「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

1918年の葉書(日付順)

1918年2月19日-サロニカの戦利品とゴータの爆撃

 次の葉書は、1年半にわたって(つまり1916年8月以来)サロニカ(テッサロニキ)に遠征していた兵士が、フランスに戻るにあたり、パリの銀行家に宛てて書いたもの。相手に敬意を払った丁寧な言葉づかいで、教養を感じさせる文体なので、差出人も兵士になる前はある程度社会的に地位の高い人だったと想像される。
 本文には、戦利品として入手したドイツ軍の銃をパリに持ち帰りたいと書かれている。また、当時、パリはドイツ軍の爆撃機ゴータによる被害を受けていたので、それを気遣うようなことも書かれいてる。

1918年2月19日

1918年2月19日

〔写真説明〕
サロニカ(*1)-要塞の一角

〔本文〕
 1918年2月19日火曜
 エグレ様 1年半、故郷をなつかしむ思いを味わったのち、マケドニアから退去することになり、約50日間の休暇を得てフランスに戻ることになりました。ですから、もうこちらにはお手紙をお書きにならないよう、お願いいたします。パリに戻り次第、ちょっとご挨拶に伺うことができるかもしれません。今までドイツ野郎の銃を持ち運んできましたが、パリまで持っていけるかどうか、非常に疑わしく思っています。というのも、兵隊たちが持ってきた武器をここで集めていて、船に乗るときに没収しているからです。いずれにせよ、努力してみましょう。せっかく大事にしてきたのに、目的地まで持っていけなかったら残念ですから。
 聞くところによると、「ゴータ」の爆撃で、あなたの銀行がひどい目に遭ったそうですね(*2)。ショワズル通りの角のたばこ屋が全壊したとのことですから、キャトル・セプタンブル通り24番地も多少なりとも被害を受けられたことと思います(*3)。パリも大変になっていますね。
 握手できることを楽しみにしつつ、エグレ様、私からの確かな敬意に満ちた共感の念をお受けとりください。
     ルネ・ルセール

(*1)サロニカ(テッサロニキ)は、地理的にはバルカン半島にあり、ギリシアのマケドニア地方にあるが、大戦前は長らくオスマン帝国(トルコ)の支配を受けていたので、写真にはイスラムの服を着た女性が写っている。
(*2)大戦前期の飛行船ツェッペリンに代わり、大戦後期には爆撃機ゴータがロンドンやパリに飛来するようになった。ツェッペリンがパリを爆撃した1916年1月29日のちょうど2年後の1918年1月30日、今度はゴータがパリを爆撃し、死者三十数名、負傷者200人前後を出した。
(*3)ショワズル通りとキャトル・セプタンブル通りは、どちらもパリの中心部に近いパリ2区にあり、交差している。受取人は「キャトル・セプタンブル通り24番地」に住んでいたか、またはここに勤務先の銀行があったらしい。



1918年4月11日-憂鬱の虫

 次の葉書は、休暇をもらって故郷に戻った兵士が再び前線に戻るときに、後ろ髪を引かれる思いで残してきた恋人に宛てて出したもの。「憂鬱の虫」に襲われていることが書かれている。
 ずいぶん女々しい内容で、これで兵士としての務めが果たせるのかと心配になってしまう。傷心のためか、字も弱々しく、読むのに苦労する。

1918年4月11日

1918年4月11日

〔イラストの説明〕
パリからの思い(*1)

〔切手の消印〕(*2)
1918年4月11日
パリ北駅

〔本文〕
4月11日   パリにて
  いとしいマリー=ルイーズへ
 とてつもない憂鬱の虫に襲われて一筆お便りします。またあのかまど(*3)の中に出かけていくというのは、本当に気分が萎えます。
 現在、北駅でル・ブールジェ(*4)行の列車を待っています。たえずあなたのことを考えていますが、また会えるでしょう。ああ、悲しい。我慢してこらえていなかったら、泣き出してしまうところです。詳しく書くのはやめておきます、その勇気がありません。あなたがこの葉書を受けとる頃には、私は塹壕にいるでしょう。そこから詳しく書くことにします。どんなことがあっても、私を見捨てないでくれるといいのですが。
 あなたに首ったけで、たえずあなたのことを考えている者からの無数のキスをお受けとりください。
   アンドレ
あなたのお母様、レオンティーヌ、エミリエンヌ、ガストン、おばニームによろしくお伝えください。

