「北鎌フランス語講座」の作者による、葉書の文面で読みとくフランスの第一次世界大戦。

第一次世界大戦中の手紙

大戦中の封書の手紙

 本ホームページでは葉書を中心に扱い、封書の手紙はあまり取り上げていない。
 その理由は、葉書のほうが形式張らず、教養のない者でも気軽に書けたので、比較的教養のある人々だけでなく、より多くの一般の人々の「本音」がそこから聞こえてくる気がするからである。
 しかし、このページでは封筒に入れて送られた手紙を取り上げてみよう。
 長文の手紙を書くほどの人は、教養が高く、綴りが正確で、字も読みやす場合が多いので、葉書ほど解読に苦しむことは少ない。
 難点があるとすれば、封筒が捨てられて中身だけ残っている場合、郵便局による日付印が捺されていないので、差出人がきちんと年月日を記入していないと、日付が不明になってしまい、史料的価値が低下してしまうという点だろうか。
 なお、当時の封筒は、一般に、葉書よりもひと回り小さいサイズのものが多い。

1914年10月8日-女友達の間での情報交換

 次の手紙は、葉書よりも小さな厚紙の表と裏に書かれており、封筒は散逸している。
 差出人は、女友達どうしで頻繁に連絡を取りあい、戦争に行っている男たちの情報を教えあっていたらしい。当時はまだ電話は普及しておらず、もちろん電子メールも存在しなかったので、葉書や手紙を使うしかなかった。
 たとえば、負傷して病院にいる弟が快方に向かっているのはうれしいが、それは裏を返せば再び戦地に戻る日が近づいているわけなので、つらいといったこと。あるいは、長らく音信不通になっていた兵士が、戦死したのではなくドイツで捕虜になって生きていることがわかり、知人が大喜びしたこと、などが書かれている。
 多数のノートを添削するという話が出てくるので、差出人は小学校の先生でもしていたらしい。

1914年10月8日

1914年10月8日

    ムルソー(*1)にて、1914年10月8日
イエットさんへ
 今夜手紙を書くのは、あなたが7人目だなんて、信じられる? でも、これは決めたことを守ってもらうためなのよ。皆さんがどうしているか、教えてちょうだい。私のこの前の手紙は受けとっていると思うんだけれど。
 たぶん、仕事で参っているんじゃないの? 私も同じだけどね。今日の夕方4時は気が狂いそうになっていたわ。この手紙を書いている脇に、もし添削しなければならないノートの山がなかったなら! このところ、イマールさんやコランさんと一緒に、真夜中の11時まで編み物をしているのよ。弟が戦場に戻るときのために、着せてあげようと思ってね。弟のセーターはできたわ。膝当ても作るのよ。弟の傷はよくなっているわ、ずいぶんとね。手首をマッサージして動かして、硬直しないようにしている段階だから。あと2週間したら「回復休暇」(*2)に来たいと言っているわ。でも悲しいことに、回復の日が近づくにつれて、戦場に戻る日も近づくのね。
 義兄は相変わらず無事よ。姉宛ての手紙によると、「22日まで、13日間、ドイツ野郎の塹壕から40 mのところにいた」そうよ。まあ怖い。きのうは J. リシャールさんが大喜びして手紙をくれたわ。やっとルイから知らせが届いたそうよ。いまバイエルンで捕虜になっているんだって。私もとてもうれしかったわ、一緒になって心配していたから。あなたの弟さんも無事みたいね。ムーズ台地(*3)にいて、枝を束ねて小屋を建てるのがとても上手になったんだってね。私にくれた手紙には、ときどき一言送ってくれと書いてあったわ。

〔裏面右の書き込み〕
 喜んでそうするつもりよ。
 近いうちに手紙を頂戴ね。キスを送ります。ご主人によろしく。
   サイン(マルト)

(*1)ムルソー Meursault はフランス南東部ブルゴーニュ地方コート=ドール県にある、白ワインの産地として有名な人口2,000人台(当時)の村。
(*2)戦場で負傷して病院に収容された兵士は、傷が癒えて退院すると、所属する部隊に戻る前に、しはらく休暇をもらうことができた。これは当時の兵士の間の俗語で「回復休暇」convalo と呼ばれた。
(*3)ムーズ Meuse 台地は、フランス北東部ロレーヌ地方ムーズ県一帯に広がる台地で、大戦の主戦場となった。激戦地ヴェルダンも含まれる。



1915年11月1日-自分の名前も書けなった小作農の手紙

 次の手紙は、フランス北東部にいた兵士が、フランス西部の村に書留で送ったもの。本文を読むと、地主に対して農地の賃借りの中止を申し入れているので、この兵士は徴兵前は小作農だったことがわかる。
 しかし、それにしては非常に達筆で、高い教養をうかがわせる文体で書かれているのが強い違和感を抱かせる。それもそのはず、末尾まで読むと、代筆してもらった手紙であることがわかる。
 当時は、徴兵されると、読み書きができる者は下士官になり、できない者は一兵卒になることが多かった。この(元)小作農は、同じ部隊の上官に代筆してもらったのだと思われる。サインを書くべきところに単なる「×」印が書き込まれているので、自分の名前すら書けなかったことがわかる。畑を耕す道具は持っても、ペンはほとんど持ったことがなかったのだろう。

