頭部や体の一部が破壊され、一面に散乱している。

Reims



1915年8月30日-清潔な下着

1915年8月30日

1915年8月30日

〔写真説明〕
ナフメゾン(*1)

〔本文〕
 1915年8月30日
 愛するマリーへ
 あいかわらず同じ土地にいる。今、いそいで愛するおまえにこの文を書いているのは、これから場所を移動するからだ。そう連隊の大佐が告げにきた。ただし、地域は同じままだ。こちらではかなり快適にすごしており、いつも清潔な下着を身につけていられるという大きな利点がある。この土地の女たちが兵隊のために洗濯してくれるからだ。反対に、前哨では必ずしも服を洗ったり、必要なときに着替えたりすることができない。「大鍋」(*2)はこの近くにも落ちてくるけれど、南仏までは届かないよ(*3)。

(*1)ナフメゾンNeufmaisons(逐語訳では「九軒家」)はドイツとの国境に近いロレーヌ地方ムルト=エ=モゼル県にある人口500人程度(当時)の村。差出人の部隊はこの近くにいたものと思われる。
(*2)「大鍋」marmite とは、重砲の砲弾を意味する当時の俗語。これが落下すると地面が丸くくぼみ、高温で死体も溶けて「おかゆ」状になった。
(*3)この葉書は封書に入れられたらしく宛先が不明だが、この文面から、受取人(マリー)は南仏に住んでいたらしいことがわかる。ドイツ軍の大砲が飛んでくるのではないかと心配している相手に対して、冗談めかして書いたものと思われる。



1915年9月11日-神に祈ろう

 次の葉書は、前線からは遠いフランス南西部で軍務に就いていた兵士がいとこに宛てて送ったもの。「神に祈ろう、まもなくフランスが勝ってこの戦争が終わるようにと」という言葉が印象的。

1915年9月11日

1915年9月11日

〔差出人〕
ギルボー、ジャック
第49連隊
第30中隊
ジロンド県
スージュ(*1)

〔本文〕
 スージュにて、1915年9月11日
   親愛なるロジェへ
 よい葉書を受けとり、喜んでいます。筆不精だけれど許してほしい。でも言っておくけれど、よく君のことを考えているんだ。ぼくはバイヨンヌ(*2)で5か月すごしたのち、3週間前からスージュにいる。ここは仕事がきつく、塹壕で寝させられることもあり、1週間で25~30 kmも歩く。数日前から非常に暑い。一昨日、君のお母さんから便りをもらったよ。いったい、いつになったら君と会えるのだろう。神に祈ろう、まもなくフランスが勝ってこの戦争が終わるようにと。
 君のことを愛情をもって抱きしめる いとこジャック・ギルボーより

〔到着印〕
ジロンド サン=メダール=アン=ジャル
1915年9月12日7:30

〔宛名〕
郵便区4
第23竜騎兵連隊第3中隊第4小隊
ロジェ・モルソー様

(*1)スージュSougesは、フランス南西部ボルドー郊外のジロンド県サン=メダール=アン=ジャルSaint-Médard-en-Jallesにあるスージュ野営地Camp de Sougeを指す。
(*2)バイヨンヌBayonneは、大西洋に面した、スペインとの国境に近い街。差出人の所属する第49歩兵連隊はバイヨンヌに兵舎があった。



1915年10月4日-モロッコの港町タンジェの多数の兵隊

 次の葉書は、フランス植民地支配下にあったモロッコの港町タンジェ(タンジール)に到着した女性が、地中海に面する南仏の街セルヴィアンに住んでいた父親に差し出したもの。
 この女性がタンジェに来た経緯は不明だが、仮にそれまで父親と一緒に暮らしていたのだとすると、南仏セルヴィアンからいったん鉄道などでマルセイユまで移動してから、船に乗り込み、地中海を西に進んで、ジブラルタル海峡に面するモロッコ最北端の港町タンジェに上陸したと想定することができる。
 一般市民どうしのやり取りなので、もちろん切手(この場合はモロッコの切手)が貼られている。10月4日に差し出されたこの葉書は、マルセイユに着いたところで軍の検閲を受け、検閲印を捺されてから10月10日に父親のもとに届けられている。