(*1)イラストに描かれているパンジーは、フランス語で「考え、思い」を意味する pensée に通じるところから、当時の絵葉書では「あなたのことを思っています」という花言葉として使われることが多かった。なお、この絵葉書は量産されたらしく、「~からの思い」とだけ印刷されていて、あとから地名をスタンプで押す形になっている。
(*2)この切手は、いったん剥がしてから貼り直されているように見えるが、消印のインクはたしかに切手と葉書の両方にまたがって捺されているので、差出人が自分で貼り直したものと思われる。
(*3)「かまど」fournaise は「地獄の業火」や「灼熱の戦場」などの比喩として使われる言葉。
(*4)ル・ブールジェ Le Bourget はパリの北東にある街。ここからフランス北東部やベルギー方面に鉄道が通じていた。差出人の部隊もその方面にいたものと思われる。



1918年6月19日-頼もしいアメリカ軍

 次の葉書は、何らかの任務を帯びてフランス北東部トゥール Toul の近郊の村ヴィトリに来ていた兵士が、南仏(おそらく自分の故郷)にいる「先生」に書き送ったもの。
 トゥールにいるアメリカ軍を見て、頼もしいという感想を漏らしている。
 1917年の参戦当初は小規模な部隊しか派遣することができなかったアメリカ軍だが、翌1918年になると続々と大規模な部隊を送り込むようになった。
 すでに開戦から4年近くが経過し、多数の死者・負傷者・病人を出して疲弊しきっていたフランス軍とは異なり、アメリカからフランスに上陸したばかり(それに続いてキャンプで訓練を終えたばかり)で元気のいい無傷のアメリカ兵の集団は、実際、頼もしく映ったにちがいない。トゥールにはアメリカ軍の基地が置かれていた。
 なお、ピンクの星形の印は「検閲不要」を意味する検閲印(後述)。

1918年6月19日

1918年6月19日

〔写真説明〕
トゥール(*1)のようす
大聖堂の正面

〔差出人(宛名の右上)〕
ガンドワイエ、第5現地人歩兵連隊、任務中
トゥール通過時

〔本文〕
トゥールにて、1918年6月19日
 先生、私はヴィトリにいます。かなり疲れる旅でしたが、よい旅でした。こちらでは、アメリカ軍の見事な組織がさん然と光り輝いており、我々はまだその衝撃から覚めやらぬままです! 声を大にして言いたいと思いますが、どれほど心強いことでしょう!
     敬具(サイン)

〔青い大きな女神座像の印〕
トゥール軍事行政官(*2)

〔到着印〕
ヴォークリューズ県
アントレーグ=スュール=ラ=ソルグ(*3)
18年6月23日

〔宛先〕
ヴォークリューズ県
アントレーグ
フォーリエル先生

(*1)トゥール Toul はドイツやベルギーに近いフランス北東部ロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県にある人口1万5千人前後(当時)の都市。戦争前から軍事的に重要な拠点と見なされ、きわめて堅固な要塞と化していたため、ドイツ軍もここを攻めることは最初から考えていなかった。大戦中は連合国にとって前線よりもやや後方にある基地としての役割を果たし、アメリカ軍の基地も置かれていた。
(*2)印の外周に記された「軍事行政官」commissaire militaire とは、「駅軍事行政官」のこと。
(*3)アントレーグ=スュール=ラ=ソルグ Entraigues-sur-la-Sorgue は南仏のイタリア寄りに位置する人口2千人台(当時)の町。

ピンクの星形の検閲印について

検閲印

 この印は、それほど多く目にするわけではないが、念のためストロウスキーの説明を訳しておく(Cf. Strowski, p.218)。

  • 最後に、郵便検閲当局は、便利に使えて簡単に見わけられるピンク色の星形のしるしを使った。これは軍全域で使用されたが、とりわけ東方軍〔訳注:フランス東部~北東部のドイツとの国境近くに配備された軍〕のグループの地域、特にエピナル〔訳注:ロレーヌ地方ヴォージュ県の県庁所在地〕で使用された。この印は、一見して検査が不要と判断された手紙や葉書に捺された。これにより、一回目の検査だけでなく、とりわけ、郵便物が特定の特別な地域(アルザスなど)を通過するときに非常に頻繁におこなわれていた二回目の検査が回避された。公用または半公用の手紙は、検閲係官の抽出調査の対象になると、みなこの星形の印が捺された。これにより、少なくとも24時間の〔検閲業務に伴う配達の〕遅れを免れることができた。



1918年8月8日-ドイツ軍の後退

 次の葉書は、兵士が妻に宛てたもの。よほど筆まめで愛妻家だったらしく、細かい字でびっしりと書かれており、ほとんど日記のようになっている。大戦末期になり、ドイツ軍が後退し、フランス軍が前進していた様子がうかがえる。
 この葉書が書かれた8月8日は、奇しくも3万人以上のドイツ軍兵士が戦意を喪失して投降し、ドイツ軍司令官ルーデンドルフがドイツの敗戦を悟った日とされている。