1915年11月1日

1915年11月1日

〔差出人〕
国土防衛第91連隊(*1) 第12中隊 ラサ 郵便区9

〔宛先〕
書留
シャラント県マンル小郡サン=シエ村(*2)
シェ・ヴィラールのウージェンヌ・ボワ様

〔本文〕
   郵便区9にて 1915年11月1日
   シェ・ヴィラールのウージェンヌ・ボワ様
 去る10月26日付のお手紙に対する返事として、本状をお送り申し上げます。家内が病気になったため、あなた様の土地を耕すことができなくなりました。よって、土地の賃借りをやめることにいたしますので、この旨、通知いたします。本状は書留にて送付いたしますので、この種の事案についてはこれで十分であり、前線では委任状の作成が不可能であることを鑑みれば、これが委任状の代わりとなります。支払猶予の大統領令(デクレ)が召集兵全員に適用されることを踏まえ、家畜の賃借料の決済につきましては、戦争後に清算することといたします。何卒よろしくお願い申し上げます。敬具

 サインできない
 ラサに代わり    (サイン1)  (×印)
           (サイン2)(*3)

(*1)差出人ラサの所属する国土防衛第91連隊は、フランス中西部リモージュの近郊で結成された。この手紙が書かれた当時はフランス北東部ランス近郊に展開しており、10月19~20日にはドイツ軍に毒ガス入りの砲弾を撃ち込まれて多数の死者を出したばかりだった。
(*2)サン=シエ(現サン=シエ=スュール=ボニウール Saint-Ciers-sur-Bonnieure)はフランス西部ボルドーと中西部リモージュの中間あたりにある、シャラント県の人口数百人の村。「シェ・ヴィラール」はもともと「ヴィラール家」という意味の通称の地名(lieu-dit)で、この土地の地主だったヴィラールという人の姓から名づけられたと思われる。シャラント県には、このようにして名づけられた通称の地名が数多くあるらしい。
(*3)サイン1(Lenoble, ルノーブル)は、この手紙を代筆して実際に書いた人のサイン。その右側の×印は、自分の名前が書けなった小作農ラサのサイン。サイン2(Paillier, パイエ)は立会人のサイン(副署)だと思われる。



1915年3月1日-召集されて失踪した弟についての手紙

 次の手紙は、封筒は散逸しており、便箋だけが残されている。ほぼA4サイズの便箋で、便箋上部には、フランスの真ん中よりもややイタリア寄りにある大都市リヨンのコルセット用品専門店の広告が入っている。

 手紙はこのリヨンに住んでいたと思われる女性が書いたもので、姉または妹(仮に姉として訳した)に宛てて、兄または弟(仮に弟として訳した)が軍隊に行かずに行方不明になり、慌てているようすが記されている。

 正確な背景はわからないが、「自宅から行方不明に」なったと書かれ、「連隊に戻るのが怖い」ではなく「連隊に行くのが怖い」と書かれていることから、軍隊から脱走したのではなく、召集令状(赤紙)と集合令を受け取った時点で、出頭せずに失踪したものと考えられる。

 この差出人の女性が取り乱しているのも無理はない。自宅で集合令を受け取ってから、平時であれば30日以内、戦時であれば2日以内に出頭しなかった者は、「徴兵忌避者」と見なされて訴追の対象となり、最悪の場合は銃殺されることもあったからである。

召集令状を受け取って失踪した弟

    リヨンにて、1915年3月1日
  親愛なるお姉さま
 ほんとうに信じられないようなことをお知らせしたいと思います。弟のクロードが先週の月曜の昼に自宅から行方不明になり、それ以来、姿を見せていません。連隊に行くのが怖いからだと、みな思っています。私がどれほど困って、気が動転しているか、お察しください。あらゆる手を尽くしてさがしました。3日間さがしまわっても、さがしだす任務を帯びた6人の男たち(*1)は何も見つけられませんでした。私が不安と絶望にさいなまれて、もう7日が経ちます。
 お姉さまも、お住まいの街にいないかどうか、ご覧になってください。不幸なことになるのではと案じております(このかわいそうな子供たちはどうなるのでしょう) !!!
 でも、ご心配にならないでください、見つかるものと希望を捨てずにおりますので。
 私からの愛情を信じ、親愛の気持ちをお受け取りください。
やさしくキスをします。
        サイン(アントワネット)

(*1)憲兵のこと。



1915年4月2日-放置されたままのフランス兵の死骸

 次の手紙は、当時フランス北部の塹壕にいた兵士が、後方にいた友人と思われる男性に宛てたもので、いろいろな話題がとりとめもなく書かれている。
 たとえば、独仏の前線の間にフランス兵の死骸が半年前から放置されていること、塹壕では昼よりも夜のほうが神経を使うこと、フランス軍の75 mm砲は大きな威力を発揮すること、腹が減って死にそうだった時期もあったことなどが書かれているが、とくに以前通過した「ドイツ領アルザス」に住む住民への不信感について書かれた個所が注意を惹く。