1915年10月4日

1915年10月4日

〔写真説明〕
タンジェ、モロッコ、海岸

〔本文〕
タンジェにて、1915年10月4日
 お父様
 私たちはタンジェに着きました。街に見物にでかけましたが、兵隊がたくさんいました。とても元気でいます。お父様も元気でいることを願っています。
 キスを送ります。ルイーズ(*1)

〔宛先〕
フランス
エロー県セルヴィアン
地主
ルイ・ヴィダル様

〔引受消印〕
モロッコ、タンジェ
15年10月4日

〔到着印〕
エロー県セルヴィアン
15年10月10日

〔紫の大きな女神座像の印〕
戦争大臣
マルセイユ郵便検閲

(*1)ジブラルタル海峡を挟んでスペインの南隣に位置するモロッコは、当時は大きく2つに分割され、カサブランカを含む北側はフランスの保護下、南側はスペインの保護下に置かれていた。大戦前から、ドイツはフランスに対抗してモロッコの独立を煽る動きを見せていたので、そうした動きを鎮めるためにもフランスは一定の軍隊をモロッコに駐留させておく必要があった。開戦後は、ドイツにそそのかされた現地の部族とフランス軍との間で戦闘も発生している。他方、大戦が始まると数万人規模のモロッコ軍がフランスに渡った。逆に、前線でフランス軍に投降したドイツ兵捕虜の一部は、モロッコにも移送されてきた。そのため、この葉書に書かれているように、モロッコの要衝の港町タンジェでは多くの兵隊が入り乱れていたはずである。

 なお、貼られているモロッコの切手は、もともとフランス国内向けに使用されていたもので、描かれている女神は共和国を寓意的に図像化したもの。上端にはフランス語で「フランス郵便」POSTE FRANÇAISE と書かれ、女神が持つ板にはフランス語で「人権」DROIT DE L'HOMME と書かれているが、下端には「モロッコ」MAROC と書かれている。また、黒字で現地通貨の10サンチームを意味する10の数字とアラビア語が加刷(追加印刷)されている。

19151004b.jpg




1915年10月9日-治療中の兵士の病状報告書

 次の葉書は、臨時病院に収容されている負傷兵・疾病兵の健康状態を家族に知らせるために、主治医が二言三言記入して書き送るタイプの葉書。
 葉書の左上に小さな字で根拠となる法律とともに書かれているように、郵便料金は免除となった(ただし病院の院長の印が必要)。
 この葉書の場合、負傷兵が恥骨骨折によってパリの病院(消印にあるデュフルノワ通りはパリ西部の16区にある)に収容されていて、妻はパリの北東方面にある港街ル・アーヴルに住んでおり、負傷兵が「妻と子供に会いたがっている」ことが記されている。実際、家族が鉄道に乗って少し離れた病院に面会に行くこともあった。
 見やすいよう、印刷されている活字は黒字、手書きの部分と印は青色で訳した。

1915年10月9日

1915年10月9日

〔表面、左上〕
郵便料金免除
1871年5月30日の法律
1914年8月3日のデクレ

〔表面、中央上〕
フランス共和国
戦争省

〔表面、中央枠内〕
差出人(1)マルセル・ジャクマン
治療場所(2)パリ
軍事(3)
混合(3)
民生(3)病院
補足(3)
補助(3)  117

〔表面、右上〕
 軍事郵便
 (1)疾病兵または負傷兵の氏名および軍隊での地位
 (2)県および都市の名
 (3)当該兵が治療を受けている施設の名称を書き込むこと
 それ以外の呼称は抹消すること