1918年8月8日

1918年8月8日

〔写真右上の説明〕
ノジャン=ラルトー(*1) - 下側の街区

〔本文〕
1918年8月8日
愛するいとしいマチルドへ
この手紙の最初に言っておかなければならないのは、今朝とても早い時間に、つねに前進すべく出発するから背嚢をまとめるようにという指令を受けた。そこで我々は5時に11号車に乗り込み、12 kmほど行軍した。でも、へとへとに疲れているわけではないよ。我々の中隊の車両が続々とついて来ており、背嚢を運んできている。10時頃に新しい宿営地に落ちついた。ここが絶好の場所というわけではない。村全体が完全に破壊されているからね。この移動が郵便物の配達の遅れの原因かどうかはわからないが、昨日も今日も愛するいとしいマチルドから何も受けとっていないのは事実だ。信じてほしいいが、明日は到着すると思うと本当に待ち遠しくてしかたがなく、おまえの文章をじっくりと読めることを心から信じている。こちらでは、本日の命令会報によると、戦場に置きざりになっている軍需品の回収に追われることになりそうだ。ドイツ野郎どもはできる限り身軽になって逃げるのに精一杯だったにちがいないから、あいつらの軍需品にはこと欠かないと考えてよさそうだ。私は完璧に健康で、おまえと家族もそうであることを心から願っている。家族には、おまえのほうからよろしく伝えてほしい。おまえ自身に関しては、愛するいとしいマチルドよ、なにかと世話を焼いてくれる優しい妻から離れて恋い焦がれている夫が送る、無数のキスを受けとっておくれ。ルイ Vより。タルドノワ(*2)にて。

〔左上余白の斜めの書き込み〕
天候はずっと曇っているから、作物を束ねるのに苦労するだろう(*3)。

(*1)ノジャン=ラルトー Nogent-l'Artaud はパリから東に八十数 km のところにあるピカルディー地方エーヌ県の人口1,500人程度(当時)の村。この葉書では地名がインクで塗りつぶされているが、インクが赤っぽいので文字が透けて見える。

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通常、絵葉書を送る場合は、自分のいる場所を写した絵葉書を選ぶものなので、1915年4月21日以降は、戦地から絵葉書を送る場合は自分の部隊の居場所が漏れないよう、軍事機密として地名を塗りつぶすように定められた(実際には守られていない場合も多い)。葉書を出す兵士が一種の自己検閲を行うようになったわけである(しかし、そのわりには、この差出人は本文の末尾で、あっさりと地名を書いてしまっている)。
(*2)タルドノワ Tardenois はフランス北東部、ピカルディー地方エーヌ県とシャンパーニュ=アルデンヌ地方マルヌ県の境目あたりに位置し、前者の都市ソワソンや後者の都市ランスの南側に広がる丘陵地帯を指す。
(*3)晴天で乾燥していたほうが藁などを束ねやすいという意味か。ここから、この家族は農家だったことがわかる。



1918年8月10日-敗走するドイツ兵を追いかけて

 直前で取り上げた2日前の8月8日の葉書と同様、こちらも敗走するドイツ兵を追いかけているようすがよくわかる(上の葉書ではパリの東方だったが、こちらはパリの北方)。
 癖のある字で急いで書かれており、読むのに骨が折れる。

1918年8月10日

1918年8月10日

〔写真説明〕
クルイユ(*1)(オワーズ県)-ヴォー城

〔本文〕
    1918年8月10日
    愛するネットへ
 あいかわらず元気だと知らせるために、急いで一筆書くことにするが、時間が少ししかない。あいかわらず師団歩兵の大佐のお伴をしており、きのうから昼も夜も車で走り、これを書いている瞬間もドイツ野郎を追いかけまわしている。今、モンディディエ(*2)のすぐ近くにいる。あと1時間もすれば街の中に入れるだろう。道が通行できないんだ。何がドイツ野郎と一緒に(判読不能) あいつらを追いかけまわす飛行機の群れを、おまえが見ることができたらなあ。騎兵隊もな。それから、今朝、塹壕に向かうエルベに会った。母と例のあいつからの手紙も受けとった。二人には、手紙は受けとったが、返事を書くのはまだ先になると伝えてくれ。自分のひげを剃る暇もないんだ。寝るのは車の中で、食えるときにがつがつ食っている。司令部に戻れるよう、修理中の車ができあがってくるのを待っているところだ。すべて順調だ。それでは。
 生涯おまえを愛し、心からおまえに強くキスをするモーリスより

〔左上の書き込み〕
(サイン)
ノミに気をつけろ(*3)