1915年4月2日

1915年4月2日

1915年4月2日

1915年4月2日

〔本文〕
4月2日 金曜
 今のところ、あいかわず塹壕にいます。10月18日以来、戦闘がありません。ここの陣地を守ってるんですが、これからどうするのかは、わかりません。起こったことを見ると恥ずかしい気持ちになります。というのも、6か月前からフランス軍の前線とドイツ野郎どもの前線の間に横たわってる、哀れなフランス兵の姿が見えるからです。また、我らの戦線の背後には、6か月前からドイツ野郎の死骸があります。あれはフォークークール(*1)攻略のときの死者です。そう、今もぼくはここにいるわけです。あのときは、ものすごい犠牲者が出ました。
 今は塹壕にいます。とくに夜の間は、ドイツ野郎を見張ってます。あいつら、しょっちゅう斥候にやってきますから。見張りをしてるときは、眠る時間などありません。でも昼間はかなり静かで、かろうじて時々67 mm砲がしばらくぼくたちの眠気を吹き払いにやってくる程度です。でも、見事な働きをする我らが小さな75 mm砲にはかないませんよ。見事な働きをするのを見たんです、何列もの兵士たちをなぎ倒したんです。あいつら、逃げる暇もなく、バタバタと折り重なって倒れるのが見えました。
 いずれにせよ、今のところ、そんなに不満はありません。詳しくは書きませんが、かなりいい食事が出ます。1か月半の間、ヴォージュにいたときは腹が減って死にそうで、4日か5日おきにしかパンにありつけず、それも灰色に覆われてたんですから。だから、パンが食べられるようになって満足してます。ずっとモミの森の中にいたんですよ。一番よくてスモモの蒸留酒くらいでした。それはドイツ領アルザスにありました。あそこは、よい家もありましたが、悪い家もありました。なにしろ、通りすぎたあとで裏切られたんですから(*2)。しかも、我々があの人々に痛い目にあわせてやることは禁止されていたんです(*3)。でも、もしまたあそこに行くことがあったら、あの人々を許してはおきません。ドイツ野郎どもだって、ここフランスで残酷なことをしているんですから。
 折り返しお返事をください(*4)。
 それに、後方の、戦線から遠く離れてる人たちは、もしこちらで起こっていることを知ったとしたら、とっくの昔にみんな反乱を起こしていることでしょう(*5)。まあしかし、これ以上言うのはやめときましょう。あなたは新聞が書くことを信じ込んでるんでしょうから。私は実際のことを知りすぎているんです。

〔部隊印〕
15年4月3日
115

〔宛先〕
軍事郵便 4月2日
イゼール県
サン=マルスラン近郊 シャット村(*6)
オーギュスト・ヌーリ様

〔封筒裏の配達局の消印〕
15年4月7日
イゼール県シャット

(*1)フォークークール Faucoucourt はパリの北東、パリとベルギー国境との中間あたりにある北仏エーヌ県の人口300人台(当時)の村。有名なクラオンヌの丘に近い。
(*2)1870年の普仏戦争でフランスが敗れると、17世紀以来フランス領土だったアルザス地方はドイツ領に編入された。このとき、「フランス人」であり続けることを希望したアルザスの人々は大挙してフランス領内(隣の県など)に移住したが、先祖伝来の土地に残ることを選択した人々も多かった。アルザスに残った住民は、ドイツ国籍に転じて「ドイツ人」となり、若い男性は徴兵されるともちろんドイツ軍兵士となった。こうした「ドイツ領アルザス」の人々に対しては、不信感を抱くフランス兵士も少なくなかった。戦争が始まり、両軍の一進一退の攻防の結果、フランス軍が来たりドイツ軍が来たりするたびに、フランス語とドイツ語を流暢に話すアルザスの住民は、やって来た軍には迎合し、いなくなると密告や裏切りを行うこともあったらしい。とはいえ、これもドイツとフランスの間で翻弄され続けたアルザスの人々の悲劇を物語るものだといえる。
(*3)実際には、密告や裏切りが発覚すると、すぐに捕らえられて銃殺されたから、「痛い目にあわせてやることは禁止されていた」というのは事実に反する。このあたりは、少し「美化」されていると考えられる。
(*4)この一文のあとに結びの言葉を書こうとして、思い直して文章を続けている。
(*5)前線での生活は、後方の新聞が書き立てているような快適なものではなく、実際には兵士たちの置かれていた環境は劣悪なものだったから、もし本当のことを兵士の家族たちが知ったら、兵士の待遇改善を求めて反乱を起こしていたことだろう、という意味に解釈できる。
(*6)イゼール県のサン=マルスラン Saint-Marcellin とシャット Chatte は、どちらもフランス南東部のグルノーブルに近い村。戦線からは遠く離れていた。