〔表面、下〕
家族の住所 ジャクマン夫人
      セーヌ・アンフェリウール県
      ル・アーヴル
      バザン通り25番地

〔表面、左中の青文字の印〕
フランス女性連合
国土防衛補助病院 No.117
1915年10月9日

〔表面、右上の引受消印〕
パリ デュフルノワ通り
15年10月9日

〔裏面〕
治療中の兵士の病状報告書
 本報告書は、家族向けのものであり、当該兵または当該兵が指名した者の同意を得て送る必要がある。
 本報告書は、主治医の世話のもとで毎週作成し、送付する必要がある。

 a)病気または傷の性質および特徴
右足恥骨骨折
全体的に満足できる状態

b)負傷兵または疾病兵の述べる希望
当該負傷兵は妻と子供に会いたがっている

   主治医(サイン)

〔裏面、左下の大きな青い女神座像の印〕
国土防衛補助病院 No.117
院長

〔裏面、右下の到着印〕
セーヌ・アンフェリウール県ル・アーヴル
15年10月10日




1915年10月23日-毒ガスが一般市民の家にも届く

 次の葉書は、フランス北東部のランス Reims 近郊に住んでいた少女が父親に宛てて書いたもの。有名なランスの大聖堂は、侵攻してきたドイツ軍によって破壊され、その後もランス周辺では独仏両軍が陣取って戦いを続けていた。住民は避難組と残留組に分かれ、避難できる人は避難したために、相当人口は減ったものの、市内や近郊の村に残った人も多かった。ランスで小高い丘に登ると「ドイツの塹壕の白っぽい線まで」はっきりと見えたと書かれている葉書があるが(1915年2月22日の葉書を参照)、そうしたドイツの陣地から放たれた毒ガスの臭いが、一般市民の住む家でも感じられたことが次の葉書には書かれている。
 葉書を出した少女は、家族4人で住んでいたらしい。当時の学校で習う通りのきれいな筆記体だが、おそらく小学校高学年あたりなのか、たどたどしい文体で書かれている。葉書が真ん中で折れているのは、受け取った父親が折りたたんでポケットにでも入れておいたのだろう。

1915年10月23日

1915年10月23日

〔本文〕
  ヴェルジー(*1)にて、1915年10月23日
    いとしいお父さんへ
 この葉書は、たぶん、どうされているのかおたずねした手紙と同時に受け取られると思います。でも、たったいま、お父さんからのお手紙と受領証(*2)を受けとったことをお伝えするために、ひと言、書いておきます。こちらは前よりも静かになりました。たしかに、近くで戦っていましたが、2、3日前に戦いは終わりました。私たちは砲撃も受けませんでした。ドイツ野郎が塹壕の方から毒ガスを投げてきました。北風だったので、こちらでも臭いがしました。でも、なにも被害はありませんでした。ボーモンやクルムロワ(*3)も手つかずでは済まされないでしょう。きょうは晴れていて、午後にお母さんと少し出かける(*4)予定です。あいかわらず元気です。
 4人全員からのキスを送ります。あなたの娘
   スュザンヌより

(*1)ヴェルジー Verzy はフランス北東部マルヌ県ランス Reims から15 km 東南にある村。
(*2)「受領証」とは、「お父さん」が娘または家族に宛てて小包または郵便為替などを送ったときに郵便局の職員から渡された受領証を指すと思われる。それを手紙に同封して送ったらしい。
(*3)ボーモン Beaumont とは、ここではヴェルジーの隣村のボーモン=スュール=ヴェール Beaumont-sur-Vesle のこと。クルムロワ Courmelois はさらにその隣にあった村で、現在は他の村と合併されてヴァル=ド=ヴェール Val-de-Vesle 村となっている。
(*4)とりあえず「出かける」と訳した動詞 rader は意味不明。この地方の俗語なのか、子供だから書き間違えたのか、不明。



1915年10月31日-毒ガス攻撃

 次の葉書は、ドイツ軍の毒ガス攻撃を受けて負傷した兵士が書いたもの。
 毒ガスを吸いこむとなかなか完治せず、大戦が終了して数年たってから苦しみながら死んだという話も聞く。

1915年10月31日

1915年10月31日

〔写真説明〕
エペルネー - 全景(*1)