〔右上の書き込み〕
通るところは、どこも悲しい眺めだ。くせえな、ドイツ野郎は(*4)。

(*1)クルイユ Creil はパリの北隣(40数km)にある街。
(*2)モンディディエ Montdidier という地名はフランスに2か所あるが、ここはクルイユからさらに北に数十km進んだところにあるソンム県モンディディエを指すと思われる。
(*3)塹壕などでは鼠と蚤(ノミ)が兵士の敵だった。たまたまこの葉書を書いていて蚤を見つけ、思わず書き込んだのかもしれない。
(*4)「どこも悲しい眺めだ」というのは、どの街でも建物が破壊され、荒廃していることを指すと思われる。「くせえな、ドイツ野郎は」というのは、実際に道端に倒れているドイツ兵の死体が臭気を放っているという意味なのか、あるいはもっと主観的な印象なのか不明。



1918年10月16日-戦争5回目の誕生日

次の葉書は英語で書かれている。

1918年10月16日

1918年10月16日

〔宛名〕
パリ18区
マルカデ通り205番地
スュザンヌ・バラル様(*1)

〔差出人〕
ヘンリー・バラル(*2)
1918年10月16日

〔本文〕
無線電信局 郵便区240
親愛なるスュザンヌへ
戦争5回目のお誕生日(*3)を軍隊から心をこめてお祝いします。
私はみんなから離れて、再びここに戻ってきました。私たちのいとしいエミリーが元気だといいと思っています。妹よ、私の本当の愛情とキスを受けとってください。ヘンリー
1918年10月16日

(*1)「様」と訳した「マドモワゼル」は独身女性の敬称。本文から、差出人の妹(または姉)であることがわかる。
(*2)この葉書の本文はすべて英語で書かれており、差出人はフランス語読みだと「アンリ」だが、英語読みだと「ヘンリー」となる。独身の妹(または姉)がパリに住んでいるところをみると、差出人は開戦後にイギリスまたはアメリカ軍の兵士としてフランスに来たのではなく、戦争前からフランス人女性と結婚してパリに住んでいた可能性が高いと思われる。本文から、差出人は「無線電信局」に属していたことがわかるが、英語が達者だったことを買われて、こうした電報などを扱う施設に配属されていたのかもしれない。
(*3)1914年8月の開戦以来、5回目の誕生日となる。この葉書が書かれた頃は、すでに連合国側の勝利が確実になっていた時期にあたり、この葉書にもどことなく余裕が感じられる気がする。ちなみに、この葉書が出されてから1か月もたたない1918年11月11日、休戦協定が調印されて第一次世界大戦が終結する。



1918年11月11日-休戦の知らせによる喜びの爆発

 1918年11月11日、フランス軍だけでも、のちの第二次世界大戦をはるかに上回る140万人の死者を出し、ようやく大戦が終わった。

 休戦協定は、11月11日の早朝5時、パリの北東約70 kmにあるコンピエーニュの森に停められた列車の中で調印された。ただちに全指揮官に電報が送られ、午前11時に戦闘を中止するよう通達された。

 次の葉書は、まさにこの日の正午、ある兵士がフランス北東部ロレーヌ地方のナンシーに到着した直後に休戦のことを知らされ、興奮さめやらぬままに妻に宛てて書いたもので、感嘆符(!)が多用されている。

 この兵士は(そして他の多くの兵士は)フランスが勝利したから喜んでいるのだろうか、それとも、もう戦争しなくてよくなったので喜んでいるのだろうか。

1918年11月11日

1918年11月11日

〔イラスト面〕
ナンシーの
思い出

〔本文〕
1918年11月11日
愛するギット(*1)へ
正午! ちょうどナンシーに到着したとき、あっと驚くような知らせを受けた! 休戦協定が調印されたんだ!今度こそ終わりだ! やった、やった、バンザイ! 感ここに極まれり。街が旗で飾られている! 我々は夜まで自由になった。他の場所に移動するぞ、などと言われることもない! 我々が幸運に恵まれるなんてことが信じられるかい! 信じられないだろう! 私が戦争を始めたこの場所で戦争を終えることになるとは、思ってもいなかったよ。心からおまえのことを考え、おまえの幸せといとしい家族みんなの幸せに思いを馳せている。ギットよ、今日1918年11月11日は、私にとってなんと二重に幸せな日なことだろう。今日という日は今後ずっと心に刻まれることだろう! いとしいミミ(*2)、いとしい家族みんなとともに、おまえのことを

〔右端、縦方向〕
愛情をこめて抱きしめる。自分の幸せを信じられないガストンより

〔上部、逆向き〕
明日またもっと詳しく手紙を書くことにする。それではまた!