1915年4月11日-月並みな手紙

 次の手紙は、フランス中央部のやや南寄りにあるアンベールにいた兵士が南仏の故郷にいる妻に送った手紙。
 一枚の便箋の半分に文面が書かれ、4つ折にされ、葉書よりも小さな封筒に入れられている(下記画像は半分に折った状態)。
 手紙の中で、こから他の場所に向かうことになったが、向かう先はわからないと書かれている。当時、部隊がどこに向かうのかは、軍事機密として、指揮官とその補佐をする若干の人しか知らされない場合も多かった。
 もし向かう先が前線で、目的地についてすぐに戦闘になったとしたら、これが最後の手紙(絶筆)となった可能性も皆無とはいえない。しかし、仮にそうだったとしても、内容はいたって月並みであり、『仏国戦死軍人絶筆集』に選ばれるほどのものではない。
 とはいえ、几帳面な字で丁寧に書かれているし、月並みなものも大切ではないかという気もする……

半分に折った状態

封筒の表

封筒の裏

〔本文〕
アンベールにて、1915年4月11日
   いとしいジェルメーヌへ
 4月15日にアンベールを出発することになったので知らせようと思い、一筆書くことにする。向かう先はわからないが、出発前にどこに向かうのかわかったら知らせよう。それができなかった場合は、わかり次第、知らせることにしよう。
 いずれにせよ、心配しないでくれ。私自身、心配していないのだから。唯一困ったのは、ずっと雪が降っていて、寒いことだ。100 km離れたところからのキスを受けとっておくれ。
 夫より (サイン)

〔差出人〕
差出人 第104国土防衛連隊第4大隊第1中隊第2小隊 ベルトラン・ブエ
ピュイ=ドゥ=ドーム県アンベールにて

〔宛先〕
タル=ネ=ガロンヌ県
フィナン(*1)
針子 ブエ様

〔左上の紫の部隊印(女神座像)〕
第104国土防衛連隊
第4大隊

〔表面右上の日付印〕
ピュイ=ドゥ=ドーム県アンベール
15年4月11日21時

〔裏面の日付印〕
タル=ネ=ガロンヌ県
フィナン
15年4月13日5時

(*1)フィナン Finhan はフランス南西部、トゥールーズ方面にある人口1,300人弱(当時)の村。この村で、差出人の妻は針子(洋裁師、仕立て職人)として働いていたことがわかる。



1915年5月29日-ガリポリの戦いに赴く兵士への手紙

 次の手紙は、電報用紙とほぼ同じ形をした便箋を折りたたんで封をした、「カルト・レットル」の一種。差出人の所属する部隊印が2つ捺され、郵便料金免除で届けられている。

 この手紙の相手の「いとこ」は、宛先と本文から、おそらく南仏のぶどう栽培の農家出身で、「いとこ」の所属する部隊は現在は地中海沿いに駐留しており、ドイツ側についたオスマン帝国(トルコ)と戦うために、これから「美しい」地中海とエーゲ海を渡ってギリシア方面に派遣されようとしていることがわかる。そうした自分の運命を「いとこ」は前向きに受け止めているらしく、それに対する同感と慰めのような言葉がつづられている。
 つづりは相当間違っているが、字は読みやすい。
 以下の画像は、順に、紙を広げた状態(本文側)、折りたたんだ状態(表側)、同(裏側)。

広げた状態の内側

折りたたんだ状態の表側

折りたたんだ状態の裏側

〔宛名〕
ヴァール県サン=ラファエル(*1)
歩兵混合連隊 歩兵大隊 第4中隊 第1小隊
G. ガルーアン様

〔本文〕
   今日1915年5月29日
 親愛なるいとこへ
 君は兵隊という仕事をポジティブに解釈しているんだね。心配していないと言っているんだから。しかたないさ、なるようになるわけだし、時の流れに逆らわずに受けいれるしかない。くよくよしても仕方がない。やっとイタリアが腰を上げたから、少しは我々の負担が減るだろうし、作戦も大幅にうまくいくようになるだろう(*2)。君たちも出発しないですむかもしれないよ。たしかに美しい旅には違いないが、君たちにとっては、トルコ人に相まみえに行くよりも、フランスにとどまっていられるに越したことはないのだから(*3)。そこにとどまっていられたら、ぶどうの収穫のために故郷にも早く帰れるだろう。だって8月にはすべて終わるという噂だよ。そうしたら、我々はぶどうの収穫ができることになるんだから(*4)。
 そのよい日を待ちながら、君が元気に健康でいられることを願っている。私もいまのところ健康だ。
 心からの握手を送る。君のいとこより
           E. オジョー

〔差出人〕
第3歩砲兵連隊 第12中隊 第5作業班
E. オジョー 郵便区121

〔宛名の右の大きな青い印〕
第3歩砲兵連隊第12中隊

〔宛名の左の小さな印〕
主計及び郵便85
121

〔宛名の上の紫のペンと鉛筆の書き込み〕
第8中隊では不明(*5)