〔写真上部への書き込み〕
ロベール氏(*2)

〔左上の差出人の氏名〕
ロベール・ヴィクトル、第118(*3)
野戦病院15/17、第7号室
エペルネー

〔本文〕
 1915年10月31日
 親愛なるペリエ夫妻
 私は10月19日からエペルネーの病院にいます。ドイツ野郎どもはガスを使って我々を攻撃しました。恐ろしいことだと思っています。抵抗できる力も持たずに死んでいくのは恐ろしいことです。なんという致命的な一撃をわが連隊は耐え忍ばなければならなかったことでしょう。この窒息ガスを吸いこむと、とほうもない苦しみが襲います。本当にもう回復できないかと思っていました。しかし、私がしかばねを残すのは、まだこの一撃によってではなさそうです。少しよくなりかけていますから。あまり書く力もありませんが、私の友情の気持ちと心からの思いをお受けとりください。友人と近所の人によろしく。テレーズとローランスを愛撫します。アルフォンスからよい知らせはありますか。ロベール

(*1)エペルネーÉpernayはシャンパーニュ地方マルヌ県にある人口2万人超(当時)の街。大戦の初期と末期にはドイツ軍の攻撃を受けたが、それ以外の期間は、この葉書が書かれた頃を含め、前線から数十km離れていたため、野戦病院が数多く設置された。
(*2)この書き込みは、通信文とは筆跡が異なるので、「ロベール氏からの葉書」という意味で受取人(ペリエ夫妻)が書き込んだものと思われる。
(*3)「第118」は、おそらく第118歩兵連隊を指す。同連隊は1915年9月下旬~10月上旬にフランス北東部シャンパーニュ地方で戦っている。



1915年12月18日-何ごとにも終わりがある

 次の葉書は、前線にいる兵士が故郷の南仏のピアノの先生に書き送ったもの。
 現在のつらい状況を耐えようとして、「何ごとにも終わりがある」Tout a une fin. という諺を引きあいに出している。偶然というべきか、まったく違う人がこの3日後の1915年12月21日に捕虜に宛てた葉書でも同じ諺が書かれている。
 当時は塹壕戦によって膠着状態が続き、戦争がなかなか終わらなかったことを受け、このが特別な意味を帯びていたらしいことがわかる。

1915年12月18日

1915年12月18日

〔宛名〕
ピレネ=ゾリエンタル県
アルル=スュール=テック(*1)
ピアノ教師
M. ポンピドールお嬢様

〔差出人〕
P. バルテルミー
未到着(*2)
第32砲兵連隊
第25中隊
郵便区133

〔部隊印〕
主計及び郵便30
?年?月18日

〔到着印〕
ピレネ=ゾリエンタル県
アルル=スュール=テック
15年12月21日

〔本文〕
       15年12月18日
          親愛なる先生
 何ごとにも終わりがある! これは議論の余地のない、抗しがたい自然の法則です。私は地区30でしばらくよい時をすごしました。これからほどなくして地区133に移り、砲兵隊のいる私の場所に戻ります。全然うれしくはありませんが……しかし、しかたがありません。いや、すみません!
 そう、私は「何ごとにも終わりがある」と言いたいと思います。戦争にだって。そうではありませんか? しかし、すぐに終わりがやってくることは、まずありません。なんと忍耐がいることか!
 私はまずまず健康です。ひどい天候にもかかわらず、驚くほどよく持ちこたえています。大変ではありますが、できないことではありません。
 アルルでは何か変わったことはありますか? 教えていただけると有難いのですが。
      あなたの昔の教え子より 敬具(サイン)

(*1)アルル=スュール=テック Arles-sur-Tech はフランス南部、スペインと国境を接するピレネー山脈の地中海側にある人口2千人台(当時)の街。
(*2)「未到着」とは、本文の文面から察すると、「まだ砲兵第32連隊第25中隊のいる場所(地区133)に到着していない」ということらしい。



(追加予定)



⇒ 1916年










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