(*1)「ギット」は「マルグリット」の愛称として使われることが多い。
(*2)「ミミ」mimi という言葉は、猫や可愛がっている人などを呼ぶときに使われる。おそらく「マルグリット」の頭文字 M に通じるところから、妻のことをこう呼ぶこともあったのではないかと想像される。



1918年11月13日-休戦協定の2日後

 次の葉書は、休戦協定が調印された1918年11月11日(月曜)にドイツとの国境に近いリュネヴィルに到着した差出人が、その2日後に差し出したもの。全体的に綴り間違いが多く、あまり教養が高くなかったと思われる。とくに「休戦」armistice(アルミスティス)という言葉が耳慣れなかったらしく、聞き間違えて admistié(アドミスティエ)と書いている。

1918年11月13日

1918年11月13日

〔本文〕
リュネヴィルにて、
18年11月13日
  きょうだいへ
 月曜、正午にリュネヴィルに到着した(*1)。日曜、11時にシャルトルを出発していたのだ。到着すると同時に、休戦協定が調印されたことを知った。街は旗で埋め尽くされていた。私の健康はというと、ますますよくなっている。解放(*2)に関しては、おそらく同意された猶予期間がすぎるのを待つ必要があるのだろう。中隊の分遣隊が前進を続けているが、これはたぶん道路を修復し、通れるようにするためだ。今朝、ドイツ野郎の飛行機が一機、降伏するために到着した。

〔上部余白、逆向きの書き込み〕
ガストンには会っていない。

〔右上の斜めの書き込み〕
(サイン)

〔写真説明〕
リュネヴィル-カルム広場

(*1)1918年11月13日は水曜日にあたるので、休戦協定が調印された11月11日(月曜)に差出人はリュネヴィルに到着したことになる。リュネヴィル Lunéville はドイツとの国境に近いロレーヌ地方ムール=テ=モゼル県の人口2万人台(当時)の都市。1870年の普仏戦争でフランスがドイツに敗れたのち、ロレーヌ地方の東側がドイツ領となるのを嫌がったフランス人が移住してきたために人口が増加した。この葉書の写真は大戦前のもの。
(*2)「解放」libération とは、ドイツ軍が引き揚げ、フランスの街や地方がドイツ軍の支配から解放されて自由になることを指す。



1918年11月17日-休戦協定の約1週間後の北仏リールにて

 次の葉書は、休戦協定の約1週間後、フランス最北端の街リールに住む女性が、パリでまだ軍務に服していたおじ(エミール)に送ったもの。従軍していた同名の家族(または親戚)が前日に帰宅したことを、喜びをもって告げている。
 リールの街は、絵葉書の写真のように甚大な被害を受けただけでなく、開戦後すぐにドイツ軍の占領下に置かれ、市民は苦難の4年間をすごした。それだけに、フランスの勝利で戦争が終わった喜びは、ひとしおだったに違いない。

1918年11月17日

1918年11月17日

〔写真説明〕
リール ピクリー通り(*1)

〔宛先〕
パリ9区
ピガール通り45番地
砲兵隊監察官
エミール・カボッシュ様

〔本文〕
    リールにて、18年11月17日
  おじ様
 金曜日以来、どうされていますか。ネネットは? こちらでは、ついにいとしいエミールに再会することができ、みな喜んでいます。エミールは少し疲れていましたが、とても興奮した状態で、きのうの土曜の昼に到着しました。おじ様はさびしい思いをされていませんか。おじ様が帰ってこられるのは、いつでしょう。もう、まもなくのはずですね。シャルルは本当に22日ですか。なんと幸せなことでしょう。
 幸福に満たされながら、最後に愛情をこめてキスを送ります。ステファネットより

〔引受消印〕
ノール県リール
18年11月17日

〔住所の右上〕
F. M.(軍事郵便につき郵便料金免除)

(*1)リール Lille はベルギーとほぼ国境を接する北仏の都市で、人口は20万人超(当時)。開戦の1か月後の1914年9月、ベルギーを通過してきたドイツ軍の猛攻を受けて上の写真のように廃墟と化し、街を守備していたフランス軍は10月12日に降伏した。以来、ドイツ軍の占領下に置かれ、市民は莫大な金銭の上納を強要されただけでなく、自転車からタイプライター、写真機に至るまで、一般市民の家庭にあったありとあらゆる機械類や金属類がドイツ軍に没収され、寝具のマットレスまでもが羊毛を再使用するために取り上げられた。男は強制労働に駆り出され、女・子供は強制移住させられる中、ドイツ軍への抵抗運動も企てられたが、活動員は銃殺され、1918年10月17日にイギリス軍によってリールの街が解放されるまでの丸4年間、人々は飢餓と寒さに苦しんだ。