(*1)ヴァール県サン=ラファエル Saint-Raphaël は南仏の地中海沿いにある保養地。ここに「いとこ」の部隊が駐留していたことがわかる。
(*2)この手紙が書かれた6日前の1915年5月23日、イタリアが連合国側に立って参戦した。イタリア参戦の知らせを受け、フランスでは楽天的な雰囲気が蔓延していたらしい(「1915年5月25日-イタリア参戦」の葉書も参照)。
(*3)実際には、この手紙の書かれる前から、オスマン帝国(トルコ)を攻めるためにエーゲ海東岸のダーダネルス海峡に英仏軍が派遣され、「ガリポリの戦い」の一環として、すでに2月には英仏軍が海上からオスマン軍への砲撃を開始し、4月以降はガリポリ半島への上陸を試みた。おそらく「いとこ」の部隊も、こうした攻撃に加わるために派遣されようとしていたのだろう。
(*4)イタリアの参戦は大局的にはあまり影響を与えず、もちろん「8月にはすべて終わる」こともなかった。ぶどう農家出身の兵士の多くは、戦争中は「農業休暇」を得て一時的に故郷に戻り、農作業に従事して、また前線に戻った。ゆっくりとぶどうの収穫できるようになるまでには、大戦終了後の1919年秋まで待たねばならなかった。
(*5)この「~では不明」という書き込みは、配達に行った場所に受取人が見つからなかった場合に、郵便配達人(または軍の場合は郵便物担当下士官)が書き込んだ。ここでは、同じ筆跡と思われる紫のペンと鉛筆で書き込まれている。「いとこ」は第4中隊に所属していたのに、なぜ「第8中隊では不明」と書き込まれているのかはわからない(紫のペンでこの中隊名を書き損じていることと関係があるのかもしれない)。戦地に赴くにあたって、部隊の再編や所属の異同があったのではないかとも想像される。

 ガリポリの戦いについては、次の葉書も参照。

1915年9月18日-自転車兵と落下してくる「大鍋」

 次の手紙は、結婚して姓が変わった妹または姉に宛てて、「自転車兵」が書いたもの。当時は、馬に乗る騎兵と並んで、自転車に乗る自転車兵も活躍した。専用の自転車兵部隊が組織されたこともあったが、この手紙の差出人のように、おもに散発的に部隊間の連絡や偵察の役割を担った。
 差出人がいたフランス北東部の村は、最前線のすぐ後方にあり、この手紙に書かれているようにドイツ軍から多数の砲弾が撃ち込まれていた。当時の俗語で、ドイツ軍の砲弾のことを「大鍋」と呼んだが、「大鍋はところかまわず落ちてくるものだから、いちいち注意していたらきりがない」といった記述が注意を惹く。
 封筒の内側に文面を記すタイプの手紙(いわゆるカルト・レットル)で、電報用紙に似たような形をしているが、受取人が広げたときに紙が破れてしまっている。

広げた状態の内側

折りたたんだ状態の表側

折りたたんだ状態の裏側

〔差出人〕
クレマン・ブーサック
歩兵第76連隊
第9大隊参謀部自転車兵
第36中隊 郵便区163

〔本文〕
   ムーズ県ヴィエンヌ=ラ=ヴィル村(*1)にて、15年9月18日
   いとしいマドレーヌへ
 昨日、うれしいことに、かわいらしい小包が届き、とても喜んだ。みんな元気だと知って、うれしく思っている。こっちも元気だ。ついているんだなあ、おれは自転車兵で、大隊の少佐のお付きとなっている。それほど忙しくなく、大隊の軍曹か少佐にしか用事を頼まれない。夜もゆっくりすることができる。今後どうなるかはわからないけれどね。
 きのう、財布の中に懐中時計を入れたまま寝たら、ガラスと2本の針をこわしてしまったんだ。気分が滅入ってしまったが、なるべくおまえの指輪(*2)を急いで仕上げることにして、指輪と一緒に懐中時計も送ることにしよう。ガラスと針を取りつけてもらってくれ。時計を置く台はとてもいい具合で、非常にすてきだ。どうもありがとう。できれば、タバコを入れてくれると有難いんだけれど。こっちでは手に入らないから。
 このあたりは大鍋がたくさん落ちてくるんだが、いまのところ、ついているんだな、被害をまぬがれている。昨日も30 m離れた道路に大鍋が落ちてきたが、運よく当たらなかったよ。アルミがないか探しにいったんだが、信管は見つからなかった。アルミを見つけるために軽はずみなことはしないでくれというのは、もっともだけれど、わかってくれたらなあ。あまり注意はしないものなんだよ。だって、いちいち注意してたら大変だからさ。砲弾はところかまわず落ちてくるんだから。まあしかし、たしかに軽はずみなことはすべきではないがね。
 いとしいマドレーヌ、家にいるみんなにキスをしておくれ。小さな甥たちにも忘れずに。あとは、もうとくに書くことはない。カイリエール家のご婦人方(*3)によろしく。最後に、おまえに強くキスをする。

〔左側の縦の書き込み〕
それではまた。よくおまえたちのことを考えている兄より(サイン)