1918年11月25日-戦争直後のアルザスへの凱旋

 次の葉書は、大戦終結のちょうど2週間後、ながらくドイツ軍支配下に置かれていたアルザス地方コルマールに凱旋したカステルノー将軍につき従い、コルマール駅軍事行政官として赴任した中尉が差し出したもの。右上には、ドイツ統治時代の鉄道印が捺してある。
 大戦中は、ドイツの他の地方と同様、アルザス地方も食糧の確保がままらなかったが、この葉書でもそうした事情がかいま見られる。

1918年11月25日

1918年11月25日

〔写真下の説明〕
コルマール 頭像の館(*1)

〔右上の紫の楕円形の印〕
エルザス・ロートリンゲン帝国鉄道(*2)
18年11月21日
コルマール

〔本文〕
デスィエール中尉
コルマール(オー=ラン県)駅軍事行政官
   コルマールにて、1918年11月25日
   親愛なるシャルルへ
 2日前にここにやってきた。カステルノー将軍(*3)に従い、この街に凱旋したのだ。封鎖が解かれるべき時は来たれり、というわけだ! しかし何も食べるものがない。牛乳も、バターも、卵も(1ダース10~12マルクもするのだ)、油脂も、オイルも……何もない。「あとは勝手に列挙してくれ」だ、モワンヌの口癖ではないが。
 この駅は大きく、すべきことがたくさんあるのだが、スタッフがいない。
 健康は良好だ。君はどうかな。食事に気をつけているみたいだから、全体的によいのではないかな。
 マルトにキスをしておくれ。君自身に対しては、心からの握手を送る。(サイン)

(*1)コルマール Colmar はアルザス地方の要衝にある人口4万人台(当時)の都市。開戦直後、ごく短い期間だけフランス軍が占領したが、再びドイツ軍に取り戻され、終戦までドイツ支配下にあった。なお、絵葉書の写真は、17世紀に建築されたコルマールを代表する「頭像の館」と呼ばれる建物。
(*2)この印は、ドイツ統治時代に使われていた鉄道印。ドイツ軍の退却後、駅に残されていたのを見つけて記念に捺したのだと思われる。「エルザス・ロートリンゲン」(ELS. LOTHR)は「アルザス・ロレーヌ」を意味するドイツ語。

1918年11月25日

(*3)カステルノー Castelnau 将軍は、戦争前期には最高司令官ジョッフルの補佐役として活躍し、戦争後期には最高司令官フォッシュのもとで東方軍の指揮官となっていた。



1918年11月25日-「祖国」というのは空疎な言葉ではない

 次の葉書は、休戦協定の結ばれた2週間後、まだ軍務に就いていた兵士に宛てて書かれている。やや癖のある達筆で、教養をうかがわせる文体で書かれ、封筒に入れて送られているが、差出人はどのような人で、相手の兵士とはどのような関係だったのだろうか。「君たちは今後とも私たちのいとしい子供たちだ」「君の年老いた友人たちより」といった語句をみると、両親のようでいて、どうも両親ではなさそうだ。親戚だろうか。しばらく悩んだ挙句、学識のある老齢のフランス人に見せたところ、両親や親戚にしては愛情表現が控えめすぎると指摘された。さらに、休戦の知らせを受けて鐘を鳴らし続けたら鐘にひびが入ったといったエピソード(注2を参照)などから、学校の先生が教え子に送ったものにちがいないという指摘を得て、大いに納得がいったのだった。
 さて、この兵士は、数日前に「『祖国』というのは空疎な言葉ではありません」という言葉を書いた手紙を、この学校の先生に送ってきたらしい。たしかに、戦争中は、大義名分として「名誉」honneur と「祖国」patrie という言葉がさかんに叫ばれ、軍旗にも記されたが、これを空疎な言葉と感じた兵士たちも多かったのだろう。しかし、戦争を勝利で終えることができ、フランスがドイツ領に併合されたりせずに済んだ今、改めて「祖国」という言葉の重みが実感されたにちがいない。

1918年11月25日

1918年11月25日

〔本文〕
オート=リヴォワール(*1)にて、1918年11月25日
  親愛なるアントワヌへ
 君が私たちに書いてくれた手紙は、なんと感動と喜びで震えるような手紙だったことか。君たちと同様、私たちも、戦争の恐ろしい悪夢から解放され、自由になった喜びの余韻にひたっているところだ。君たちは、今後とも私たちのいとしい子供たちだ。君たちの年齢の者に開かれた、約束に満ちた生を生き、幸福になるのだ。ただし、私たちを守るために命を落とした人々のことを忘れることなく、私たちの愛するジャンのことを心から悲しんでくれていると、私は信じている。
 しかし、悲嘆に暮れるのはやめよう。勝利はあまりにも美しく、その広がりを味わい尽くさないでいることは難しい。親愛なるアントワヌ、勝利を声高に告げようと、私たちの鐘を鳴らし続けたら、ひびが入ってしまったというのも理解できることだ(*2)。「祖国」というのは空疎な言葉ではないと君が言うのも、もっともだ。とくに、私たちの風習と法を、呪われたドイツのものと比較するなら。そのとおり、私たちはフランス人であることを誇りに、またとりわけ幸福に思い続けることだろう。

〔絵の上、左下、右下〕
 君が思っているように、エマニュエルも、君たちの休暇が同じ時期に与えられないことを、とても残念に思っている。しかし、それは以前よりもはるかに重要ではなくなっている。いずれ君たちが再会できることは確実なのだから。二、三年の兵役を終えたら、君たちも自由になれると思っている(*3)。
 親愛なるアントワヌ、私たちが君に対して抱く愛情と、休戦の偉大なる知らせを祝して、大きなキスを送る。
 君の年老いた友人たちより
   フランソワ

(*1)オート=リヴォワール Haute-Rivoire はフランス南東部の大都市リヨンに近い人口1,000人台の村。この村の学校の先生が書いた葉書だと思われる。
(*2)この「鐘」は学校の鐘だと思われる。これについて、老齢のフランス人から直接教示を得たので、記しておく。「私が子供だった時分には、学校には鐘が据えつけられていた。高さ5 m以上のところに、直径40 cmくらいの鐘が取りつけられ、休み時間が終わると、手で紐を引いて鳴らしたものだ。村や街の教会の鐘であれば、いくら鳴らしてもひびなど入らないだろうが、学校の鐘ならひびが入るというのも十分に考えられることだ。」
(*3)戦争が終わったら、全員すぐに兵役を終えて家族のもとに帰れるわけではなかった。40才台の年長者から順に、早くて1918年12月、多くは翌1919年になってから動員が解除され、一番若い兵士たちが自由になったのは1919年8月末以降だった。それまでは、「休暇」という形でしか故郷に帰ることができなかった。



1918年12月21日-大戦直後のロレーヌ地方メスからの絵葉書

 次の葉書は、大戦が終了して1か月少々経過した頃に差し出されたもの。文面には大したことは書かれていないが、絵葉書の写真と消印が注意を惹く。
 まず、写真に収められている街並みは、1870年の普仏戦争でフランスが負け、ドイツ領に併合されていたロレーヌ地方の都市メス Metz を写したもの。もともと、第一次世界大戦は、フランスに攻めてきたドイツとの間で、フランスの土地を舞台にしておこなわれたものなので、皮肉なことに、戦勝国となったフランスの街や村の建物は甚大な被害を受けたが、戦争に負けたドイツの街や村は、基本的にこのように無傷のまま残された。
 写真の一番手前の列には、ロレーヌ地方の民族衣装を着飾った少女たちが写っている。大きな襞のついた白い帽子と、白いエプロンのような前掛けが特徴的だ。中央に写っている男性はメス市長だろうか。その後ろをフランス軍の兵士たちが行進している。要するに、ロレーヌ地方がフランスのものになったことを表現しようとしているわけだ。
 右下には、当時の葉書料金である15サンチームのフランスの切手が貼られているが、この消印は典型的なフランスの消印ではない。葉書の表面にも同じ消印が捺されているが、消印の中央の列には、「21.12.18」(=1918年12月21日)の後ろに「7-8N」という文字が並んでいる。この N はドイツ語で「午後」を意味する Nachmittag の頭文字で、午後7時~8時の間にこの葉書が取集されたことを示している。典型的なドイツの消印である。ヴェルサイユ条約によってメスがフランス領に復帰した当初は、郵便局の消印の整備が間にあわず、ドイツ統治時代の消印がそのまま使われていたことを物語っている。

1918年12月21日

1918年12月21日

〔写真下の説明〕
解放されたメスで、民族衣装を着たロレーヌの少女たちを先頭に、フランス流の歩き方で行進する軍楽隊が続く。

〔その下の書き込み〕
18年12月21日

〔写真面右上の書き込み〕
大きなキスを。
(サイン)

〔本文〕
メスにて、1918年12月21日
私は元気です。あなたもお元気で!