〔宛名〕
セーヌ県
クルブヴォワ(*4)
マルソー通り89番地
P. カイリエール奥様

〔左上の書き込み〕
F. M

〔部隊印〕
主計及び郵便163
15年9月18?日

〔到着印〕
セーヌ県クルブヴォワ
15年9月21日

(*1)ヴィエンヌ=ラ=ヴィル Vienne-la-Ville はフランス北東部マルヌ県の東端にある村(差出人は誤って「ムーズ県」と書いている)。この村のすぐ東側がムーズ県となる。
(*2)当時の兵士の間では、アルミ片などから指輪を作って妻や女性に贈ることが流行していた(「兵士Aの手紙の23通目-蓄音機とステンドガラスの指輪」を参照)。
(*3)受取人(マドレーヌ)の義母などを指すと思われる。
(*4)クルブヴォワ Courbevoie はパリの北西隣にある街。



1915年10月12日-前線から贈るペーパーナイフ

 次の手紙は、前線の兵士が、手作りしたペーパーナイフを入れた小包と同時に、後方の知人に送ったもの。
 当時、前線の兵士の間では、アルミ片を切り出して指輪を作ったり、砲弾の外側の真鍮でできた筒の部分(弾薬筒、薬莢、実包とも呼ばれる)を伸ばして平らにしてペーパーナイフを作ることが流行していた(Cf. 兵士Aの手紙の23通目1915年9月18日の手紙も参照)。こうした指輪やペーパーナイフは、現在でもフランスの骨董屋に行くと数千円で売られていることがある。
 文体は、簡潔ながら礼儀正しく、正確で、教養がうかがわれる。宛先はマルセイユの銀行の副支店長宛となっているが、戦争前は、もしかして同じ銀行に勤務していた部下だったのかもしれない。副支店長は、おそらく年を取っていて、徴兵されなかったのだろう。

広げた状態の内側

折りたたんだ状態の表側

折りたたんだ状態の裏側

〔差出人〕
M. パノテ
歩兵第111連隊第9大隊
第33中隊 郵便区129

〔宛先〕
マルセイユ
サン=フェレオル通り59番地
国立信用銀行 副支店長
フォルマン様

〔部隊印〕
主計及び郵便129
15年10月12日

〔本文〕
 突然失礼いたしますが、この同じ便で、ドイツ野郎どもの弾薬筒を使って作ったペーパーナイフが入った小さな小包をお送りいたします。刃の部分も77mm砲(*1)の薬莢でできています。
 前線のささやかな記念の品です。ユニークなものですので、お気に召していただけるとよいのですが。
 お元気でいらっしゃることを願っております。私のほうは、とてもきつい任務ではありますが、なんとか元気でやっています。
 私の心からの敬意をお受けとりいただけますよう。敬具
           (サイン)
M. パノテ
歩兵第111連隊第9大隊 第33中隊 郵便区129

(*1)当時のフランス軍の主力は75mm砲だったが、ドイツ軍では77mm砲が使われていた。



1916年7月15日-ヴェルダンでの想像を絶する苦しみ

 次の手紙は、A4 よりもひと回り小さな紙を6つ折にして表に宛名を書いた、いわゆる「カルト・レットル」と呼ばれるもの。本文には、想像を絶する苦しみを味わっていることが書かれている。差出人のいる場所は軍事機密なので手紙には書かれていないが、差出人の所属する歩兵第252連隊の「連隊史」を調べると、当時この部隊は第一次世界大戦最大の激戦地として知られるヴェルダンに展開していたことがわかる。とすると、この差出人の言うことは、まったく誇張ではなかったことになる。
 なお、この手紙が差し出されている両親は、当時ヨーロッパ最大の絹織物の産地だったリヨンに近いところで養蚕業を営んでいたことが、本文と宛先からわかる。

広げた状態の内側

折りたたんだ状態の表側

折りたたんだ状態の裏側

〔本文〕
   1916年7月15日
  ご両親様
 塹壕から戻り、お二人の最新の手紙を受けとりました。引き継ぎは何とか無事に終わりましたが、またしても多くの犠牲者を出しました。というのも、お察しのことと思いますが、現在われわれのいる戦区は屈指の劣悪なところだからです。ここに来たことのない人は、人が抱く肉体的・精神的な苦しみの何たるかを想像することはできません(*1)。
 この最後の引き継ぎ以来、私はまた再編された音楽隊に配属になりました。その資格において、担架兵となっていますが(*2)、安全という点では、中隊にいたときと同じくらい劣悪です。第一線で負傷した兵を、救護所まで運ぶからです。言っておきますが、これは楽しいものではありません。
 私の住所は次のとおりです。歩兵第252連隊 本隊外小隊 音楽隊 郵便区120
 この手紙を受けとられたら、折り返し次の手紙で30フラン送ってください。もうお金がありませんので。休暇に関しては、まだ私の順番ではありません。17日に塹壕に戻りますが、大荒れになりそうです。私はうまく切りぬけられることを期待しましょう。
 蚕が卵を産む時期になりましたので、お仕事が楽になっていると思います(*3)。諸般の事情から予想されるように、

〔上部余白〕
戦争がまだ長い間続くのだとすると、卵は少なめにしたほうがよいのではないでしょうか。
 よい知らせを詳しくお伝えいただけることを待ちつつ、皆さんの息子、弟、叔父からの抱擁をお受けとりください。
   サイン(モーリス・ショーヴェ?)

〔左側余白〕
 マルセルには会えませんでしたが、お互い近い場所にいます。探してはいるのですが、まだあいつの砲兵中隊の居場所がわかりません。

〔宛先〕
ドローム県ビュイ=レ=バロニー(*4)
地主 フェリックス・ショーヴェ様

〔差出人〕
ショーヴェ、歩兵第252連隊
本隊外小隊 郵便区120

〔表面右上の部隊印〕
16年?月?日
主計及び郵便46

〔裏面の到着印〕
ドローム県ビュイ=レ=バロニー
16年7月19日

〔ペンでの書き込み〕
7月18日受取
20フラン送付済(*5)

(*1)差出人の所属する歩兵第252連隊は、当時、フランス北東部ヴェルダンで戦っていた。この手紙の書かれた前月の1916年6月下旬には名高い304高地の守備につき、ドイツ軍の激しい砲撃により、同連隊だけでも数日間で死者・行方不明者150人以上、負傷者150人以上を出した (Historique du 252e régiment d'infanterie, p.14)。
(*2)当時、音楽隊は担架兵も兼ねていた。
(*3)このあたりの記述から、差出人の実家は養蚕農家だったことがわかる。これに関して、養蚕について研究しているフランス人から直接教示を得たので、以下に記しておく。
「蚕(かいこ)が卵を産むのは年1回で、その間は、養蚕農家は卵がかえるのを待つ以外に特に仕事がない。しかし、ひとたび卵がかえると、毎日、蚕の餌となる桑の葉を収穫する必要がある。1日に3~4回、新鮮な桑の葉を与え、古くなった葉を回収し、蚕が小さいうちは葉を細かく刻んで与える必要がある。これに比べれば、卵の孵化する時期は楽である。戦争中は、若い男は戦争に行き、女性も軍需工場に駆り出されたから、桑の葉を摘む人手が足りず、たくさん卵がかえっても餌をやることができない。また、戦争中は絹織物などの贅沢品を買う人はほとんどいなくなるから、生糸(絹)の需要も減る」。
(*4)ビュイ=レ=バロニー Buis-les-Baronnies はフランス南東部ドローム県にある人口1,800人程度(当時)の街。リヨンにも近い。
(*5)この黒いペンは、この手紙を受け取った親が書き込んだもの。「R」は Reçu (受け取り済み)の略で、当時はこのように葉書や手紙を受け取った日付を書き込むことも多かった。また、本文で「30フラン送ってください」と書かれていたのを受け、20フラン送ったことがわかる。「地主」とあるので、かなり裕福だったのだろう。そういえば、この手紙の文章は、差出人が相当高い教育を受けていることを示している。



1917年6月21日-「夫を返せ、さもなくば革命を!」

 次の手紙は、怪我または病気によって「兵役不適格」となり、フランス南西部ボルドー郊外にあるバッサンスの火薬工場で労働者の監督をしていた差出人が、見聞したことを故郷に住む知人に書き送ったもの。
 戦争3年目となる1917年春、ニヴェル将軍が敢行した「ニヴェル攻勢」がおびただしい死傷者を出したのみで完全な失敗に終わると、人命を軽視して無意味な突撃を強いるだけの軍司令部に対する兵士の不平不満が爆発し、多くの部隊で兵士たちによる上官への命令不服従(特に前線に赴くことへの集団拒否)が頻発していた(その後、ニヴェルの跡を継いだペタン将軍が兵士の待遇改善に取り組み、夏には不穏な動きは収まることになる)。
 銃後でも、戦争による物価の高騰(インフレ)が人々の生活を圧迫し、フランス各地の工場で労働者が賃金の引き上げを求めてストライキを起こしていた。ストの参加者数は、公式の記録でも1917年で合計30万人弱とされているから、実際にはもっと多かったと考えられている。折から、ロシア革命(二月革命)が勃発し、これに便乗してフランス国内でも社会主義者や共産主義者が「革命」を煽る動きを見せていた。
 次の葉書は、こうしたフランスが危機的な状況に置かれていた時期に書かれたもので、長びく戦争により、兵士の間でも、民間の労働者の間でも、厭戦気分が蔓延していたようすがよくわかる。
 いわゆる「カルト・レットル」の内側に便箋が貼りつけられ、合計5ページにわたって書かれている。

表紙

1ページ目

2-3ページ目

4-5ページ目

〔差出人〕
A. スルジャン(*1)
植民地歩兵第7連隊
衛兵隊
バッサンス国立火薬工場(*2)

〔宛先〕
J. フィット奥様
(公証人)
ランド県 ヴィルヌーヴ=ド=マルサン(*3)