〔宛先〕
ヴォージュ県
ビュルニェヴィル近郊
ロンクール
アルフォンス・シビヨット奥様

〔宛名の右上の斜めの書き込み〕
切手は裏面に貼付

〔引受消印〕
メス
18年12月21日午後7~8時

〔到着印〕
ビュルニェヴィル
18年12月25日



1919年7月15日-墓地にて

 次の葉書は、大戦が終了した翌年、おそらく軍隊に所属していた差出人が、7月14日のフランス革命記念日にあわせて一日の休暇を得たときに書かれたもの。
 写真右側の書き込みによると、差出人の父は1915年2月またはそれ以前に戦死して埋葬されたことがわかる。

1919年7月15日

1919年7月15日

〔写真説明の活字〕
1914~15年の戦争 - 野原の墓地、ジョンシュリー街道

〔写真右側の書き込み〕
1915年2月撮影

〔本文〕
 スュイップ(*1)にて、1919年7月15日
 親愛なる妹へ
 24時間の休暇が得られたので、花を捧げて掃除をするために亡き父の墓に行ってきました。とても驚いたことに、墓地の葉書を見つけました。×印をつけた手前から二番目の墓を見分けられると思います。
 私はというと、あい変わらずランスで元気でやっています。
 家族みんなを抱擁します。
 あなたを愛し、抱擁する弟より サイン(エルモン)

(*1)スュイップ Suippes はフランス北東部マルヌ県にある人口二千人台(当時)の村。このあたりは1914年9月のマルヌ会戦(フランス軍だけでも死者・行方不明者10万人以上)をはじめ、激戦の舞台となった。スュイップから隣の集落ジョンシュリー Jonchery にかけては現在でも広大な墓地が広がり、びっしりと十字架が立ち並んでいる。



1919年7月18日-戦後初めての革命記念日のパレード

 次の葉書は、戦後初めての革命記念日となった1919年7月14日のパレードのようすを撮影した写真をそのまま葉書に現像した「カルト・フォト」。素人の撮影らしく、凱旋門の右端が構図に収まっていない。
 革命記念日の祝われ方は時代によって変化しており、大戦前(1914年7月14日)まではロンシャン競馬場での閲兵が中心だった。現在のようにパリ中心部シャンゼリゼ大通りで軍事パレードがおこなわれるようになったのは、大戦勃発(1914年8月上旬)後の最初の革命記念日である1915年7月14日のパレードが最初である。以後、戦争中は毎年パレードがおこなわれたが、とりわけ戦争終結後初めてとなる1919年7月14日のパレードは、戦勝の凱旋式を兼ねたものとなった。
 さて、この葉書は、このパレードに立ち会ったパリ在住の差出人が、その4日後の7月18日、大戦で実際に兵士として戦った友人に宛てて書き送たもの。パリの高級住宅街に住み、完璧な綴りで、高度な文法を駆使し、友人に対して「あなた」で呼びかけているところをみると、差出人は上流階級に属していたのではないかとも想像される。

1919年7月18日

1919年7月18日

〔写真上の書き込み〕
大戦で戦った兵士
親愛なるフランシス・ヌアーズへ
   パリにて、1919年7月18日(サイン)

〔本文〕
ポンプ通り(*1)15番地にて、7月18日
親愛なる友へ あなたからよい手紙を受けとり、皆さんが健康だと知って、喜んでいます。体調がすぐれないのではないかと、案じておりました。ちょうど、まさに勝利の美しい祝祭を記念した、この(できたばかりの)葉書を送ろうとしていたところでした。私たちは、ここ、凱旋門の近くにいましたが、あまりよく見えませんでした。よい席を取るには、歩道で徹夜しなければならなかったことでしょう。それでも、栄光ある我が軍が通りすぎているのがわかりました。すぐ近く、凱旋門の下で、らっぱと音楽が反響するのを聴きながら、喜びと誇りで私たちの胸は高鳴っていました。パリの人々は、我らが戦勝者に対し、言葉に尽くせぬほどの喝采を送りました。私たちはというと、フランス全土の歓声に私たちの歓声を重ね合わせながら、親愛なるフランシス、あなたのことを考えていました! 情愛を込めつつ、あなたを誇りに思っています! (サイン)

〔下部余白〕
私たちは24日にヴィルディユー(*2)に向かいます。

(*1)ポンプ通りはパリ16区にある高級住宅街。
(*2)ヴィルディユー Villedieu という地名はフランス各地に存在するので、特定不能。

 ちなみに、翌1920年11月11日、休戦2周年を記念し、第一次世界大戦で戦死しながら墓に埋葬されていなかった兵士たちのために、この凱旋門の下に「無名戦士の墓」が設置された。墓碑銘は次のように刻まれている。

「ここに祖国のために死んだフランス兵が眠る 1914-1918」

 現在でも、毎年11月11日の休戦記念日や大統領就任式では、この「無名戦士の墓」に大統領が献花をする習わしとなっている。
















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