〔本文〕
 いただいたお手紙は、思いがけない喜びを与えてくれました。お手紙は、厚みがある上に、「公証人」という文字が入っていたので、当番の上等兵は「この手紙で、少なくとも400フランは入ってくるぞ」などと言って私に手渡しました(*4)。
 上等兵の値踏みは外れていました。お手紙には、ヴィヴィアニ大臣の金言(*5)が書かれていただけでなく、とりわけ私に「兄弟のような」友情を抱いているという言葉があらためて記されており、それは私にとって値段のつけられないものだからです。
 静かな私の持ち場で、ヴィヴィアニの言葉を読みました。すばらしいと同時に、とても的を射た言葉です(そこが肝心です)。また、時節柄ぴったりの言葉でもあります。こちらでも、フランス人が深刻な危機に見舞われているのがわかります。前線の兵士についても私は情報を得ています。後方の人々には毎日会っていますが、彼らももう、うんざりしています。彼らはどのような平和でも受け入れるでしょう。もしドイツを打ち負かさなかったら、私たち全員にとって非常に恐ろしい未来が待ち受けているかもしれないのに、そうしたことについては考えもせずに。
 私は、前線に戻っていく休暇中の兵士たちを乗せた電車の中で、フランス人らしからぬ叫び声を聞きました(*6)。ああ、無理もありません、もう、うんざりなのです。長すぎるからです。耐えるだけの十分な士気がないのです。かといって、女性たちが士気を与えてくれるわけでもありません。ボルドーでも、女性たちは赤い旗を持ち、「夫を返せ、さもなくば革命を!」と叫んでデモをしていました。もし本当に1か月でも夫を返したら、私たちはドイツ皇帝の従僕になってしまうでしょう、そうしたらすぐに女性たちは戦争を望むはずです。女性たちはドイツの苛酷な「懲罰」の何たるかを知らないのです。
 私はやっと「兵役不適格」と宣言されましたが、あいわらず非常に元気です。見張り役はもう2時間連続となっていますが、疲れることもなく、もう眠る時間もないほどです。それに、こうした状況では、眠っているわけにもいないでしょう。仕事が非常にきつくなっていますから。サン=メダール(*7)のデモ隊がバッサンスの労働者を引き抜きにこないかと心配しています。そうしたら私たちにしわよせが来ますから。私たちはもう兵舎から抜け出せなくなっています。新しい命令がでるまで、休暇もお預けです。日曜にはヴィルヌーヴ=ド=マルサンに帰ろうと思っていたのに。しかたありません。でも、本当に、そんなことは気にしていませんし、一日中、笑ってすごしています。
 ご子息は、学業のさなかに動員されて「1916年を戦った元兵士」となられることでしょう(*8)。あなたにとっても、ご子息にとっても、そうなることを願っています。
 お子さんたちをヴィルヌーヴにつれてこられたのは正解ですね。そろそろお子さんたちの百日咳が抜ける頃ですから。
 もっと早くお返事を差し上げなかったことをお許しください。こちらでは、したいことができませんので。重ねてお礼を申し上げます。お二人にキスをします。愛情をこめて    アルフォンス

(*1)差出人のアルフォンス・スルジャンは、戦争終結の2か月後の1919年1月13日、34才で死亡した記録が残っている。本文中に「兵役不適格」と宣言されたと書かれているから、怪我または病気を抱えていたと思われる。差出人欄と本文から、ボルドー郊外にあるバッサンスの火薬工場で労働者の見張り役をしていたことがわかる。
(*2)バッサンス Bassens はフランス南西部の港街ボルドーの郊外にある工業地区。ここにある火薬工場では、フランスの植民地だったアフリカ(アルジェリア、モロッコ、チュニジアなど)やインドシナから動員された人々が多数働いていた。
(*3)ヴィルヌーヴ=ド=マルサン Villeneuve-de-Marsan はボルドーの南数十kmにある街。残されている妻宛の他の手紙から、戦争前は差出人はここに住んでいたことがわる。
(*4)「公証人」は遺産相続や贈与のときに書類を作成するのが役割。公証人からぶ厚い手紙が来たことで、多額の財産が転がりこんできたのではないかと「当番の上等兵」は想像したわけである。
(*5)ルネ・ヴィヴィアニ René Viviani は、当時の大統領レイモン・ポアンカレのもとで、開戦当初(1914年6月13日~1915年10月29日)は首相(当時は正確には「閣僚評議会議長」といった)兼外務大臣を務めていたが、その後(1915年10月29日~1917年9月12日)は首相の座をしりぞいて司法大臣となっていた。ヴィヴィアニの「金言」がどのような内容なのかは不明だが、最後まであきらめずに戦い抜くように呼びかけるような言葉だったのではないかと想像される。
(*6)当時は、兵士たちが大勢で殺気立って「戦争やめろ」などのスローガンを叫び、上官たちも制止できずにいたという記録が見られる。ほとんど軍としての秩序が崩壊しかけていたわけである。
(*7)サン=メダール=アン=ジャル Saint-Médard-en-Jalles は、フランス南西部ボルドー近郊にあり、ここには17世紀後半にできた火薬工場があった。当時は、やはり多くのフランス植民地出身者が働いていた。
(*8)まもなく戦争が終わり、「1916年を戦った」兵士が無事に故郷に帰還して「元兵士」となることを願っているわけである。





(追加予定)













aujourd'hui : 2 visiteur(s)  hier : 3 visiteur(s)

powered by Quick Homepage Maker 5.3
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional